「マンハッタン1999」 ・・・西55丁目の恋愛小説②

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ginshiro
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 この物語はまだ携帯電話やインターネットやEメールがオフィスや家庭に普及する直前でコロナもテロリストもトランプもいなかった今から約20年前のニューヨーク・マンハッタンを舞台にした、どこにでもありそうで誰もが主人公になれそうなありふれた恋愛小説。
 東京在住の音楽ディレクターの堤亮平は仕事で定期的にニューヨークに通ううちに、偶然、旅行代理店の通訳ガイドとしてマンハッタンの55丁目に暮らす藤堂郁乃と知り合い、恋に落ちる。 
 その恋の舞台になる1999年から2000年のミレニアムに変わる頃の活気あふれるマンハッタンのレストランやホテル、料理、街の場面などが当時のありのままのリアルな情景と実名描写で詳細に表現されている。
やがて2001年同時多発テロが発生し、ふたりの心は離れ離れになるのだが・・・。
  彼女と交わしたFAXや画像のようなものは、今はもうどこにも残ってはいない。 
 だからというわけではないが、彼女への想いはかえってまだ今も輝きを失わずになつかしく甘い記憶として僕の心に残り、期限切れの古いパスポートに乱暴に押されているアメリカ合衆国のイミグレーションの赤インクの入国スタンプの日付の中に封じ込まれている。
 そして、その期限切れのパスポートの最後のページには、ロックフェラーセンターの大きなクリスマスツリーのイルミネーションの前にぎこちなく寄りそって立つふたりのちょっとピントが甘いプリント写真が今も一枚はさみこまれている。  
 あの頃の記憶をジグソーパズルのように張り合わせてみると、僕の心の隅で音楽が鳴りはじめる。僕は彼女からマンハッタンの街角でどのくらい素晴らしい微笑をもらったことだろうか?後悔や憧憬に似たいとおしい気持ちは彼女が僕の前からいなくなってしまった日からすこしずつ小さなボディブローのように僕の魂を叩き続け、そのパンチはだんだんと痛みをもたらし、胸を絞め続ける。
  僕はなぜ、あの頃、彼女をもっと愛そうとはしなかったのだろうか?  
 そして、僕はなぜもっと早く、彼女を取り戻しに行かなかったのだろうか・・・?   

第二話「Anyway cafe」

 大学時代のサークルの仲間だった吉岡智子は96年からニューヨーク、厳密に言うとハドソン川の対岸のニュージャージー州の町に住みはじめていた。そこからマンハッタン42丁目と9番街にある巨大バスデポ、ポート・オーソリティーへはバスでリンカーントンネルをくぐり、たった15分ほどの距離だった。  学生時代のサークルとはバンド仲間のサークルで「イベントコンサート研究会」と称して、僕たちはライブハウスを年に何回か借り切ってコンサートを開いたり、大音量でバンド練習ができる山奥の民宿の体育館合宿もしたし、学園祭でも活躍した。 
 彼女は我々バンド仲間のマネージャー役だったし、キーボードも弾いた。もともと中学と高校生時代の4、5年間、商社マンだった親の赴任でアメリカのデトロイトに住んでいたことがある、バイリンガルな帰国子女だった。  
 大学を卒業後、旅行代理店や英会話学校などいくつかの仕事を経て好きだった音楽の知識をしかし日本のあちこちのテーマパークなどに定期的に出演する外国人のさまざまなミュージシャンやスタッフたちの通訳として働き、やがてジャズフェスなどで日本に来日する有名な外タレのアーティストの通訳としても手腕を発揮するようになった。  
 その彼女がある日、アメリカから来日したジャズピアニストのバックメンバーをつとめていたベーシストのケニーと恋に落ち、数年後に結婚してニューヨークに住むことになったのだ。ケニーは、智子が子供時代を過ごしたデトロイトの近くのミシガン州の小さな町の出身だったこともあってふたりはとても話が合ったらしい。
 智子は僕の中で少しだけ特別な存在だった。僕は彼女と積極的に恋に落ちて彼女にしたいとは思ってはいなかったが、みんなのアイドル的存在だったマネージャー役の彼女が自分だけのものにならないのかという気持ちも持っていた。
 学生時代から僕たちお互いとても仲良しだったが、なぜか友達以上には進展はしなかった。当時僕には高校時代からの恋人がいたこともあるかもしれない。知的で生真面目な性格なのにへんに艶めかしい部分がある智子は、サークルのメンバーの男たちからもマドンナとして慕われていた。  
 それは、彼女が地方の仕事から帰って来ていた夏の終わりで、僕がレコード会社を辞める2 年前の93年頃で、今思うと彼女が今の旦那である白人ベーシストのケニーと出会った直後ぐらいの時期だったかもしれない。  
 その夜、久しぶりに会った仲間4、5人で渋谷の居酒屋でしこたま飲んだ。サークルの昔話で深夜まで盛り上がり、やがて解散になった。電車もなくなり帰る方向がいっしょということでまだ騒いでいる仲間を尻目に僕は智子はタクシーに押し込んだ。
 そんな雰囲気だった。  
 智子は酔いにまかせて僕にもたれ、薄いコットンのノースリーブの緑色のワンピースの体を大胆にくっつけ、僕をうつろな目で見つめ、まだ帰りたくないと言った。
 僕たちはタクシーの後部座席で長いキスをした。
 それから、丸一年以上音信不通の後、彼女から結婚してニューヨークに住み始めるという長い手紙が突然届いた。今後は日本にパフォーマーやミュージシャンを送る仕事をするが、ニューヨークでコーディネーターもはじめるので、音楽の仕事があればよろしく、と書かれていた。  
 新婚生活を始めたばかりの智子をニューヨークに訪ね、久しぶりに再会を果たしたのは、96年の秋だった。91年のニューヨーク以来、2度目のニューヨークだった。もうお互いに30歳を過ぎていた。  
 僕はディレクターを務めた新人のロックバンドのCDジャケットの写真撮影と日本から同行した音楽専門雑誌の取材のためにニューヨークに来てジャケット撮影のスタジオの手配や取材ロケや打ち上げパーティの仕切りなどの仕事を智子に手伝ってもらっていた。   
 彼女は白人のベーシストの夫とはじめたニューヨークで毎日の生活を面白おかしく話し、今はふたり稼いでブルックリンかニュージャージーのマンハッタンが眺められるアパートを買うことが夢なのだと言った。
その時僕たちが滞在したホテルは、ワーウィックというミッドタウンの53丁目と6番街にあるラジオシティホールに隣接する古いがこじんまりした格式の感じられるブリティッシュ系のホテルだった。  
 そして、この時の撮影のロケで初めてドライバーとして参加して出会ったのがエドウィン・ベラスコだった。僕は助手席に座り、エドウィンといつも冗談を言い合い、スペイン語を教えてもらうかわりに日本語を教えた。中南米からの移民がとても多いニューヨークでは、スペイン語が少しでも話せるとレストランやデリやホテルのスタッフに「Gracias(ありがとう)」というだけで急にフレンドリーな空気をつくれたりする。  
 撮影のロケは早朝から日没までハードだったが、逆にロケでしか行くことはできない場所でニューヨークの旅を満喫した。  
 たとえばマンハッタンの夜景撮影の定番、ブルックリン・ブリッジのブルックリン側の橋のたもとの小さな公園。幻想的なベラザノ・ネロウ・ブリッジ。ブルックリンのコニーアイランドのレトロな遊園地やいつまでも続く木製の桟橋遊歩道、ボードウォーク。
 ビートルズのジョンが撃たれた73丁目のダコタハウス、セントラルパークの端にあるIMAGINEの丸い石盤。112丁目のスパニッシュハーレムの喧騒。ダウンタウンのトライベッカあたりまで下ると今はおしゃれなショップやレストランが連なっているミートマーケット。同じように現在はカフェが建ち並ぶ、ロワ―イーストのABCストリートも付近も、その頃はまだまだ危険なエリアだったが、仕事でロケ隊という多勢だと不思議に恐怖感より好奇心が先に立った。  夜は夜で我々一行は、チャイナタウンの「合記飯店」で円卓を囲み大騒ぎして飲み食いしたり、今はなくなったが西72丁目のメリーランドクラブという、日本でいうところのワタリガニをホットなチリスパイスで蒸し上げ、木槌で割ってむさぼり食べる「Sidewalk」で満腹になったり、締めはNYUに近い20丁目のユニバーシティストリートの「亀田寿司」で新鮮な寿司で胃袋を満たした。  
 その後みんなは思い思いに、毎晩がヘビメタ少年少女たちの縁日みたいに活気があるイースト・ヴィレッジを歩いてバーやカフェに入ったり、教会をそのままディスコにしてしまった20丁目WESTの「ライムライト」やウエストエンドの地下鉄の廃線の引込み線のトンネルをそのままでダンスクラブにした「Tunnel」へ行った。遊び疲れた真夜中32丁目のコリアン街のコムタンハウスでコムタンやコムタンよりもっとコクがある「ガン・ミーOK」という店のソーロンタンを食べるころには朝方になっている、そんな毎日だった。  
 マンハッタンは、はじめて出会った巨大な夜遊び遊園地だった。東京の渋谷区と港区を合わせたほどの面積の狭いエリアに、世界中から来た150万人が集まりそれぞれの国の独自の文化で街を作り、夜毎にレストランやバーで盛り上がっている。セントラルパークを包む碁盤の目のような道はわかりやすく、東京より安い、何ドルかの運賃のタクシーを拾ってどこにでも飛び跳ねていける魅力にあふれていた。  
 ロケがオフの快晴の日曜日、ミッドタウンから5番街をデイパックを背負ってひとり地図を片手に南に下った。セントパトリック教会、クライスラービル、市立図書館、エンパイアステートビル、フラットアイアンビル、NYUニューヨーク大学。最後にマンハッタンの南端のバッテリーパークまで歩き通し、自由の女神を眺めた。帰り道はチャイナタウンに迷い込み、リトルイタリーでエスプレッソを飲み、ソーホーやヴィレッジを歩きまわり、STUSSYのTシャツやリーバイスのダブルエックスのジーンズやレッドウイングのブーツを物色した。  
 いまだに覚えているのは、サウスシーポートストリートの近くの鉄骨がむきだしの、まるで工場の内側のような内装のバーだったと思う。大勢で行っても大きなスペースにテーブルがあって、カウンターから思い思いのビールやワイン、カクテルをキャッシュオンで買って飲むスポーツバーがあった。サルサチップスやナチョスなどのカジュアルなメキシカンスナックもうまい店だった。  見上げると天井と床の間に渡してある鉄骨の梁に無数の色とりどりのブラジャーが100枚以上もぶら下がっているではないか!女性客が酔っ払って罰ゲームでもしてひっかけて置いていくのだろうか?しかし壮観だった。
 この店はその後一度だけみんなで行ってみて大騒ぎをしたが、次にニューヨークに行った時には店は取り壊されてなくなっていた。  
 あの大量のブラジャーはどこへ行ってしまったのだろう?
 コンテストで圭介が筋書き通りに準グランプリを取ったのが97年の秋だった。そして、ニューヨークの智子に相談して、獲得した賞金でニューヨークに渡り、レストランの皿洗いやピアノの弾き語りのアルバイトをしながら貧乏生活をしてソウルシンガーとして修行を積む、という物語作りをコーディネーターとして手伝ってもらうことにして、ケイスケをニューヨークに連れてきたのが98年の春だった。  
 智子の助言もあり、彼女がいろいろと動き、ケイスケは学生ビザ取得して英語学校に入学した。アッパーウエストの86丁目とアムステルダムアベニューの小さな狭いアパートが安くレントできた。英語の勉強はすべての面で必須だった。智子はなるべく日本人学生がいない厳しい英語学校を選んだ。  
 その頃マンハッタンには、金持ちのバカな親が送り込む日本からの「留学生」ではなく「遊学生」がたくさんいた。学生ビザを与えることだけを目的にして高い入学金や授業料をとるような悪徳な英語学校が横行していたのだ。仮に授業をまともにしている学校でも日本人だけを客にしていれば結局、日本人の学生だけが固まってつるんでしまう。そんな連中はニューヨークでマリファナを吸ったり悪い遊びばかり覚えてしまいろくなことはない、というのが智子の考えだった。  
 その配慮はまさに功を奏しケイスケにはスペイン人や韓国人、イタリア人、モロッコ人などいった世界中から来た友人ができ、やがて生活にも慣れてボイストレーニングという歌の発声やピアノのレッスン、ダンスのレッスンにも通い始め、アパートに近いコロンバス通りのフジヤマ・ママという伝説のジャパニーズレストランの並びのサンバやボサノバのライヴをやる小さなラテン・バーでアルバイトも始め音楽仲間を増やしていった。  
 智子の夫のケニーもミュージシャンとして自分の仕事のアシスタントとしてケイスケをアルバイトで雇い現場に連れ出してくれて面倒を見てくれた。   ケイスケは何ごとにも臆さず、くよくよしない手のかからない子だったし、何より授業料やアパート代や生活費が事務所とレコード会社から捻出されているのだから、自分の目的に打ち込むことができた。
 僕は現地で日常的に面倒を見てくれている智子とケイスケに数か月に一度会いに行き、日本で待つレコード会社の幹部やボスの金丸にそのケイスケのパフォーミングの成長をビデオに撮ったり、曲を作らせて小さなスタジオを借りてデモテープを録音する作業などを続けていた。
 98年の春から一年間、東京で徹夜続きのアルバム制作のハードなスタジオワークの日々を過ごし、2~3ヶ月に一回休暇気分でニューヨークに来てケイスケの面倒をみるという、そんな仕事は自分にとっても最高の気分転換だった。また、そんな僕の気分転換の効果も見越してニューヨークに出してくれる社長の金丸の配慮にも内心感謝していた。  
 ケイスケのアパートは日本のワンルームマンション並みの狭さでとても押しかけられなかったので、僕は贅沢過ぎない範囲で定宿探しのつもりでマンハッタンのいろいろなホテルに泊まってみることにした。
 「ル・パーカー・メリディアン」はフランス系のホテルで、セントラルパーク56丁目6番と7番街の間にある。セントラルパークを一望できる北側の部屋は眺めが最高で、まるでシトロエンやプジョーの車の内装のようにいかにもフレンチっぽいカラフルで大胆な室内のインテリアの色づかいは気分を高めてくれる。ウディ・アレンがライヴをやることで有名なカフェも一階にあった。
  ロケーションは悪いが、1番街と49丁目にある国連に近い「ビークマンタワー」は、夜景がとても思い出深い。1928年オープンのホテルはほとんどがスイートで、鉛筆のように細いビルの部屋の間取りはコの字になっている。片端はベッドルーム片端は小さなリビングになっていて、そのふたつの部屋の間に意味もないほど長く広い、とても日当たりがいいガラス張りの廊下がある。26階のバーの西側から眺めるマンハッタン夜景は圧巻だし、東側からのはるかブルックリンのオレンジ色の街の灯のじゅうたんはまるで、夜の飛行機の窓からの眺めのようにロマンティックだった。  
  バーといえば44丁目の「ロイヤルトン」のロビーにあるバーのブルー・マティーニはマティーニなのに青い色で、とてもミステリアスなカクテルとして知られていた。僕はこのバーに何回も通いつめバーテンと仲良くなって、とうとうレシピを紙ナプキンに書いてもらうことに成功したが、間違ってその紙ナプキンをホテルの部屋掃除のメイドに捨てられてしまったのは残念でしようがない。  
  デザイナーズホテルの走りとして有名だったマジソンと38丁目にある「モーガンズ」はアメリカの芸能スターたちが泊まることで有名だったが、日本の人気のラブホテルのような内装に少しうんざりした。けれども黒ずくめのボーイのサービスは悪くはなかった。46丁目と8番街近くにある「パラマウント」の客室はとても狭いが、白でコーディネートされた部屋の内装やリネンは気分が落ち着き、一階にあるバーは大好きだった。ブロードウェイから43丁目を東に入った「ミレニアム」は、コバルト色のガラス張りのタイムズ・スクエアに近い建物でロケーションはどこに行くのにもとても便利で、地下鉄で動くには最高だったし、室内のインテリアもとてもセンスが良く、東向きの部屋からは美しい魚の鱗のようなとんがり屋根のクライスラービルが眺められた。  
  ニューヨークのホテルはいつも混んでいるし値段が高い。だからと言ってどんなホテルでもいいというのでは旅はつまらない。一日中滞在するリゾートならともかく、ビジネスのシングルユースであれば多少古くてロビーが猫の額くらいしかなくても1週間もいればフロントやベットメイクのメイドやベルボーイと顔見知りになれるくらいの小さなホテルがいい。  
   そして、朝食がおいしいホテルがいい。薄いこんがりトースト、目玉焼きにベーコンとハッシュドブラウンポテトを添えてオレンジジュースと薄いコーヒーを何杯も注いでくれるアメリカンブレックファストを安く食べられる、気取らない、映画「ブルースブラザース」のアレサ・フランクリンみたいなウエイトレスのおばちゃんがいる日本の定食屋のような感覚のダイナー(食堂)を持つホテルも理想的だ。  
 また、部屋は少しぜいたくをして、たまにはその小さなホテルの上階にある日当たりがいいスイートを取る。スイートとはご存じの通り、決して「甘い」とかそれが飛躍したゴージャスな意味でのSWEETではない。「組み合わせ」という意味で、たいていはベッドルームとリビングのような部屋が組み合わさっているホテルの部屋という意味でSUITESと書く。当時はすでにミッドタウンの最高のロケーションにある一流ホテルの、小さくて窓に光も射さないシングルルームは200~300ドル料金だったが、同じ予算でマンハッタンもアッパーウエストあたりに行くと古いホテルがあって大きなワンベッドルームのリビング付のスイートが取れたりした。たとえば、やがて僕の定宿になっていったのがコロンバスと81丁目にあった「エクセルシオール」というホテルだった。  ホテルの周囲はアメリカ自然史博物館とセントラルパークで緑が多い。ヴィレッジやソーホーから帰ってくるのは遠くて大変だが、ミッドタウンの喧騒の中、一日中太陽が当たらない格式と値段だけが高いホテルで小さくなって眠るよりも、朝の太陽がまぶしいこのホテルを選ぶことが多くなった。この「エクセルシオール」が取れないときは近くの74丁目の同じようなタイプの「ビーコン」にもよく泊まったものだ。  
 このアッパーウエストのコロンバスやブロードウェイ沿いにも、たとえば68丁目とコロンバスまで降りれば「ピーターズ」とか、小さくて家庭的ないいバーをたくさん発見できるし、気候のいい週末の晴れたお昼ごろこのコロンバスに並ぶレストランの舗道にはみ出したテラス席で恋人とシャンパンから始めるブランチは何ものにもかえがたい時間を与えてくれる。   
 さて、話は冒頭の藤堂綾乃との出会いに戻る。
 1999年5月14日金曜日、午後8時。
 僕と社長の金丸と藤堂彩乃とエドウィンの4人と店に直接やって来たケイスケの5人でダウンタウンのラファイエット通りのアスタープレイスの「インドシン」でフランス料理の上品さを取り込んだヌーベルヴェトナミーズを食べていた。有名な日本人のプロデューサー出口最一が手がけ、当時ロングランを続けていたオフブロードウェイの「ブルーマン」のシアターの何軒か隣のレストランだったし、並びのアスタープレイス・ワイン・ショップはマンハッタンでも屈指の品揃えのワインを扱っている。  
 あれからリーガロイヤルの部屋でみんなは集合し顔をあわせ、エドウィンの車に乗り込みここにやって来た。藤堂彩乃が早めに予約していてくれたのが、我々がリクエストしていた今一番マンハッタンで人気のレストランのひとつであるこの「インドシン」に来たのだった。  
 もともとフランスの食文化の影響を受けているベトナム料理を洗練されたフランス料理の一品のようにして出すこの店は料理も評判がいいが、ここで働くウエイトレスからは有名なモデルやジュエリーデザイナーを輩出するスタイリッシュなスタッフが多い店としても有名だった。入り口のウエイティングバーは予約なしでディナーを待つ客があふれていたが、我々は8時の予約が取れていて奥の席に案内された。  
 今夜のディナーは、ケイスケのニューヨーク武者修行の一周年を記念し、彼の成長を実際に見るためにはじめてニューヨークに来る金丸社長のためのウエルカムディナーとして僕が智子に相談をして企画されものだった。
 しかし、その智子は僕がニューヨークに来る1週間前に夫のケニーの一人暮らしのお母さんが家の階段から落ちて足を骨折をしたということで、実家のあるミシガンに急きょ行かざるをえなくなった。幸いにしてお母さんは大事には至らなかったが、入院などの手配であと数日はニューヨークに帰って来られないらしい。  
 その代理で急きょコーディネーター役を引き受けてくれたのが、エドウィンの友人のその友人の藤堂彩乃で事前にFAXで連絡を取っていた。僕も何度もニューヨークに来ているとはいえ、まだまだ早口の英語には苦労しているし、いつも智子に面倒を見てもらっているので、とてもガイド役はおぼつかなかったのだ。  
 スプリングロールではない、サマーロールという呼び名の生春巻きや、フォーという牛肉のスープ麺やニョクマムやミントのソースをかけた鯛のグリルやカンボジア風のスパイシーな牛肉のカルパッチョが出され、食事も進み、場は盛り上がっていった。  
 金丸は初めてのニューヨークに興奮し、ケイスケといろいろと話し込んでいる。エドウィンも片言の日本語と英語でその話に加わっていた。  
 僕は酔いも手伝って藤堂彩乃をつかまえて3本目のワイン、ロバート・モンダビを空けながら質問攻めにした。  
 笑ってはぐらかしてはっきりと教えてはくれないが、藤堂彩乃は27、8歳らしい。名古屋市の郊外で生まれ育った。短大の英文科を卒業したあと、NY近郊のフィラデルフィアの大学に2年間留学。この間にグリーンカードを取得。卒業後、日本の大手旅行代理店のニューヨーク支社に所属するツアーガイドに採用された。ツアーガイドにはいろいろな契約があるらしいが、彼女の場合は社員ではなく、専属契約のガイドとしてインセンティブで仕事をする。毎日、日本からやってくるツアー客の空港とホテル間の送迎やホテルへのチェックインもガイドの日常的な仕事だし、彼女の場合は企業のコンファレンスなどでVIPのアテンドを担当することも多いらしい。スケジュールは自分である程度組めるので、今回は私たちの仕事をチョイスしてくれたという。  
「じゃあ、今日はかなり偶然に出会えたってことだね」  
「実はですねぇ、大きなツアーがキャンセルになっちゃって、私、ヒマだったんです。ふだんはヒマになったらすぐ友達と旅行に行ったりするんだけど、今回はなんかいいことが起こりそうな予感がして・・・・。」
 と、お酒は大好きだという彩乃はグラスを重ねながら、目じりを少し下げてにこにこと笑った。   
 インドシンの飛び切りゴージャスなディナーを終えて、5人は石畳の街に出た。冷たい夜風が火照った顔に心地よかった。  
 我々は、のんびりとラファイエット通りを下り、ハウストン通りを横切り、にぎわう金曜のソーホーまで散歩することにした。ソーホーの「バー89」で軽く一杯ということになったのだ。エドウィンはソーホーに車を回してスタンバイすることになった。  
 彩乃は今度は金丸に捕まり僕と同じようになぜニューヨークに住んで働くようになったのかを尋ねられたりしていたが、質問はやがてマンハッタンの歴史に至った。  
「マンハッタンのこのソーホーの辺りは昔から織物工場や倉庫が多かったのですが、大恐慌を機に空き家が増えて荒れていき、カーストアイアンという鋳物の柱を使ったこの広い空間で天井の高い建築物は、芸術家たちのアトリエとして再利用され、やがてロフトと呼ばれるギャラリー街になったんですよ。日本で言えば明治時代が始まったばかりの時代の1870年前後に建てられたこのカーストアイアンという建築物は歴史的にもとても価値があるんす・・・・。」  さすがに彩乃のガイドぶりはプロフェッショナルだ。  
 そのカーストアイアンのロフトの一階にある「バー89」はその名の通り、マーサー通り89番地にある。高い天井の中二階はトイレになっていて、5~6個の電話ボックスのような全面ガラス張りのブースが並んでいる。このブースは本当に四方八方が素通しガラスでトイレに入っても、たいていの客はもじもじしながら困っている。  
 実は内側からドアにロックをかけると電流が通り、一瞬にして透明なガラスが乳白色に変わるという仕掛けなのだが、中には酔っ払って我慢できずこちら向きに便座にまたがり堂々と用を足す勇壮な美女も多いという。  
 バーの雰囲気もとてもよく、僕は以前この店でシェラ・ネバダ・パールエールという、北カリフォルニアのチコという町の小さなブルワリーで作られている風味豊かなビールを知った。このビールを彩乃に勧めながら、僕は金丸やケイスケがトイレに行っては狐に包まれたような苦笑いの表情で帰ってくるのを待ち受けた。  
 それからはみんなそれぞれがすっかり陽気にはじけてしまい、サルサ・ナイトで盛り上がっていたヴァリック通りのラテンのライブクラブ「SOB’S」(サウンズ・オブ・ブラジル)で、芋虫の入ったテキーラ、グサノ・ロッホをボトルで頼み、みんなで回し飲みして誰のショットグラスにその芋虫が入るか注ぎ合ってダンスフロアで踊り始める頃には記憶が飛び始めていた。  
 1999年5月15日土曜日。朝、曇り空。
 時計は、午前11時を過ぎている。 ホテルのベッド。頭が痛い。二日酔い。 昨晩の最後の方の記憶は途切れ途切れだ。彩乃のショットグラスに芋虫が入って罰ゲームで彼女が子供のように顔をくしゃくしゃにして、困った顔で前歯の端っこで芋虫をかじったシーン。彩乃がサルサ・ダンスの輪の中でとても鮮やかにくるりと回って、体のバランスを崩して僕に倒れ掛かってきたこと。
 その時、僕と彩乃の頬が一瞬触れたこと。彼女のうなじに甘いムスクのかすかなパヒュームの匂いを感じたこと。
 「Avenue The America」と書かれた真夜中のオレンジ色の6番街を音もなく車がすべるように走っていったこと。助手席で、彩乃がエドウィンに英語でみんなを送る順番を説明していたこと。そんなことが断片的にフラッシュバックする。
 ベッドから這い出して、僕は乱暴に脱ぎ捨てられているジャケットやワイシャツをかきわけて、飲みかけのミネラルウォーターを飲み干し、マルボロの箱を探して火をつけソファに座った。
 99年当時の僕はまだ時々煙草を吸っていた。ニューヨークはその頃すでにレストランはほとんど禁煙席で、バーではまだ普通に煙草が吸えた。ホテルは禁煙フロアが増え始めていた。飛行機も全面禁煙になりはじめていた頃だっただろうか。 ついでに思い起こすと、日本でインターネットやメールが普及し、誰もが会社や自宅や携帯電話にアドレスを持ってやり取りできるようになったのは、たぶん2000年を過ぎた頃からだったと思う。携帯電話は日本では会話ができる携帯は十分普及しはじめていたが、いつも使っている携帯電話がそのままニューヨークで使えるなどというサービスも、メールのサービスは一般には普及していなかった。ニューヨークでもビジネスマン以外に携帯電話はまださほど普及していなかったと思う。  
 この頃、僕と智子はパソコンですでに文書メールのやり取りをはじめていたが、彩乃はビーパーというポケットベルを持っていた。高級ホテルの回線にはボイスメールという部屋ごとの留守番電話機能がついていて、不在時に残されたメッセージをチェックできた。
 ホテルの部屋の電話が鳴った。彩乃の声だった。少しかすれてハスキーで甘い声だった。
「おはようございます」 
「ああ、彩乃さん、おはようございます」 
「二日酔い、ですか?」 
「情けないけど、そうなんです。最後の方は覚えてなくて、何か失礼なことしました?」 
「いいえ、しっかりしていましたよ。でも、東京から来たその夜は時差ぼけもあるから、スコーン!って、記憶が飛んじゃうんですよね」 
「じゃあ、今日の予定は覚えていないんですよね、最後に車の中で話したの」 「ほとんど覚えてないなあ、すみません」
彩乃は受話器の向こうで笑いながら、今日のスケジュールを説明してくれた。ようやく頭が回転して記憶の破片が整列をし始める。  今日は土曜日なのでこれから、金丸社長はエドウィンの車と彩乃の案内でニューヨークの市内観光に出かける。僕とケイスケは午後からデモテープ制作の仕事場としていつも使っているミッドタウンの10thアベニューの小さな音楽スタジオで少人数のミュージシャンに来てもらい最近のデモテープをまとめる。金丸たちは夕方スタジオに合流し、数時間打ち合わせをしてその後みんなで食事という段取りだった。 「近くのデリに行って、コーヒーとチキンヌードルスープでもテイクアウトしてお部屋で飲んだら?少しは二日酔いに効きますよ」
彩乃が親切に教えてくれ、僕はそうした。
それから薄いコーヒーとチキンヌードルスープはニューヨークの二日酔いの朝の定番メニューになった。
 その夜の食事は僕のリクエストでミートマーケットの「Rio Mar 」にした。今はミートパッキングエリアと呼ばれて「SEX and the CITY」のロケでも定番スポットになっていた、おしゃれなエリアに変貌しているハドソン河のウエストエンドに近い、9thアベニューがグリニッジ通りに変わるLittle West 12thの交差点にそのスパニッシュレストランはあった。
  当時は女性客やカップルではキャブで店の前まで乗りつけなければ物騒な、真夜中になると女装したニューハーフの男娼が寂しそうに立つ場所だった。  市場の古レンガと石畳の一角にポツリとある小さな店の中は、ひっそりとした外観とは裏腹にいつもまるで市場の場内食堂のようににぎわっている。カットした生のオレンジやレモンやりんごに赤ワインをなみなみと注いだピッチャーに放り込んで作る、ついジュースのように飲みすぎて腰が抜けるカクテル、フレッシュサングリア。大西洋産の生のクラムやアツアツにゆで上げたムール貝、自家製チョリソ、肉市場直送のフィレステーキ、それら全部のおいしいどこ取りをしたパエリヤも絶品。もともとニューヨーク出身でMTVの仕事で世界中を回っている日本人とアメリカ人のハーフの映像ディレクターの友達が教えてくれた、とっておきの店だった。  
  マネージャーのゴンザレスは世界中のボールペンを収集するのが趣味で、あらかじめ持っていった日本の珍しい漆塗りのボールペンを渡すと、僕たちはその夜一番のVIPに昇格して2階の窓際のいい席に通された。  
「こんなおいしくていい店、マンハッタンに住んでいる日本人は多分誰も知らないわ。今度、友達のバースディーでみんな連れて来てもいいですか?」 と、彩乃は興奮して喜んだ。    
  しかし、有名なニューヨークのレストラン・ガイドブック「ザガッド」にも出ていたこの「リオ・マー」は2003年頃に忽然と姿を消した。今もこの店がその後どうなったかを尋ねてまわるが、ゴンザレスやこの店やシェフの消息はいまだに不明だ。
 営業ライセンスの取得や更新が厳しいこの街ではたまにこんなことがあるのだそうだ。  
 1999年5月16日。
 日曜日。金丸のたっての希望でエドウィンの運転でニュージャージーに足を伸ばし、ゴルフを楽しんだ。ニュージャージーはガーデン・ステートとも呼ばれ、緑が多く素晴らしいゴルフ場が多い。
 風もない素晴らしい初夏の快晴だった。ゴルフには金丸と僕とニューヨークに在住の音楽プロデューサーで金丸の大学時代のジャズ研の後輩で、ケイスケのニューヨークでの活動もサポートしてくれている平塚昌男がやってきた。  平塚は僕とほぼ同じ年で、日本人ながらヴィレッジでも有名なジャズライブバーのブッキングマネージャーや若手ミュージシャンのレコーディング・プロデューサーもしていた。大学卒業後マンハッタン・スクール・オブ・ミュージックの研究科のようなクラスでジャズ・ギターを学び、その学生時代からコーディネーターとして日本から来た多くのレコーディングプロジェクトを成功させていて、もう10年近くニューヨークに住んでいた。個人的にも馬が合いニューヨークに来る時はいつも、特に夜は可能な限り時間を空けてくれて僕をいろいろな店や場所に連れて行ってくれるマンハッタンの夜遊びの先生でもあった。  
 ゴルフの後は、アッパーウエスト100丁目のリバーサイドパーク沿いの高級アパートに住む平塚の家で、日系人でヨガの先生の奥さんを交えて手巻き寿司のホームパーティになった。  
 今日、彩乃はオフだった。明日、金丸を空港まで送ってもらい彼女に急きょ依頼した一連の仕事は終わる。寂しい気持ちだったが夜遊びも仕事の内と考えれば、どうしようもなかった。智子は来週の火曜日にはミシガンから帰ってくる。僕はケイスケと智子と今後の細かい打ち合わせやスタジオ作業に数日間を費やして、8日後の次の次の月曜日には東京に戻る予定だった。  
 彩乃も明日は金丸を送った後はJFK空港に残りそのまま別便の到着の客を待ち、午後からは忙しい通常の旅行代理店の仕事に戻ると言っていた。  
 もう彩乃と会うチャンスはないのかもしれない、と僕は思った。ホテルに帰っても眠る気になれなかった。  
 彩乃から緊急の用事があったらと別れ際にメモをもらっていた自宅の電話に電話をしたが、留守電だった。もう一度電話してメッセージを残した。小さな寂しさをまぎらわせようかと、ホテルのバーに降りて行き、アーウィン・ショーの「夏服を着た女たち」の小説の一節に出てくるクルボアジェのソーダ割を飲んだ。日曜日で閉店時間が近いバーのカウンターに客は僕と遠くにぽつりと座る白人の男性の二人組だけだった。  
 彼女は55丁目とブロードウェイの角のアパートの17 階に住んでいると言っていた。54丁目と7番街を入ったこのホテルから300メートルほどしか離れていない、歩いて5分の場所に彼女が暮らしているのだと思うと、とても不思議な気持ちになった。  
 その時、ウエイターが近づいてきた。  
「TOKYOからお越しのミスター・ツツミですか?お電話です」  
「誰だろう?」  
 バーカウンターの隅の受話器を取った。
「亮平さん?藤堂です」
「なんでわかったの?」
「それは、私はプロのガイドですもの。行方不明のお客様を探すのも仕事のうちですよ。」  
「なるほど、明日、社長を空港までよろしくお願いします」  
「かしこまりました」  
「ところで、今夜は自宅?」  
「そうですよ。さっきはシャワー浴びていたの、すみません、電話に出れなくて」  
「こっちに来て飲みませんか?」  
「いいですね、といいたいところですけど残念です。今、顔をパックしてるの。夜更かしと飲みすぎはお肌に悪いもの。でも、明日、夜は確かフリーですよね。何かご予定は」  
「いや、特には」  
「じゃ明日、ディナーいかがですか。午後に大阪からノースウエストの69便が着いて、それを出迎えてお客さんをホテルに入れたら仕事が終わるんです。だから、お食事、誘ってくださいよ。私、会いたいんです、仕事じゃなくってプライベートで亮平さんに」
 1999年5月17日、月曜日。
 月曜日。57丁目からダウンタウン行きの地下鉄のFラインに乗ってウエスト4thのワシントンスクエアの駅で降りて階段を上がった頃、日は暮れかけていた。寒くはなく心地よい初夏の風が頬をなでた。  
 午後7時に待ち合わせたレストランは、グリニッジ・ヴィレッジ、トンプソン通りのイタリアンレストラン「ポルテベロ」だった。看板も目立たない、昔ながらのトラットリアで、以前、智子とランチでふらりと入ったことがあった。  
 ポルテベロというのはイタリアの椎茸そっくりのきのこの名前で、この店はそのポルテベロやイタリアの松茸のようなポルチーニの料理が名物だった。  予約せずに早めに直接店に行った。お店は僕が決めたのに、早口の電話で予約のやりとりするほど英語に自信はなかったからだ。  
 今日は日が暮れても暖かいので、ガラス戸を開けたままにしてオープンエアにしている通り側に向かい座り、良く冷えたグラスのソアヴェの白ワインを飲みながら彼女を待った。  
 彼女が小走りにやってきたのは、アペタイザーにポルテベロをソテーしてそれにオリーブ油とバルサミコ酢とイタリアンパセリのみじん切り散らしたものを肴に2杯目のワインに口をつけようとした時だった。  
 「ごめんなさい!すっかり遅くなっちゃって!飛行機が遅れてお客さんをホテルにチェックインさせるのが大変だったんです」  
 彼女はブルーの麻のシャツで小走りに店に入ってきた。  
 Gジャンの上着を抱えて、きれいな薄いピンクパールのマニュキアの細長くしなやかな指で僕の肩に一瞬触れた。   
 「こちらこそ。無理に時間つくってもらっちゃって、ごめんね」   
 太ったウエイターが、にこやかにテーブル・キャンドルを持ってきた。日はすっかり暮れて、ヴィレッジの街にはたくさんの人々が繰り出し始めていた。  彼女はグラスのスプマンテを頼んだ。ウエイターにオーダーするキャンドルの灯りに揺れる彼女の横顔の顎のラインはとても綺麗だった。  
 それから、ポルチーニ・トマトソースのリガトーニや仔牛のピカタを食べ、ボトルで頼んだキャンティ・クラシコを飲みながら、僕たちはいろいろな話をした。  僕の仕事のこと、彼女の仕事のこと、働き者の韓国人が下着から靴下からシャツまであらゆる洗濯物を大きな袋につめこむだけつめこんで持っていくと一晩できれいに洗いたたんでくれるニューヨークのクリーニング屋事情、今マンハッタンで、どの店のベーグルが一番おいしいか?独立記念日の花火を一番きれいに見られる場所について、コニーアイランドのネイサンズのホットドックの味とコンテストについて、クイーンズのギリシア人街で、鮮魚をその場で選んで調理してもらえるシーフードレストランへの行き方、なかなか予約が取れないピーター・ルーガーのステーキ、大西洋で獲れるニューヨークの寿司ネタの話・・・・・他愛のない、いろいろなことを話した。
 「私、こんなこと始めてなんです」   
 突然、彩乃が言った。   
 「こんなことって、どんなこと?」   
 「お仕事をしたお客さんとプライベートで食事したりするの」   
 「でも誘われるでしょう?」   
 「やっぱりお客様も旅先では開放的だから、ほぼ毎日誘われます」  
 「じゃあ、もう1000回は誘われているね?」  
 「そう、この仕事を始めて足掛け5年は経つけど、亮平さん以外はずっと断ってきた。
 「私、仕事が終わったらさっさと家に帰って日本から母や弟が送ってくれるドラマのビデオなんか見ながら、ジャージ姿で明太子や鰯の一夜干しなんかを軽く焼いたものをつまみに焼酎のお湯割り飲むのが好きなの」  
 「おやおや、ずいぶんオヤジっぽいね」  
 「そうなの、たまに会社のみんなと行くのもいつも同じミッドタウンイーストの居酒屋だし、その後はカラオケだし」
「変わらないね、日本のサラリーマンやOLと」  
「このあいだなんて、日本の有名な超一流企業の社長をアテンドして、一日の予定が終わって、ミッドタウンの高層ホテルの最上階のスイートのお部屋に送り届けて、戻りのガラス張りのエレベーターに銀ブチのメガネの秘書と乗ったら、秘書が前を向きながら小声で言うの」  
「藤堂さん。社長があなたのことを大変お気に入りです。つきましてはこれから明朝までプライベートでガイドをお願いしたい。社長のお世話をしていただければありがたいのですが。キャッシュで一万ドルでいかがでしょう?」 「・・・・・・。申し訳ございません。せっかくのお誘いではございますが、あいにく今夜はスケジュールが詰まっております。これから恋人とダウンタウンに8ドル50セントのアンチョビのピザを食べに行く予定ですので・・・。それでは明日9時にお迎えに上がります。失礼いたします」  
 って、タイミングよくロビー階でエレベーターのドアが開いたので、にこやかに挨拶して後ろも見ずに逃げてきちゃった。  
 こういう場合って、さらっとかわすのが難しいんですよ。ジョークでした。聞こえませんでした、で済ませてお互い次の日何もなかったようにしなきゃいけないでしょ」  
 「さすが、プロだね。一晩百万円のバイトを一秒で断って8ドル50のアンチョビ・ピザいっしょに食べる大好きな彼がうらやましいよ。彼は、日本人?」  「本当に恋人がいたら1001回目に誘われた亮平さんとデートはしません。いや、それに今夜は私が誘ったんです。自宅の電話番号だって教えたし。こんなこと、生まれて初めてなんですよ」  
 彩乃は僕を少しだけ真面目な顔で見つめ、僕はキャンドルの灯りに揺れる彼女のまなざしをそっと受け止めた。
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