私がワーママで居続ける理由(娘について)

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こんにちは ^^

ココナラブログの2つ目の記事は「私がワーママで居続ける理由」と題しまして、私のひとり娘に関するお話をします。

「ワーママで居続ける理由」なんて大袈裟な言い方をしましたが、
特に悲壮な決意がある訳でもなく(全くない訳でもなく)、今も働く理由と、現職(リラクゼーション・セラピスト)にやり甲斐や目標があるから続けています。

ですが、その原動力の源は間違いなく「娘」で、娘がいるから何があっても生きていかなきゃ、と思って頑張る事ができています。

※ 今回のお話はけっこうボリュームがありますので、最後までお付き合い頂けたら嬉しいです。




私のひとり娘は、昨年、四年生の音楽大学を無事に卒業しましたが、高校3年生の時に始めたアルバイトが性に合ってるとのことで、今も同じ仕事を続けています。

彼女の父親は(つまり私の夫は)、

「どんな会社でもいいから新卒で正社員にならなきゃ駄目だ」

としつこく言い続けていたのですが、娘は大学3年からそれを聞き流し続けて(汗)全く就職活動をしませんでした。

私は、そんな娘の様子を見守っておりましたが、

「ひーを説得してくれ」(以降会話シーンでは「ひー」と表記します)

と夫から頼まれてはいなかったので、結果として娘は現在も同じアルバイト先で仕事を続けているという訳です。



ちなみに夫は、娘が中学2年になる前くらいに、単身で東北地方に赴任しました。

数年前からは九州に転勤になり、月1くらいの頻度で主に週末に帰宅します。

私のワーママ生活と、娘との2人暮らしの期間はだいたい同じで、かれこれ10年近くになります。

さて、前回の記事では、「本当に色々な事がありました」、とざっくりまとめて終わりました。

もしも夫の単身赴任がなかったとしても、同じように「色々な事」は起きたでしょう。

ですが、父親不在の家庭という環境下で起きた「色々な事」は、娘にとって(もちろん私にとっても)深刻なものでした。

同様に、夫が単身赴任しなくても「反抗期」は来たと思いますが、
娘の反抗期が中学2年生から大学3年までと、実に7年間も続いたのは、
父親不在の家庭である事が強く影響していたのかどうかは謎です。

いつか娘が「10代の頃はさ~」なんて昔話をするような事があったら、
長い長い反抗期の真実(?)みたいな事を知ることができるでしょうか?





ちなみに私は、「反抗期」という言葉が好きではありません。

「反抗期」という言葉は、完全に「親サイド」の言葉であって、
子供側にとっては不利でしかない、いっそ「理不尽だ」と言ってもいいくらい公平性を欠く言葉だと思うのです。

私がそう思う理由は、
とても長かった娘の反抗期の期間、私は娘にとっていちばん心強い存在でなければならなかったのに、
いちばん恐怖や威圧感を与えていた存在だという自覚があるからです。

いい親であろうとして凄く頑張ってたのに、完全に駄目な親だったんじゃん。(号泣)

いつか娘が「あの頃のお母さんてさ~」なんて昔話をするような事があったら、私はどんな顔をしてそれを聞けばいいんだろう。(大汗)





それでは本題の娘についての基本情報と、いちばん印象深いエピソードをご紹介します。





【基本情報】

1998年生まれの23歳で、性格はどこか中性的でさっぱりしています。

身長は私より2、3cm低い普通体型で、色白で小顔の印象が強く、外見が私に似ているとよく言われます。

好きなものと嫌いなものがはっきりしていて、幼い頃から基本的な性質は全く変わっていません。

好きなものは、リラックマ・ゲーム・アニメ(?)・黒っぽい服

未経験のものに強い警戒心を覚える性質なので、食べ物の食わず嫌いはとても多いですが、炊き立てのご飯と食べたい主菜(肉か魚)があれば満足なようです。

ちなみに今日は、ガッツリ系の肉(ステーキかハンバーグ)希望だそうです。(笑)

手先がとても美しくかつ器用で、音大を卒業した現在は、時々思い出したようにピアノを弾いたり、とても綺麗な字を書きます。

ちなみに小学校の頃は漢字検定の取得に夢中になっていました。

それ以外の手指を使うこと、例えば料理は、熱い油が跳ねるのが怖いので自分からは滅多にやりません。

家事はお願いしてもやりませんが、自分の衣類だけは洗濯しています。

基本的に出不精ですが運動は得意なようで、小学生の頃は毎年マラソン大会で入賞していましたし、高校時代はバスケットをしていました。

バイト以外で外出することは滅多になく、外出しても用事が済めば真っ直ぐ帰宅する「お家大好きっ子」です。

新型コロナの影響で外出自粛が叫ばれるようになって「新型コロナありがとう!」と感謝するほど出不精です。(汗)

「めんどくさい」が口癖で、「お前はリラックマなのか?」と思うほどいつ見てもゴロゴロしていて、機敏に体を動かしている所を見た事がありませんが(汗)、たまに一緒に買い物に行くと意外に足が早くて置いていかれます。(泣)

何かお願いして「面倒くさいからヤダ」と言われたら、その決定が覆される事は99、9%ありません。

「面倒くさいからヤダ」と言わせないように交渉する必要があるので、娘に何かお願いする時には脳のCPUをフル回転させなければなりません。(汗)

私のことは「お母さん」と呼ばず、「おばさん」とか「おばば」とか「おかん」と呼びます。

ごくたまに、どうしても必要な時だけ無意識に「お母さん」と呼ぶ時があり、
「珍しい」と思っても口に出したら二度と呼んでもらえない気がして(汗)
心の中でニヤニヤしています。



【いちばん印象深いエピソード】

公立小学校卒業後、私立の音楽大学附属中学校に入学し、
そのままエスカレーター式で4年生音楽大学を卒業しました。

産まれる前、お腹の中に居た頃から私の下手くそなピアノを聴いて育ち、
絶対音感を持って産まれてきたのですが、
私は娘が小学校3年くらいになるまで全くそれに気づきませんでした。

「絶対音感ってどうやったら身に付くのかなぁ? 絶対音感の教材CDとかで習得できるものなのかなぁ?」

そう思い、絶対音感の教材CDを買ってみたものの、買っただけで満足してしまって娘に聴かせることもせず(汗)

「絶対音感なんて、一部の英才教育を受けた人間が持つモノだよね」

「一般庶民の子にそんな才能があるわけないよね」なんて思っていました。

ところが、娘が小学校3年生のある日のこと、私が何気なく弾いたピアノの音に、少し離れた場所から「ソのシャープ」と娘が反応したのです。

私に話しかけているいうよりは「独り言」に近いトーンでしたが、私は何気なくその言葉を復唱して鍵盤を確認し、直後にコトの重大さを知ることになるのでした。

「ソのシャープ、、ソのシャープ、、ソの? シャープ?」

「えええ??? ホントにソのシャープだ!!」

その後も、いくつかピアノの黒鍵(いじわる?)を弾いてみたら、娘は全て言い当て、それがきっかけで音楽大学附属中学校を目指す事になりました。

もちろん、中学受験のために専門塾に通って勉強をしたり、
実技試験のためのピアノのレッスンを受けたりと頑張るのは娘本人です。

「せっかく絶対音感あるんだから音楽の道に進もうよ」と言って本人が承諾するかどうかは分かりませんでした。

【基本情報】でも書きましたが、娘は昔も今も極端な面倒くさがりな性質で、

「受験なんて、そんな面倒くさい事は嫌だ」って言われたら仕方がないと思い、「ダメもとで」音大附属中受験を提案してみたら「いいよ」と快諾したので驚いたのですが、もっと驚いたのは附属中に行きたい理由でした。

※それを知ったのは、無事に受験が終わり入学が決まってからです。

音楽の道を目指す子供(親)は大抵、
「音楽家になりたい(音楽家にしたい)」と思っていたり、
もともと親や親戚が音大出身で半ば必然的に音大に進学しますが、
当時の娘は2年間も受験勉強をしてまで目指すほどピアノが好きとは思えませんでした。

私「ねぇ、どうして受験する気になったの?」←お受験を持ちかけた時には怖くて聞くことができなかった(汗)

娘「音中(おんちゅう)にはプールがないから」




この会話がきっかけで、

「この子は私から産まれたけど、私とは全く違う思考を持った人なんだ」

「私の子供だけど、私の所有物ではないんだ」と思うようになりました。

ですから、娘が自分の携帯電話を持つようになっても、娘の携帯電話に触れたことは数えるくらいしかありません。

いつまでも鳴り止まない着信を娘に知らせるために手に取った、とかそんな感じで、それすらも、個人のプライバシーを侵害している様な気がしていました。

もちろん、何かの用事で娘の部屋に入った時にノート類の中身を覗き見た事もありません。

それは、私的には完全にアウトな行為です。

でも、娘が高校生の頃の私は、親として良かれと思って、もっとアウトな行為をしていた事に後になって気付き、反抗期中の娘の言動を「親サイドの目線」で処理してしまったことを、今も恥ずかしく思っています。



先程の娘との会話に戻ります。

娘の意外過ぎる言葉を聞いた私は、

『え、長くてツラい受験勉強よりも、水泳の授業の方が嫌だったの?

そんな理由で音大附属中学を受験して、合格した人がいるって知ったら
「音楽家になりたい!」って切望して受験して不合格した人は「ふざけんな!」って普通に思うよね?』

と思いましたが流石に口には出しませんでした。

その直後に、娘本人が私が思った言葉をそっくりそのまま口にしたおかげで、娘と一緒に大笑いすることができました(苦笑)



もしも、中学受験をしていなければ、
夫の転勤が決まった時に家族揃って引っ越しをし、娘との2人暮らしはなかったかもしれません。

単身赴任が決まった当時は、

「今までの幸せな生活が終わってしまう」

「精神病を患っているのに私ひとりで娘の面倒を見るなんて辛すぎる」としばらく嘆いていました。

家族3人での生活を終わらせたくはないけど、娘の学校を変えるという選択肢はどうしても譲れなかったのです。

でも今振り返ってみると、娘とふたり暮らしの生活を選んだことで本当に色々な事があったけれど、これが最善の道だったんだと思えます。

だから、ワーママ生活の中で起きた「色々な事」には辛い事が多かったし、
この先も色々あるでしょうけど、泣いたり、怒ったり、笑ったりして日々を過ごしていこうと思います。

長かった反抗期の終盤の時期は、明確な終わりの宣言があった訳ではなく、だけど何もなかった訳でもなく、「もしかしてそろそろ終わるのか??」と思いながらも緊張を緩める事ができず「まだまだ油断は禁物」と自分に言い聞かせて過ごしました。

去年、娘が大学を卒業して1ヶ月も経たない頃に、娘の「意識の中の部屋」から「学生時代の荷物」が撤去されて隙間ができた事を示す小さな出来事がありました。

仕事が忙しくて洗濯物を貯めてしまったある日の夜中に、娘が自分の衣類だけを洗濯していたのです。

学校に行く事にエネルギーの殆どを使い、他の事をしたり考えたりするキャパシティーが全くなかった状態だっただけで、お願いした事を面倒くさがっていたのは反抗していた訳ではなかったんだ、と改めて思いました。

だからと言って、調子に乗ってホイホイと他の家事をお願い事をする訳でもなく、相変わらず娘に対して適度な「緊張感」と「節度」を持ちながら共に生活している現在、今まででいちばん幸せを感じています。

「節度」を持った親子付き合いについては、また別のエピソードがあるのでいつか書きたいと思います。



さて、今回はとても長くなってしまいましたが、お楽しみいただければ幸いです。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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