禅語:殺人刀活人剣(せ つ に ん と う か つ に ん け ん)

記事
学び
仏教は心の平安を説き、慈悲の心を教えるものだ。「殺人刀活人剣」などと耳にすると、”物騒な”という感覚をもつ。しかし、この言葉は禅の教えに深く関わるもので、ここで言う「殺人」とは、人の生命を奪ってしまう、いわゆる殺人とは違う。「殺人」も「活人」も、ともに禅の世界において修行者が身につけ、自由自在に使いこなせるようにしていくべき「働き」を指し、禅の世界では、「殺人」は必ず「活人」とセットとなる。
「殺人」つまり「殺す」という働きは、ひとえに「活人」つまり人を「活かす」ためのものだ。本当の意味において人を活かす「活人」の働きは、実はその前に、殺さなくてはならないものを殺しきる「殺人」の働きを必要としている。このことは、この言葉が「禅語」つまり、修行の現場における言葉である、ということを考えるとよくわかる。

「禅語」というのは、師匠が弟子を厳しく鍛え、あるいは修行者どうしが互いに真剣に向き合い、切磋琢磨していく中で生み出され、磨かれ、洗練されてきた言葉だ。「禅語」と呼ばれるものの中には、修行の現場から生み出されてきたオリジナルの独特な言葉もあれば、仏典はもちろん、『論語』や『詩経』『易経』、『老子』『荘子』、『春秋』や『史記』、『唐詩選』や『三体詩』、ともすれば民謡や俗謡、歌や都々逸のようなものまで含まれてきた。ただ、「禅語」として大切なことは、出典が云々、もとの意味が云々、ということではなく、生きた現場で使われ、結果として、修行に役立つか、修行者の気付きと成長、成熟円熟に寄与するかということに尽きる。

「殺人刀」も「活人剣」も、時と場合、相手によってその意味やニュアンスを変えて用いられるが、最も基本となるのは、要するに「殺人」とは「捨てる」こと、「捨てさせる」働きのことであり、「活人」とは「獲得する」こと、「手に入れ」て「わがものとさせる」働きを言う。修行をして行く上で何よりもまず大事なことは、自分の中にある迷いや欲望、執着を、一度は捨てきってしまうことだ。

自分をほんとうに根本から変えようと思うならば、自分自身に向けて本気で「殺人刀」をふるわなくてはならない。中途半端なことでは、なかなか自分を変えていくことはできない。だからこそ、師匠は弟子に向かって情け容赦なく牙を剥き、短所だけではなく長所すらも一度は奪い去ってしまう。本気で自分を変えようと思うならば、長所ですら、安住していてはいけないからだ。そこまで厳しくすべてを捨ててこそ、初めて人は生まれ変わることができる。「殺人刀活人剣」活かすというのはどういうことか、ほんとうの意味での「親切」とはどういうものなのか、深く考えさせられる言葉だ。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す