こんにちは皆様。
二日続けて晴れ、こんな日には洗濯をしなきゃ、シーツやベットパットなどの大物も洗っている。
テレビで芸人さんがシーツは普通毎日洗うもんやろと言っているのを聞いて、いやー毎日洗っとったら大変やでと思う。
私はせいぜい週一だ、それも梅雨時期は出来ない、毎日シーツ洗うってどんだけすごいのよ、ド.ン.ダ.ケー。
普通の人は毎日洗っているのかな?
そもそも普通って、標準的って何?シーツ洗いを毎日するのは良い事なのは解っている。
だけど誰もが出来る訳じゃない事は、普通じゃないんじゃ無いかな、標準って言葉も何処を基準にしているのか判らない。
言葉には曖昧な部分が沢山なのです、そんな曖昧さを内包しながら私達は言葉を使ってる。
曖昧さは時に優しさになって、時には刃になる、そこに基準が有る限り基準外は受け付けない。
中学生くらいの時、母は私をちょっとだけいい学校に入れて、結婚させるのが良いと思っていたみたいで、本を読むより勉強しなが口癖だった。
父は自分のしたい事を自由にしろとは言ったものの、ある日本音を言ってくれた。
「俺はな、お前に普通に結婚して、子供産んで生活して貰うのが一番やと思っている。」
そうなんだー、でも普通にって何?結婚しなきゃいけないの?子供が出来なかったらどうするの??????????
私は結婚して、子供も4人産んで、生活している(今は離婚して娘2人と生活しているにだが)。
それだけ言うと普通かも知れないが、生きてきた時間は人とは違う時間、その中に普通の入り込む余地は無かった。
近所の奥さんやPTAで出会った人たちも、実に多種多様で、皆標準や、普通では括るのは無理だ。
人はもともと多種多様で、それを一括りにするのは出来るわけが無い、基準や普通の概念も概念であって、それが正しい物なんてどこにもない。
母が良く言った言葉に、「はよ子供を片付けやんと大変や。」が有る。
これは基準的な年に結婚をさせようって意味だけど、私はこれが大嫌いだ、私って片付けられたの、こんまりさんもビックリな片付けなのである。
私の母はときめいていたのかな?
人間は普通や基準でくくれない、もっと自由にもっと楽に生きていい存在なのだと思う、
いつも、有難う御座います。