自分の結果は自分の中に

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こんにちは皆様。

中小企業を経営していると、何度か方向性を変える選択肢が出来てくる時が有る。

結婚していた時、夫の会社は製造業で、電磁鋼板を打ち抜いてモーターやトランスの部品にする仕事だった、電磁鋼板は電磁部品に使われていて無くなるなズも無く、そんな意味では斜陽産業ではなかった。

その頃、世は中国移管ブーム、何で人は自分は汗かかないで利益を上げれると思うかなー?

欧米が精神的には植民地の感覚で、第二次産業をアジアの国に放り投げたのを見て、ほんの少し金持ちになった日本の製造業が真似をした。

その時期はそう思っていたのですが、実は経産省の指導が有ったそうなのです。

「何時までここで同じ仕事をしているつもりだ、日本は子供が減って、生産も市場も無くなっていくんだ、必要なお金は銀行に借りればいい、借りられないなら声を掛ける」

上の様な言葉を浴びせられて、借り入れはしたくないが、国の機嫌を損ねるよりはと、中国進出を決めたと教えてくれた役員がいた。

日本から製造業を無くして国はどうするつもりだったのか?

私には解らないが、中国に行く親会社に付いて行かなかった下請けは皆大変な思いをして、辞めた所も多かった様だ。

中国進出が悪いわけでは無い、市場の傍で生産する方が理にかなっている、しかし国内の需要分も含めて持っていってしまったら、そこには何も残らない。

リスク回避のために設備を日本にも残している企業しか、生き残って無いのじゃないかと思う。

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我が社は親会社の売る上げの外に、違う大手の下請けと繋がっていて、そこから受注を貰っていたから、首の皮一枚で繋がっていた位。

家内工業化して家族だけでやっていたのと、子供が全員大学を終えていたので、それでも何とかなっていた。

その時に違う製品を売りたいと考えて、竹炭を売りたいと考えて、産業支援センターに経営革新を認められたことが有る。

その仕事も販路の開拓や、材料の確保に難が有って、折角みとめたれたものの、それを順調に伸ばすのは出来なかった。

でも大変な思いをして津の産業支援センターに行って経営革新企業として認めて貰ったのは嬉しかった。

自分で書類を書いていたから尚更だ、してきた事の価値は会社って言う箱じゃ無くて、今でも自分の中に有るのだと思うと、良かったなと思う。

いつも、有難う御座います。


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