弓道とは神に会う手段である。

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コラム
 ドイツ人のオイゲン・ヘリゲルが書いた「弓と禅」は哲学の教授であるヘリゲルが戦前に来日した時に弓道の修行をした時の経験を描いた本である。
 弓道八段の阿波研造の弟子になったオイゲン・ヘリゲルは来る日も来る日も懸命に弓道に取り組んでいた。
 阿波は「あなたは本当に無になるべきで、弓道はあなたが完全な無我になり、自分自身を無くすところに本質があるのです。完全に無になることが出来れば射はうまくいくでしょう」と言った。
 しかし、ヘリゲルはこの言葉の意味が何年たってもわからないことを師匠に告白する。すると、師匠は夜中の弓場に来るように言いのである。
 夜中の弓場では、暗くて的はどこにあるかまるっきりわからなかった。しかし、師匠は一の矢を放ち二の矢を放った、
 師匠から矢がどうなったか見てくるように言われたヘリゲルは的を見て驚愕する。一の矢は的の真ん中、二の矢は一の矢を壊して真ん中に突き刺さっていたからだ。
 師匠は「この矢は私が放ったのではない、それが放ったのです」と言う。
 この、それとは何のことなのか、わかりづらいがよく読むと、無心になった人間に入った神であることがわかる。
 と言うのは、師匠はヘイゲルが弓を放った瞬間に「今。それが来ました。お辞儀をしなさい」と言っているシーンがあるからだ。もし、それが従来の解釈のように無心を指すのであれば、「無心にお辞儀をしなさい」ということになり不自然だろう。
 これは巫術(降霊術)において霊媒は無我無心になって神や霊を呼び入れるのと酷似している。
 この弓道の精神は今でも日本に残っている。興味がある人はぜひ本書を手に取って読んでいただきたいと思います。

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