子どもの問題は親が悪いという風潮に反論する思考実験。~原因を責めず、過去に学ぼう~

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ご覧いただき誠にありがとうございます。
みーこです。

最近は不登校の子が増加傾向にあるというニュースを見ますが、
それに伴って、家庭や親に問題がある、学校に問題がある、といった、
悪者を攻撃するような見出しのニュースや記事も目にするようになった気がします。

私自身、中学校の2年間の間不登校児でした。

学校に行くことができないばかりか、家から外に出ることができない状態で、毎日のようにどうやったら楽に死ねるかということばかり考えていました。

ですが、よくよく思い出してみると、ご飯はしっかり食べていましたし、
毎月母が買ってきてくれていた少女漫画(りぼん、なかよし、ちゃお)や、
深夜に放送されていたエヴァンゲリオンやバラエティ番組を楽しみにしていましたので、不登校時代に人生に楽しみがなかった、というわけでもないようですし、本当に死にたかったわけでもなかったようです。

今考えると、毎月少女漫画3冊買ってもらえていたのは、
とても贅沢な環境だったのではないか、とも思えます。

不登校の間、学校に行くことが苦しかったことに違いはありませんでしたが、その根本には、生きることに対する苦しみ、生き辛さが常につきまとっていました。

人とどう関わったらよいのかわからず、人と関わることが苦しい。
普通の人と同じようにふるまうことができない自分はだめな人間である。
どうしたら自分が存在していることに対する苦しみが消えるのか。
そんなことを自問自答し、生きる苦しみに苛まれ続けていたように思います。

私が不登校だったのは、学校に行くことが辛かったのは、生きる苦しみの延長線上に上がっている症状だっただけではないか、と思います。

当時は親になぜ私を産んだのかと恨む気持ちを持っていましたが、今となっては産んでくれたことに感謝しています。

私の話はこのくらいにして、学校に行けない不登校の子どもに対し、なぜ学校に行けないのか原因を探ることは確かに大切だと思います。

しかしながら、昨今は『不登校の原因=悪』と捉える風潮が強いように感じており、不登校を解決するための方法が子ども自身やその家族、学校の関係者を苦しめているのではないかと思うところがあったため、私の私見を述べさせていただきたく執筆しております。

特に、不登校の原因が家庭・親にあるとした風潮に対し、問題提起をしたいのです。

確かに、幼少期の子どもと親との関係は、子どもの一生に関わるほど大切なものではあります。

親が子どもと関わらず寂しい思いをさせた。
子どもに干渉しすぎて自主性が育たなかった。
子どもを否定する言動で自己肯定感が育たなかった、など、
親としては一生懸命子どもを育てているつもりでも、
結果的に子どもの心の成長を妨げるような関わり方をしてしまっていた、というケースはあるかと思います。

ですが、親子関係を表す言葉として、「虐待の連鎖」という言葉もあります。
親から虐待を受けて育った子どもが親になった時、自分の子どもにも同じように虐待をする、という言葉です。

実際、虐待を受けた子どもが親になって虐待を繰り返すケースは、研究データによって差異があるようではありますが、3割~5割だそうで、虐待を受けた子どもが必ずしも虐待を繰り返すと断言できる数字ではないのかもしれません。

だとしても、虐待を受けずに育った子どもが親になって虐待をするケースのほうが多いのかというと、もしかしたら自分が親から虐げられたという認識がなく、子どもに期待するあまり虐待をしてしまうケースも含まれるかもしれません。

ここから、親子関係に対する2つの考え方が導き出されます。
1つは、親を育てた親にも問題があり、それが継承される可能性があるということ。
もう1つは、親を育てた親に問題があっても、それが継承されないケースがあるということです。

つまり、親子関係に問題があっても、親の行動に問題があっても、それが全て子供に対して悪影響を及ぼすかどうかは一概に言えない、ということです。

この2つの違いはなぜ生まれるのでしょうか。
それは2つの要因があると私は考えます。
1つは、親であれ子であれ、個人一人ひとりの在り方がどうあるかということ。
2つめは、生きている間に適切なケア、癒しを受けられたかどうかということです。

そもそも人間は、自分の思い通りにならない地球環境に適応して生きていけるようにできています。
詳しく書くと長くなるので省きますが、生き伸びる中で必ず「苦しみ」や「辛い出来事」があるという前提で生きていけるような仕組みを持っているのです。

詳しく研究されたデータを探していないので、私自身の考察にはなってしまいますが、どんな人であっても、いつでも今この瞬間から、ある程度の範囲の中で自分自身をを変えることができる、というのが私の持論です。

この自分自身を変える変化には限界はあります。
どんなに願っても「人間」が「鳥」に変わって空を飛ぶことはできません。
その代わり、パラグライダー、ハンググライダー、気球、バンジージャンプなど、疑似的に鳥のように空を飛ぶことはできます。
どんなに願っても、大富豪の社長令嬢に生まれ変わることはできませんが、たとえ大富豪になれなくても、大富豪の社長令嬢以上の豊かさ、幸せを生み出すことはできます。

生まれ持った個性、生まれ育った環境、過去に経験したことというのは、今これからの在り方によって、変えることができる範囲の中で自由に変えていくことができるのです。

そもそも、不登校がなぜ問題なのかということを考えてもいいと思います。
不登校であること、学校を卒業できないこと、学歴がないことで、ある一定のハンデを背負うことになることは、事実として認めなければいけないことではあります。

私自身、時々普通に友達とわいわい楽しく過ごす学校生活ってどんな感じなんだろうと羨ましく思うときも正直あります。

ですが、今この瞬間を楽しく過ごすことはできても、過去に戻ってやりなおすことはどうしてもできません。

この「過去にもどってやり直せない」からこそ、親や先人は私たちに「こうあるべき」と伝え導きたい思いが生まれるのです。

苦しい人生を歩んでほしくない。
すなわち、将来困ることがなく、幸せに生きてほしい。
相手の幸せを願う、相手を愛する思いゆえに、相手の意思を変えようとしたり、相手を否定したりすることがあるのです。

少し話はそれましたが、つまるところ過去にどんなことがあったとしても、これからの関わり方でどうにでも変えていくことが出来、それが人間が持つ無限の可能性の根拠となる本質なのです。

しかし、周りがどんなに関わり方を変えても、そこに「本人の意思」が伴わなければ目に見える変化として現れることはありません。

あまりよくない例えではありますが、同じいじめを受けたとしても、環境が変わって乗り越えることができる人もいれば、環境が変わっても苦しみに苛まれてしまう人もいます。
(そもそも同じいじめというのは存在しないのですが、あくまでも例えとして挙げております。)

同じいじめを受けて不登校になったとしても、いじめの苦しみから抜け出せずにいる人と、いじめられたことはもう過去のこととしてとらえつつある人に対しては、それぞれケアする方針が違うのではないか、ということは容易に想像できることです。

どんなに適切なケアができる環境が整っていたとしても、「本人の意思」がそこに向かうかどうかとは別のことなのです。
ただ、個人と環境は密接にかかわっていることですから、周りの影響で本人の意思が変わることはあります。

まとめますと、本人に変わりたいという意思が生まれた時に、適切なケアができるかどうかも重要ですし、本人が変わりたいと思えることを待つことも重要ですが、周りの関わりによって本人の意思が変わることもありますので、何が正しい、何が良いということは結果でしかわからないといえますね。

さて、ここからは不登校の原因が親であるという風潮を深く掘り下げてみましょう。

子どもが不登校になったのは親に原因がある、というのであれば、その親を育てた親にも、さらにはその親にも、ずっと先の親まで原因があると言えるでしょう。
そうなると、不登校の子どもを持つ親自身も、その親に問題があり、親子関係に問題があった被害者と言えるのではないでしょうか。
学校、先生、環境に原因があるいうのでも同じことです。
これまで積み重ねてきた社会としての在り方に問題があると言っていることと同じ意味を持ちます。

では、子どもが不登校になったのは親に原因がある、その親は関係ないとした場合はどうでしょうか。
その場合は、親に問題があったかどうかを検証しないことになります。
親を育てた親は関係ない、子どもを産んだ時点で親は正しい子育てができなければならない、というのであれば、生まれ育った環境がどうであっても正しい子育てができるようになれるという考えがなければ成立しません。

つまり、子どもが不登校になったのは親に原因があり、育てられた親は関係ないと考える場合は、どんな環境で育ったとしても、いずれ正しい子育てができるような親にならなければいけないということであり、親にある原因が子どもの不登校に悪影響を及ぼすということにはならないわけです。

言い換えるならば、不登校の子どもであっても、生きて育って親になる頃には正しい子育てができる親になっていなければいけないということになり、今子どもが不登校であることに対し、親に原因があったとしてもそれは関係ないということになるわけです。

子どもに問題があるのは親が原因だという場合は、親も子どもだったわけですから、親の親がどうだったかも必ず関わってくることになります。
親の親に問題があると考えたとしても、親の親には問題ないと考えたとしても、どちらであっても子どもの親が悪いと決めつける要因にはならないのです。
なぜ学校に行くことが苦しいのか、なぜ生きることが苦しいのか、子ども自身の想いに向き合う中で「親が嫌だ」「学校が嫌だ」「先生が嫌だ」「友達が嫌だ」「兄弟が嫌だ」「家族全体が嫌だ」というような、何かに対する不満が出てくることは間違いないでしょう。

しかし、私たち大人が子どもと同じ目線で「それは悪い」と誰かを責めていいのでしょうか。

子どもを守るために、誰かを悪者にして傷つけてよいのでしょうか。
親だって、先生だって、誰だって人間は完璧ではありません。
生まれてから死んでいくその瞬間まで、一人ひとり歩む人生は違います。
死ぬ瞬間の想いは違います。

良い悪いというのは、私たち人間が集団で社会性を保って生きていく中で、ある程度多くの人が生きやすくなるために比較して定義される概念でしかありません。

原因を探ることと、問題を解決に導くことは違います。

何かを変えるにしても、「親に問題があるようですから親が変わりましょう」というよりも、「親が変わることで子どもさんに何かいい変化があるかもしれませんからやってみましょう」と言い換えたほうが、お互いポジティブに変わっていくことができないでしょうか。

もし、「暴力」や「自傷」など、命にかかわるような危険な事象が発生している場合は、悠長なことを言っていられないかもしれません。

どんな関わりやケアをしようとも、社会で適応して生きていくことが難しい人、一緒にいることで命の不安に脅かされるような人が存在することは確かです。

私自身、自分より体格も力も大きい人に、目の前で暴力を振るわれそうになっている状況で、「あなたも傷ついているのね」と言える自信はありません。

ですが、世の中に発信する情報として、「〇〇が悪い」と一概にくくることをやめることはできると思うのです。

安全な場所にいる人や、関係ない第三者として、何かを批判することは簡単ですが、そうすることで傷つく人たちがいるかもしれません。

人間が生きる本質は、過去に学び、未来を夢見て、今を生きる、これに尽きると思います。

過去や原因は批判して糾弾するのではなく、未来のために学ぶこととしてとらえるだけでよいのではないでしょうか。

ただ情報に流されて思考を停止するのではなく、私たち一人ひとりが、今生きていることにしっかりと向きあい、これからの人生を楽しんでいく、そんな未来になればいいなと心から思っています。

ここまで読んで頂き誠にありがとうございます。
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