夫婦別姓を望む人と、これまでどおりの夫婦同姓を望む人との意見が大きく分かれている昨今ですが、歴史の上やルーツ調べの上ではどんなことが言えるのか、紹介してみたいと思います。
いわゆる「苗字・名字」のようなものができたのは、古くは平安時代や鎌倉時代と考えられています。そこから発展して戦国時代には、もっとも苗字が広がり、一般に多くの人が名乗っていたと思われます。
ところが、江戸時代になると、徳川家康は「武士」とそれ以外を分けてコントロールするために「苗字帯刀」を禁じます。つまり、武士という特権階級以外からは、苗字の使用を奪ってしまい、なおかつ武力も奪ってしまって反乱を防いだということになるでしょう。
明治になると、軍人を確保し、明確な人材の名簿を整理するため「誰もが姓名を名乗り、個人を確定する」ことを軍が要求します。そこで明治政府は、「苗字必称令」を出して、誰もが苗字を持つように改革したとされています。
要するに「徴兵」のために個人を特定する必要があったのですね。当時のマイナンバーのような考え方です。
この時、最初は「夫婦別姓」からスタートしました。
◆ 明治8年 苗字使用が義務化
◆ 明治9年 妻の氏は「所生ノ氏」(=実家の氏)を用いることとされる
(夫婦別氏制)。
◆ 明治31年 夫婦は,家を同じくすることにより,同じ氏を称することとされる
(夫婦同氏制)。
◆ 昭和22年民法改正 夫婦は,婚姻の際に定めるところに従い,夫又は妻の氏を称することとされる
(夫婦同氏制)。
という流れです。
苗字は自分の氏族を表すラベルなので、本来は妻であっても氏族の流れではその実家の苗字を表現することが自然なのですが、明治31年以降は、それよりも「家というハコ=共同体」が重視され、「家父長制」が強くなっていったのでそのハコ全体のラベルという意味で「夫婦同姓」が広まってゆきました。
現代では「家父長制」や「家というハコ」は概念としては残っているけれど、法制度としては無くなっているので、夫婦別姓のほうが自然にも思えますね。
歴史上の実例では、古いところだと大化の改新で有名な「藤原鎌足」の息子の話をしておきましょう。
鎌足の息子「不比等」は最初「蘇我娼子」と結婚しました。そう!あの「蘇我入鹿」とおなじ蘇我氏の女性です。
蘇我娼子は「武智麻呂、房前、宇合」の男子を産んで、彼ら息子たちは「藤原」を名乗っています。
ところが、娼子さんはどうも亡くなってしまったようで、不比等はのちに再婚します。
その後妻が「県犬養三千代」という人で、この女性も実は再婚でした。
三千代さんの最初の夫は皇族の「美努王」で、彼との間に葛城王をはじめ、佐為王などの息子や娘を産んでいます。
さて三千代さんは不比等と再婚してからも子供を産んでいて、安宿媛・多比能という女の子がいます。
その後、面白いことに、三千代さんは長年皇室に仕えている功績で、天皇から「橘」姓を賜ります。そこから「橘三千代」になるので、完全に藤原不比等とは夫婦別姓であることがわかります。
さあ、ここからさらに展開があります。まず、三千代さんが不比等と再婚してから生まれた女の子たちは、お父さんの氏を継承しますから「藤原安宿媛」「藤原多比能」となります。
ところが、再婚前に生まれた息子たち「葛城王」「佐為王」は、本来は皇族で皇位継承権がわずかにもあるので苗字は存在しなかったのですが、のちに順位がめちゃくちゃ下がって皇位の見込みが無くなると、「臣籍降下」して天皇の家臣扱いになります。
この時、不比等の実子ではないので「藤原」氏ではないことになります。ましては実のお父ちゃんは皇族だったので、姓はありません。そこで、彼らはおかあちゃんがもらった「姓」の橘氏を名乗るのです。
そこから「橘諸兄(もとの葛城王)」「橘佐為(もとの佐為王)」と名乗るようになり、橘氏がはじまったというわけですね。
こうした事例を考えると、夫婦別姓になっても、「子供の姓の継承はどうするか」という案は古代から存在することがわかります。
「父の姓を継承する」「母の姓を継承する」のどちらも、アリです。
中世の武将などを調べていると、「母方の姓や苗字を名乗っている武将」というのはけっこうたくさんいます。
その場合は「家督を継承するため」もあるし「自称」もあります。
現代に応用するのであれば、「自由に選べる」とか、「成人になったらどちらか決められる」なんて案ができそうですね。