神無月とシュレディンガーの猫

記事
占い
神社大好き白猫メオです

子供の頃毎日のように神社で遊んでいたからかもしれません。
ロクなことしてなかった気がするんですが(´⊙ω⊙`)
きっと神様は子供に優しいはずだから許してくださっているでしょう

さて10月は神無月、全国の神様が出雲に集まり縁結び会議を行うため
日本中の神社に神様不在、と言われる月です。

お参りに関するご依頼を頂き、少し気になったので調べてみたのですが、
下記のような説があり、結論神無月にお参りしても無問題のようです。

1)神無月=旧暦神奈月なので問題なし
旧暦は年によって違うんですが、大体西洋暦の10月とは、
旧暦の8月後半〜9月後半のようです。
なので西洋暦10月=神無月じゃないってことですね。
この説ですと11月〜12月頭が神無月ということになりそうです

2)神無月でもお留守番はいる
御神体や御神木が神様に変わり、願い事を聞いてくれるそうです
西洋暦10月でも旧暦10月でも、もし気になる場合は
御神木などにもお参りすると良いですね


私は占いなんかやってるけども、
神様も鬼も自らの中に宿ると思ってますので、
そんなに信心深いわけでもなく縁起を担いだりもあまりしません。

だけど神社に行くのは超スッキリするので大好きです٩( 'ω' )و

現実的に考えると巨木や樹齢の高い木などを含め、
森のような木に囲まれているので森林浴的な効果があるからなのかもしれませんが、並木道や公園などとはまた違ったスッキリ感があるような気がします。

恐れ多くも神様の御前に、このような適当感覚で行っていいのかとか
思ったりするんですが、私にとって神様とは、親戚のおじいちゃんおばあちゃんみたいな感覚で、好きな時に会いに行ってOKな存在ってことになっています。

どうしても叶えたい願望があったり、御祓などの神頼みをする場合は、
神様の前に自分をさらけ出してこの私をお助けくださいと全身全霊でお願いしたり、お助けを頂くからにはこうしますみたいな誓いだったりが必要なのかもしれないですが、そうでもない場合は私のように精神の銭湯気分で行ってみたり、神様にご機嫌伺いにいく感覚で行ってみてもいいんではないか、
などと思ったりします。

物理学でシュレディンガーの猫という話があり、
五分五分の確率で毒ガスが発生する・しない可能性がある箱の中に猫を入れた場合、その猫の生死は箱を開けて見るまでわからない(死んでる確率50%と死んでない確率が50%同時に存在する状態)という話なんですが、
死んでるにせよ生きてるにせよ、箱を開けるという行為がなければ決定されないわけで、”五分五分で生死の可能性どちらもある猫”というのは、
もっと言うと上記のような仮定を想定しない限り存在しないんです。

意識を向けることで初めて”箱の中で運命に翻弄される猫”というのが出現するってことになるんですけど、
私にとっては神様とはこういう存在です。

まず意識を向けることで初めて神様という存在がいる世界とつながるんじゃないかと思うので、意識を思いっきり向けることになる神社に足を運ぶというのは、神様というものが存在する世界に近づくこと、ということになるのでは、
なんて思ったりしています( ´ ▽ ` )

上記のシュレ猫は引き寄せなどとも関連が深い量子力学の中の思考実験なんですが、意識することで初めて現実になる、というのは他の場合でもよく感じることが多いです。

人間知らないことは願ったり神頼みすることもできないんですよね
知らないことならある程度仕方ないと諦めることもできるし、
その世界線にはそもそも”生死の確率五分五分の猫”は存在すらしないので
あろうがなかろうが自分には関係ないことになりますが、
問題は”知ってるつもりが存在を意識してないこと”だと思います。

幸せになりたい・・と思わない人はいないと思いますが、
じゃあその幸せって何?と言われて即答できるかどうか
即答できるとしてもどこまで深く掘り下げてるのか

なんとなく漠然と捉えている人には箱すら見えないのかもしれません。

自分にとっての幸せとはを掘り下げれば掘り下げるほど、
箱が見える→箱の中に猫の存在を感じる→その猫の生死が五分五分であると知る→箱を開けてどちらの可能性も持つ猫の運命を決定づける決定者となるのかどうか問題
など、存在の重みがどんどん増す=現実になる ってことなのかもしれないですね





どうでもいいですが

猫生きろッ・・・(´⊙ω⊙`)・・・!!!

話はそれからだ、などと思う猫好き占い師・白猫メオでした。


サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す