先祖代々、平凡な農家のほうが名家名族である理由

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 苗字調べや先祖調査というと、「うちはふつうの農家なので」とあまり関心を持たない方も多いかもしれません。

「そんなたいした家柄じゃないよ、ふつうの田舎の農民だし」と思っておられる方も、たくさんいると思います。

 ところが、ルーツ調べをしていて、いちばん名家名族、あるいは、古い家柄に繋がることがわかるのは

「ど田舎村の、農民の家柄」

の人たちばかりです。

 逆に、「うちは○○藩の武士だった」というおうちのほうが、ある時期から先が、まったくわからなくなることが多いのです。

 一般的に考えると「武士は偉い、農民は従属的存在だった」というイメージがついていると思いますが、それこそが「徳川家康」の狙いです(笑)

 私たちは、まんまと「家康の策略」にハマってしまっていて、令和の現代になっても、家康の呪いをかけられたままなのです。

 なぜ、そういうことが起きるのか、簡単にお話しますね。

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 先祖代々、田舎の農家の家柄、というと、ずっと農民として汗水足らして働いてきたイメージがあると思います。
 それは一部ではまさにその通りで、ご先祖さまは、先祖代々伝わっている「たんぼ」を大事に守ってきたわけですが、ここでちょっと考えてみてください。

 その先祖代々の「たんぼ」はどうやって入手したのでしょうか?

 はるか昔に、当時の不動産屋さんで「売ってた」のでしょうか?あるいは、原野のようなところに入植して、木を切り倒しながら田んぼに作り替えたのでしょうか?
 あるいは、誰かが持っていた田んぼを作物や布とか銭の束で交換したのでしょうか?

 もちろん、いろんなパターンがありますが、「たんぼ」と考えるからピンときませんが「領地」と考えると気づくことがあると思います。

 そうです。あなたのご実家の先祖代々の土地は、「ある時期、誰かの領地だった」ということを思い描いてみてください。

 その領地は、一定の広さがあり、米が取れるたんぼとして使うことができます。その領地から収穫できる米の単位は「石(こく)」です。

 みなさんの先祖の土地が、仮に100石の米が取れるとしましょう。その土地の持ち主・領主は「100石」の収入があります。
 それが1万石だったり、たとえばもっとでっかく100万石だとしましょう。

 「加賀百万石」と言われるように、加賀の前田家は百万石の領地を持っていました。

 だいたい、1万石もあれば「大名」と呼ばれました。

 あれ?米とたんぼの話をしていたのに、なぜか武士の話になってしまいましたね。

 そうなんです。武士は領主でしたが、「どれだけのたんぼを持っているか」ということで収入力、収穫力(経済力)が決まってきたわけですね。

 ということは、みなさんの先祖代々の土地は、仮に100石あれば、そこそこの上級武士と一緒です。その土地を持っていたということは、領主だったということです。

 つまり、先祖代々100石が取れる田んぼを持っていた人間は、その土地が戦乱に巻き込まれれば戦います。つまり、戦国武将だったということになります。

 1000石も取れれば、大将クラスです。

 1万石取れる土地を持っていた人間は大名です。もちろん、そこが侵略されそうになれば戦います。そうした人たちは殿様です。


 簡単に言えば「土地を持っていたということは、領主であり、戦国時代には武将だった」ということでほぼ間違いないことになります。

 なので、現在でもその土地を所有する権利を持ちつづけているわけですね。


 もちろん、実際には子孫が増えて、田んぼを分割して相続させたりしますので、領地はどんどん小さくなります。それをふせぐには、長男だけに継承させて、次男以降はよそへやってしまうに限ります。

 たぶんみなさんの実家は、一部ではそうしたルールが守られていると思います。長男など、誰か一人が実家を継いでいることが多いでしょう。

 田んぼをたくさんに分割してしまうことは「たわけ」と呼ばれ、愚かなこととされたからですね。



 では、元々戦国武将で、領主だった家が、なぜ単なる農民になってしまったのでしょうか?

 それは豊臣秀吉が天下統一をして、ある時点で「はいストップ、いま武士をしている人間以外は、地元に戻って武士をやめろ」と言い出したからですね。

 それが「検地、刀狩り」です。領主たちが自力で戦って、戦乱が続くことを中止させたのです。

 その時「職業武士として、リアルタイムに戦っていた一部の人間だけを武士として認めた」わけです。

 彼らは、徳川家康時代になると「ある藩や幕府に所属している武士」となりました。その時武士として継続することを認められた人間だけが「苗字帯刀」を許されたわけですね。

 で、地元に残っていた元武将たちはどうなったかというと、藩に所属する武士としての継続資格がなくなってしまったので、自分の領地だけを守ることになりました。

 それが農家です。専門用語では「帰農」といいます。

 江戸時代も経済はすべて「米」で換算されますから、地元で経済活動をするとなると、「米を作る」以外にありません。ですから日本中に農家が増えました。

 ところが、農家はもと領主ですから土地の領有権があります。家康もそれを分かっていますので、全部土地の権利を取り上げるわけにはいきませんでした。

「わかった、じゃあ、半分こでどう?」

というわけで、年貢が「五公五民」になるわけです。

「その土地の元の持ち主があんたらだということはわかった。だから半分は権利を認めよう、けれど今は徳川の時代で、ワシが天下を支配している。だから半分はワシの権利も認めろ」

ということで、落としどころにしたわけですね。

 もし、「それを認めない」と元武将が言い出せば、

「いいよ、じゃあ武力で完全に滅ぼしてやるから覚悟しろ」

ということなのです。それは困るので、元武将はしぶしぶ我慢します。


 こうして、すべての元武将は、家康の策略によって、武器を奪われ、元の身分(苗字)を奪われ、土地の権利も半分奪われてしまいました。

 家康って、ひどくない?

 ひどいんです。そんな凄いことを260年間もやってたんです。

 なので、ずっとそれを恨んでいた武将たちもいました。毛利とか、島津とか。地方に押し込められた元トップクラスの武将たちが、ずっと恨みつづけていたのです。

「わしら、本当はもっと力があるのに、押さえつけやがって!」

と思っていたんですね。なので、幕末になると、そういう「恨み」がある武将たち(大名たち)が立ち上がります。

 倒幕です。明治維新です。

 とまあ、歴史はすごい話になってゆくのですが、ざっくりと

「農家こそが、実は名家名族である」

という理由がわかっていただけたかと思います。




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