中短編小説 HALCA -星空のパラソル-

記事
小説
<人類の存亡を懸けて奮闘するライトノベル?>
あらすじ
横浜での航空テロと、電波生命体を名乗る存在の地球侵略声明。タイムリミットは半年。人類の存亡を懸けたJAXAの戦いが始まる!

※本作品は専門的な部分に不安が残るため、無料公開となります。

※登場する地名、団体名、科学衛星名などは実在のものですが、一部フィクションの設定に改変しています。(本編後に詳細記述)

※本作品は2008年に執筆、2009年に追加修正をしたものになります。

※物語は2008年、2009年当時のストーリーになります。時事的な部分は2008・2009年当時の事柄を記述しています。

※本作品は宇宙、宇宙科学について一から調べて書いたものですが、最終的に詳しい方の監修等は受けていない為、ご指摘等あればDMなどで後学のためにも戴けると助かります。(※小説本文の修正はできません。)
おそらく、リアル性には欠けていると思われます。

※挿し絵等は2015年製作の物のため、当時のクオリティになります。

※このブログ小説は、noteに掲載した物の再掲になります。


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  ‐Prologue‐

 初めはただ、ロケットが格好いいと思っていただけだった。
 六歳の頃、母の実家に家族三人で鹿児島の内之浦を訪れた時、俺はちょうどその滞在期間に近くでロケットが打ち上げられると聞いて、「これは千載一遇のチャンスだ!」と子供ながらに思い、父に打ち上げを見たいとすがりついた。しかし、すがりつくまでもなく、父自身もロケットの打ち上げを見てみたいと思っていたらしく、男二人で車で繰り出し、地元の人に聞いた打ち上げ見学場所へと向かった。
 そこは草原に木製のベンチがいくつか階段状に並べてある味気ない所だった。何人かの見学者が射場の方向らしき山の方を見て立っていた。
「明日人(あすと)、ロケットが出てきたぞ」
 父が双眼鏡代わりに使っていた望遠レンズ付きのカメラを手渡してきたので、俺はカメラのファインダーを覗いた。最初はロケットを格納している整備棟しか見えなかったが、確かにロケットが整備棟の横に姿を現していた。
 道路は徐々に渋滞し始め、駐車場は車で埋まり、見学者も増えてゆき、わずかな時間の間に辺りは身動きが取れないほどとなった。
 それからまたしばらく時間が経ったが、やがてロケットは徐々に斜めに傾き始めた。何年か後に知った事だが、その時のロケットは「M‐Ⅴ(ミューファイブ)」と呼ばれるロケットで、なんとその日が初のデビューとなる一号機だった。そして「Μ‐Ⅴ」は、ランチャーを使ってやや傾斜を持たせ、斜めに打ち上げるのが特徴の一つであるロケットらしかった。
 打ち上げ予定時間になり、見学場のスピーカーがカウントダウンを始める。
「10、9、8、7……」
 辺り一帯の空気が張り詰めたのを感じた。思わず、唾を飲む。場内の誰もが、射場を見つめていた。しかし、次第に全員の高揚感が高まっていくのを俺は自然と感じ取り、体の中に込み上げてくるような、ぞくぞくするものを覚えた。
 3カウントから、見学者たちも声を揃えて共にカウントする。
「3、2、1、ゼロ!」
 その瞬間、遠くに見えるロケットから、肉眼でもはっきりと分かるほどの巨大な炎と煙が下から噴き出し、轟音が見学場まで鳴り響いた。沸き起こる歓声と拍手。眩しいほどの光を放ちながら、長い長い煙の尾を引き、「Μ‐Ⅴ」一号機はほんの数秒の間に青い空へと消えていった。ただの小さい光の点だけになっても、そして、姿すら確認できなくなっても、皆、ずっと空を見上げていた。拍手と歓声はその後もしばらく続いていた。


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 その時のロケット打ち上げの興奮と感動が、俺を宇宙への関心へと引っ張ったのは事実だった。そして小学五年生だったか六年生だったかの頃に、ふと、人は何の為にロケットを宇宙へ飛ばしているのか、という、根本的な疑問にぶつかった。それからその後、あの日見たロケットについての情報も、それを入口にその他の宇宙に関するいろいろな知識も、俺は吸収し始めていった。

 あの日見たロケット、「Μ‐Ⅴ」一号機。
 1997年2月12日13時50分、鹿児島県の内之浦宇宙空間観測所から発射されたそれは、搭載している人工衛星を宇宙に打ち上げる為の物だった。
 「Μ‐Ⅴ」一号機にはどんな人工衛星が搭載されていたのか?
 その人工衛星のイメージイラストを初めて見た時、俺はロケットとは違った感動のような物を覚えた。開発コード、「MUSES‐B(ミューゼスビー)」。天文観測用の人工衛星で、宇宙の未知への探求目的で作られた人工衛星だ。その中でも「MUSES‐B」は電波天体を観測する役目を担っている。ゆえに、電波を受信できるパラボラアンテナが必要不可欠だった。
 「MUSES‐B」のアンテナは美しかった。衛星本体から六本の伸展マストを放射状に伸ばし、そのマスト間には隙間を埋めるように金色の金属メッシュの面が張られている。この部分がアンテナの主鏡となっている。その姿は機械的な普通の人工衛星とは違い、よく花にも例えられるほどだった。
 しかしイラストを見た俺は、別の感想を持った。アンテナ主鏡の中心からは副鏡が伸びており、主鏡で反射した電波はこの副鏡に集められ、衛星本体へ送られる。この副鏡がある為に、俺にはまるでその姿が、宇宙に開く一本の傘のように思えた。
 真っ暗な空の中に浮かび、地球の周りを漂う金色の傘。そう考えると異様なほどに、この人工衛星に強く惹きつけられた。

 「MUSES‐B」は「Μ‐Ⅴ」ロケットでの打ち上げから約三時間後に、すでに決定していた「はるか(HALCA)」という名前に正式に改められた。
 そして俺が遥(はるか)と出会ったのはその九年後、中学三年生の頃の梅雨の季節だった。

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   1

  2008年9月13日

「新しい準惑星が発見されたそうですね。おめでとうございます」
 雲一つない、よく晴れた晴天の日曜日、俺は家族連れや若いカップルで溢れる賑やかな場所の片隅に立ちながら、携帯電話で話していた。相手は電話の向こうで苦笑した。
「いや、私が発見した訳じゃないんだから。私も今、そのニュースを聞いたところだよ。しかし、天文学の新たな進歩に、素直に祝いの言葉は受け取っておくよ。ありがとう」
「確か冥王星のさらに少し先でしたね。野辺山の望遠鏡で電波観測も行ったとか。オールトの雲に入るんでしょうか」
「いやまだ、はっきりとしていないよ。カイパーベルトに入るのではないかとも言われている。しかし、ほとんど境界辺りに位置するようだから、どちらも可能性はあるかな」
 電話の会話が、その場所に似つかわしくない話題である事は自分でも分かってはいたが、相手が相手だけに、今しがた携帯電話のウェブで知ったニュースに、俺は興奮気味に話を続けた。
「三ヶ月ほど前にも新しい恒星と、衛星を一つ発見しましたよね。今回もまた同じチームなんだとか」
「ああ。国立天文台といくつかの大学の共同研究チームだよ」
「すごい快挙ですよね。こういうニュースを聞くと、わくわくしますよ」
 その時、一際大きな、悲鳴のような声が周囲から聞こえた。いや、正確には、喜んでいるようにも聞こえる複雑な悲鳴だ。声の方へ目を向けると、すぐ近くのジェットコースターの急勾配のレールを、コースターが落下してゆくところだった。
「やけに賑やかだね。どこにいるんだい」電話の相手が訊(き)いた。
「遊園地です」
「ああ、コスモワールドか。遥の要望かな?」
「はい。今、雄叫びをあげてますよ」
 俺はそう言いながら、走るコースターを目で追った。その最前列には、口を大きく開けて叫んでいる同年代の、高校生ほどの女の子の姿があった。
「遥は絶叫マシンの類が好きだからね。明日人くんは一緒に乗らなかったのかい」
「ええ、まあ。ほら、傘を持ってジェットコースターには乗れないじゃないですか。だから、代わりに傘番をする人間が地上にいないといけない訳で」
「はは、それで君が傘を持って待っている訳か。デート中に相手をほっぽり出して一人でジェットコースターなんて、遥もまったく奔放な奴だ」
 自分の娘の事だというのに、相手は他人事のように笑った。
「ところで、技術館の方へはいつ頃向かうのかな? 私の方はまだ講演の関係者の方々に挨拶をせねばならないから、あと一時間ほどは見積もった方が良さそうだが」
「では先に行って入口で待っていますよ。遥が途中のクイーンズスクウェアにも寄りたいと言っていましたし」
「分かった、後で合流しよう」
 通話を終了し、俺は携帯電話を折りたたんでジーパンのポケットに入れた。
 電話の相手は比良橋久雄(ひらばしひさお)宇宙教育センター長。日本の宇宙研究を担う「宇宙航空研究開発機構」――通称「JAXA(ジャクサ)」の宇宙教育部署の長だ。今日はその仕事絡みの講演で、パシフィコ横浜に訪れるところを、俺も途中まで同行させてもらった。
 それというのも、付近の三菱みなとみらい技術館で期間限定の特別展示として国際宇宙ステーションの日本実験棟「きぼう」を模したセットが展示されるからだ。だから、せっかくなので三人で技術館の展示を見に行く約束になっていた。
 さて俺はしがない一介の男子高校生に過ぎない訳だけれど、その単なる高校生がなぜ宇宙教育センター長などといった立派な人間と知り合いかというと、先生と俺とを中継して繋いだ存在がいたからだ。
 俺は手に持っている、その人物の傘に目を向けた。女性が持つには珍しいその黒地の傘には、無数の星が点描のように描かれている。宇宙が広がっていたのだ。

 ――もしもし、よろしければ私の星空へ御案内しましょうか?
 ニ年前、まだ中学三年生だったあの頃の、ある帰り道。下校途中に雨に降られ、街路樹で雨宿りしていた俺に、彼女は傘を差しながら、そう言った。一目で変わった子だと分かった。
 白いワンピースを着た長い黒髪の彼女は綺麗な顔をしていて、一見、清楚でしとやかな大人しい女の子に見えた。が、その姿にはあまり似遣わしくないヘッドフォンを頭にしていたのが、まず初めに覚えた違和感だった。ヘッドフォンにはコードが繋がっておらず、どうやら無線式のワイヤレスヘッドフォンのようだった。
 そして、その次に覚えた第二の違和感が、宇宙を描いた傘だ。彼女が一風変わった子である事はその瞬間に判明する事だったが、同時に惹きつけられたのもまた俺にとっての事実だった。
 彼女が清楚で大人しい子などではない事は、声をかけられて三秒後に分かった。戸惑う俺の手を掴み、彼女は俺を自分の方へぐっと引き寄せた。唐突な行動に俺は考える間もなく、彼女の持つ傘の中へと招き入れられた。
「うわ」
 傘の中に入り、思わず声が漏れた。宇宙の広がるその傘の内側は全面、金色に包まれていた。よく見ると、アルミ箔が傘の内側に貼られているようだった。

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「なんだこれ」
 俺が傘の内側の金色を見上げながらつぶやくと、傍(そば)の彼女の笑う声が聞こえた。その時、改めて自分が彼女の間近にいる事に気づき、まだ中学生だった俺はわずかに心臓の鼓動を速めた。
「この傘は私なの」
「え?」
 意味不明な言葉に、俺は声を漏らした。
「人工衛星の『はるか』に見立てているの。知ってる? 『はるか』って。でね、私の名前も遥なの。だから、この傘は私。でしょ?」
 そう言って遥は微笑んだ。その純粋無垢な笑顔に俺も思わず、くすりとさせられた。出会って一分と経たない間の、ほんのわずかな彼女の言葉が面白く、妙に惹かれるきっかけとなった。
「俺もはるかが好きなんだ」
 傘の内側を見上げながら俺が言うと遥は、ふふっ、と笑った。
「会ったばかりなのに唐突な告白だなあ」
「人工衛星の『はるか』が、だけどね」
 そう言うと遥はまた明るく笑った。口元に手をあてて笑う仕草はしとやかなれど、抑えのようなものは一切なく、感情のままに心の底から笑っているような、気持ちの良い笑い方だった。
「君の名前は?」遥が尋ねた。
「俺? 俺は路次明日人(ろじあすと)。明日人って、なんか漫画みたいな名前で今は恥ずかしいんだけどさ」
「そんな事ないよ。明日人って名前はきっと運命だね」
「運命?」
「路次明日人、路次明日人って、繰り返して言ってみなよ。アストロ・ジーになるんだよ。知ってる? アストロ・ジーって。『はるか』の後継機の人工衛星なんだよ」
 まさか「ASTRO‐G(アストロジー)」の名前が出てくるとは思っていなかった。確かに「ASTRO‐G」は、「はるか」によって成し遂げられた「VSOP」計画を引き継ぐ新たな電波天体観測衛星だ。当時はまだその人工衛星の名も、「ASTRO‐G」によって行われる観測計画「VSOP‐2」の事も真新しいニュースだった。今も研究開発中の物で、2012年打ち上げの予定で進められている。
「確かに、ASTRO‐Gになるんだな、俺」
「『はるか』と『ASTRO‐G』。私たちが今日、出会ったのはきっと運命だね」
 肩の触れ合うほどの距離で遥は俺の顔を見てそう言い、にこりと笑って見せた。

 俺が回想に耽っている間に、コースターが乗降口に帰ってきたらしい。清々しい笑顔で傘の持ち主は俺の許(もと)へと戻ってきた。
「ただいまあ」
「おかえり。面白かったかい」
「うん、まあまあかな。富士急ハイランドくらいのジェットコースターだったら最高だったんだけど、規模が小さい遊園地だから、このくらいだよね」
 遥はさらりと言った。富士急ハイランドだったら、俺は自ら傘の番を志願していただろう。
「ヘッドフォンは係員に見つからなかった?」
「大丈夫、いつものように髪の中に隠していたから」
 遥は片手で髪を掬い上げて、耳を見せた。初めて会った時と同じ、無線式ヘッドフォンをしている。両耳のスピーカーを繋ぐ「橋」の部分は、後頭部に追いやって長い髪の中に隠している。ジェットコースターのように速い乗り物にヘッドフォンをつけたままでは入口で止められてしまう可能性があるので、これが遥のジェットコースターに乗る時の常套手段なのだ。
 何故そうまでしてヘッドフォンをつけたがるのか。それは遥の過去の体験に起因している。
 俺と出会う前の中学ニ年の時、遥は交通事故に遭い、頭部を打って意識不明の重体に陥った。そのまま昏睡状態となり、病院で眠り続ける事となったらしい。
 ――遥が好きだった曲を聴かせてあげようと思ったんだ。
 当時を振り返った比良橋先生は、そう言っていた。遥が車に轢かれて倒れた雨の日、地面にはその時差していた傘と一緒に、遥のワイヤレスオーディオプレイヤーが転がっていたそうだ。プレイヤー自体は壊れていたが、ヘッドフォンの方は無事だった。病室のベッドで眠り続ける遥の傍らで、娘を見つめていた比良橋先生は憔悴しきっていた。当時、比良橋先生は運用中だった「はるか」のプロジェクトマネージャーを務めており、多忙の日々の最中の出来事だった。
「『Radio Emission』という曲が好きだったんだ。JAXAのイメージソングでね。綺麗な曲ねって、ろくに会話のなかった私に、その時は素直な笑顔を見せて言っていたよ」
 いつだったか、今の遥の誕生について語った比良橋先生は、遠い目をして語っていた。
 ベッドで身動き一つしない娘にその曲を聴かせようと、比良橋先生は遥のヘッドフォンを耳にかけてあげようとした。無線式なので別のプレイヤーでもヘッドフォンはそのまま使える。そう考えて比良橋先生が遥の両耳にヘッドフォンをかけたその時に、それは起こった。
 現在(いま)の遥の誕生。ヘッドフォンをかけた瞬間、それまでが嘘のように、遥は唐突に目を開け、身を起こした。そして先生の方へ顔を向け、にこりとした笑顔を見せたそうだ。
 それからの遥はまるで人が変わったように明るくなったという。以前の遥は大人しく、どちらかといえば消極的なタイプの子だったらしい。しかし昏睡状態から目覚めてからは、まさしく天真爛漫という言葉が似合いそうな、好奇心で満ち溢れた活発な人間に生まれ変わった。まるで、ずっと以前からそれが当たり前の自分であったかのように生活していたという。
 目覚める以前の記憶を失った訳ではない。しかし事故の影響なのかというと、はっきりとは分からない。比良橋先生は深く突きとめようとはしなかった。遥にその事について触れようともしなかった。今の遥が無事な体で、壁もなく自分に接してくれるのなら、原因など知る必要はないと考えたからだった。
 ただ二点、事故を境にして、遥におかしなところが生まれた。その一つが、目覚めるきっかけとなったヘッドフォンだ。遥はいつ如何なる時も、そのワイヤレスヘッドフォンを外そうとしない。トイレや寝る時でさえも。風呂に入る時ですら、薄いビニールに包み込んで頭にしているらしい。比良橋先生が推測するに、そのヘッドフォンが自分の目覚めるきっかけとなったから、遥は外す事を怖がっているのではないかと考えた。だが、それは違った。
「このヘッドフォンは絶対、取っちゃ駄目だよ。私、起きなくなっちゃうから」
 遥は目覚めてから初めの頃、念を押すように比良橋先生にそう言っていたという。先生はヘッドフォンがなくてももう大丈夫なんだと、安心させるつもりである夜、眠る遥からヘッドフォンをこっそり外した事があった。朝になってみると、本当にいくらゆすっても遥は起きず、先生は遥の言葉を思い出してもう一度ヘッドフォンをかけた。すると、病院の時と同じように遥は再び目を開けて身を起こし、口を尖らせて「駄目だって言ったでしょう」と言ったそうだ。

「見て見て、明日人。ランドマークタワー!」
 クイーンズスクウェアの角に差しかかった時、遥が目の前のビルを指差して嬉しそうに言った。そんな遥の頭には、今はいつもどおりヘッドフォンが髪の隙間から覗いていた。両耳のスピーカー部を繋ぐ「橋」の部分が、まるでカチューシャのようだ。
 遥がヘッドフォンを常に耳にしているのは、彼女にとって「命」のような物なのかもしれない。実際、事故の後遺症らしき体質を抱えている身なのだから、外したがらない気持ちも分かる。しかし、もう一点の遥のおかしな部分――。
「明日人、記念写真、記念写真。携帯で撮って」
 遥は持っていた傘を広げ、ランドマークタワーを背にしてポーズをとった。そう、この宇宙の傘だ。こう言うと偏見っぽい気もするが、遥は女だてらに、妙に機械いじりやらパソコン関係に強かったりする。マニアックに詳しいという訳ではなさそうだけれど、普通の人よりは滅法詳しい。知り合った頃から既に色々なものを自作するのが趣味だったみたいだが、遂には日用品なんかの自作にまで手を染め始めるようになったらしい。つまりは、日曜大工ならぬ日用細工が趣味になった訳だ。
 この宇宙の傘も遥の自作品だ。宇宙を描いている時点で変わってはいるが、遥はこの傘をよほど気に入っているのか、今日のような晴天の日でも必ず持ち歩く。俺は一度、理由を訊いてみた事があった。「この傘も『はるか』だもの。一緒じゃなきゃ不安じゃない。でしょ?」それが彼女の答えだった。
 俺がランドマークタワーと一緒に携帯電話の写真を撮ってあげると、遥は広げた傘をくるくる回しながら、自分自身も笑顔で踊るように回ってみせた。宇宙が光速よりも速いスピードで回転していた。
 遥の傘の宇宙の中心から飛び出ている頭の部分。確か傘の用語で石突きと呼ばれる部分だったか、ここは面白い形をしていて、T字型になっている。手の平に収まるほどの青いプラスチックの平たい長方形状の物を、側面から石突きに刺しているような感じだ。
「前から気になっていたんだけどさ、それって何なんだい。変わった物が付いているけど」
 俺がT字の部分を指差して尋ねると、遥は回転を止め、にこやかな笑顔を俺に向ける。
「太陽電池パドル」

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 一言そう答えて、可笑(おか)しそうに笑った。なるほど、と俺は思った。人工衛星「はるか」のアンテナ面の裏側には衛星本体があり、太陽電池パドルが左右に伸びている。この太陽電池によって、衛星本体の活動エネルギーを充填させるのだ。要するに遥は、「はるか」を模した傘を作る為に、本来は傘として機能的に不要でもある太陽電池パドルの飾りにまでこだわったらしい。
 傘を閉じ、遥は唐突に俺の手を取った。遥の行動はいつも唐突で、流れのようなものがないから、行動が読みにくい。不意を衝かれた俺は度々、そういう遥の言動にどぎまぎさせられる。
「明日人、クイーンズスクウェア。ほら、行こうよ」
 遥が俺の手を握って促す。「ああ」と答えて、俺も平静を装いつつ遥の手を握り返す。
 俺と遥は付き合っているのかと言われると、実はよく分からない。どちらかと言われれば付き合っている方に入るのだろうけど、そういったハッキリとした宣言というか、「付き合おう」みたいな告白とかもない。でも、これでいいのだと思う。「彼氏彼女」だとか、「付き合っている」だとか、そういった、きっちりとした形式なんてなくても、俺たちの間には遠慮も距離もない、素直な感情の赴くままに手を繋ぐ事のできる、心で触れ合える関係なんだと思う。それだけが大事だと思うし、別に無理に「俺たち恋人なのか?」なんて考える必要もない。俺は遥といるのが楽しいし、遥もまた俺といるのが楽しいと感じてくれるなら、それは確実な事実で、それこそがきっと本質なんだ。俺はそう思っていた。
 無邪気に笑って振り向く遥に、俺も笑顔で応えた。足を進めようとしたその時、周囲の通行人たちが急にざわつき始めた。
 何事かと思い周りに目を向けると、何人かが遠くの空を指差していた。俺も遥も、無意識にその方向へ目を向ける。遠くの空に、見覚えのある影が見えた。空によく見かけるもの――旅客機の機影だ。旅客機がこちらの方向へ向かって近づいていた。しかし、明らかに様子がおかしい事は、俺にもすぐに分かった。
「あれ……何か低くないか?」
 立ち止まって旅客機を見つめる通行人の誰かがつぶやくように言った。確かに低い気がする。あんな高度で飛行機が飛んだりするものなのだろうかと思う高さだ。旅客機は徐々にその姿を拡大し、俺たちのいるランドマークタワーの方向へ近づいてくる。
 ……いや、違う? もしかして。ランドマークタワーの方向ではない?
 周囲の空気が一気に凍りつくように変わったのが分かった。後ずさるようにする者もいた。次第にその場に充満し始めた不安が現実感を増し、それは瞬間的に爆発した。
「ランドマークタワーに向かっているぞ!」
 誰かの叫ぶ声を皮切りに、皆、一斉にその場から走り始めた。
「遥!」
 俺も遥の手を握り締め、駆け出そうとした。
「まさか……」
 そう遥のつぶやく声が聞こえる。
 俺が奇妙に思っていると、ふっ、と空が暗くなった。上空を、巨大な鉄の鳥が太陽の光を遮るように高速のスピードで通過する瞬間だった。気づくのが遅すぎたのだ。飛行機のスピードは恐ろしく速く、人々が避難を開始したその時点からランドマークタワーへと到達するまで、ものの十秒もかからなかった。頭上を激しいエンジン音がかすめ、次の瞬間、聞いた事のない轟音が空気を震わせた。


   2

 その音に、俺はランドマークタワーの方を見上げた。まるで積乱雲のように巨大な黒煙と火の塊が膨れ上がり、ガラスの雨を地上に降らせていた。処かしこから悲鳴が響いた。スローモーションのごとく時間がゆっくりと動いているように目の前の景色が崩れてゆく。旅客機の残骸が、ビルを構成していたものが、まるで映像をスローで送るように、その姿をバラバラに崩壊させ、目の前へと倒れてくる。
 気づいた時には、一瞬だった。一瞬の、激しい音や振動だけを感じていた。まるで意識が飛んだかのように、事態が掴めず、軽く混乱していた。
 目を開け、周囲を見る。その眼前には、まさしく惨状と呼べる光景が拡がっていた。地面を埋め尽くす瓦礫、倒れる人々、赤い液体、燃える火、コンクリートの塊の隙間から伸びる手、誰かの泣き声、呻く声……。
「遥……」
 俺は思い出したように、周りを見回す。すぐ近くに、地面に倒れる遥と、遥の傘が転がっていた。どうやら俺も遥も、瓦礫の落下するちょうど隙間にいたらしい。ビルから少し距離があったのも助かった原因の一つだろう。運がよかったとしか言えない。
「遥!」
 俺はすぐに傍によって、声をかけながら遥を揺さぶった。遥は気絶していたようで、すぐに目を開けた。
「明日人……」
「無事だな? どこも傷めていないだろうな」
 俺の問いには答えず、遥はがばっと身を起こして、慌てるように周囲を見回す。
「傘は?」
 傍にある傘を見つけ、遥は急いで手を伸ばした。柄を持って、傘を開く。遥の行動が読めないのはいつもの事だったが、この時ばかりはさすがに意味が分からなかった。
「遥、どうしたんだよ。こんな時に傘なんて」
「気配を感じるの。すぐ近くにいる。多分、今の飛行機に乗ってきたんだ」
「何を言っているんだ……?」
 と、その時、すぐ傍の瓦礫の山に、携帯テレビのような物が転がっているのが目に留まった。見た事のないドラマが放送されていたが、突然、目の前で砂嵐になった。一、ニ秒ほどして、表示はぱっと変わり、白地に一つの記号が映し出された。正円から上に線が伸び、その先にアルファベットのWがくっついているような記号。見覚えがある。確か、地図記号の電波塔だ。
 『……突然だが初めまして、この星に暮らす諸君。電波をジャックさせてもらった。これはこの星に住む全ての人間に向けてのメッセージだが、我々の拠点が日本である事から、日本のテレビ放送電波を使って声を届けさせてもらう。いずれメディアがこれから起こる事を世界に伝えてくれるだろう』
 携帯テレビから合成音声のような機械的な声が聞こえてくる。俺も遥も、画面に注目する。
 『まず先に認識しておいてもらいたい事は、我々はこの星の人間ではないという事だ。人間という表現も当てはまりにくい。諸君らには飲み込みにくい事実であろうが、我々はこの星で「電波」と呼ばれる存在だ。宇宙には精神を持ち自在に活動できる電波生命体という存在がある。それが我々という事だ』
 唐突にテレビの声が奇妙な事を語りだした。「電波生命体」? 本気で言っているのだろうか。しかし冗談にしても、わざわざテレビの電波ジャックまではしない気もするが……。
 『まあ、これだけを言っても諸君らは素直に信じはしないだろう。だから我々はデモンストレーションを用意しておいた。日本の各メディアは早急に確認を取るといい。今、新千歳空港発のJAM567便を、横浜ランドマークタワーに衝突させた。機体にあるSATCOM(サトコム)の通信アンテナから我々の一人がコンピューター内部に侵入し、機体をジャックしてランドマークタワーへ激突させたのだ。電波の入口があれば我々「電波生命体」はどこにでも入り込む事ができる。電波をデジタル変換する機器があれば、知的プログラムにさえ変貌する事も可能だ』
 携帯テレビから聞こえてきたその声に、俺は衝撃を覚えた。たった今、自分の身に降りかかった壮絶な大事故は、目の前のテレビ放送電波を発信する向こうにいる存在によって、意図的に行われたテロだったという事なのか?
 電波……。電波生命体だと?
「やっぱり……」
 ふと聞こえた声に、俺は隣りを振り向いた。遥が眉根を寄せ、唇を噛んでいた。
「やっぱり、って何だ? 遥、こいつを知っているのか? どういう事なんだ?」
「今、テレビが言っていたとおりさ、少年」
 ふいに、どこかから男の声が聞こえた。思わず声の聞こえた方へ振り向く。近くの瓦礫の山の上に、二人の大学生くらいの男が立って俺たちを見下ろしている。一人は茶髪のハネの多い髪型にネルシャツ、もう一人はレザージャケットを着た体格のよいガテン系のような男だった。そして何より奇妙だったのは、二人ともワイヤレスのヘッドフォンを頭にしていた事だった。

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「けっ、まったく。派手にぶっ倒したってのに、姫さん生きてるじゃねえかよ、セルラ」
「俺のせいにするな、レンジ。うまくビルに当てただろう。彼女がビルのもっと近くにいたなら、今ので確実に仕留められた」
 セルラと呼ばれたネルシャツの男がそう言い、俺たちの方に視線を投げかけた。
「それに今、ここで始末すればいいだけの話だ」
 一体、何を言っているんだ? 俺が混乱して唖然としていると、遥がつぶやくように言った。
「いつか……こんな日が来るかもしれないとは思ってた。でも、酷すぎる。他の人たちは関係ないのに……。狙うなら私だけを狙えばいいのに……。どうして、こんな……」
「関係なくはねえのさ。もう、俺たちの星は無くなっちまっただろうからな」
 レンジと呼ばれるレザージャケットの男の言葉に、遥が、えっ、と声を漏らした。
「無くなった? どうして? パパとママは? 星のみんなはどうしたの!」
「さあてね。ティエダの重力が、俺らの星も飲み込もうしていたのさ。俺ら先遣隊はそうなる前にあんたを追って星を飛び出したが、いずれこうなる事は前から判明していたんだ」
 レンジという男がにやりと笑みを浮かべて言った。セルラという男も言葉を繋ぐ。
「俺たちは電波生命体だ。本来、体など無くても宇宙空間ですら生きていける存在だ。しかし星の人間の多くは義肢体(ぎしたい)を含めて体であるとして捨てきれず、星と最期を共にするつもりの者が多かった。もっとも我らクーデター組は違ったがな。あんたもそうだろう、姫」
「私は違う。パパとママが、私だけでもクーデターの手が伸びないようにって……」
 遥も、二人の男も、何を言っているのか分からなかった。遥は奴らと知り合いなのか?
 ついていけない。何が起こっているんだ。分からない。訳が分からない……。
 俺は傘を持つ遥の手を取った。
「遥、行こう。あいつら、おかしい。すぐにこの場から離れるんだ」
「ダメ、明日人。面と向かってしまったら、もう逃げられない」
 遥が俺の手をほどき、再び傘の柄を持った。男たちをじっと見据える。なぜだか、その些細な行動が、俺にはショックだった。
「そうさ、逃がさねえよ。悪いな少年、置いていっちまって。後で相手してやるからさ」
 レンジという男がにやにやしながら、瓦礫の山の上で一歩踏み出した。遥も傘を持つ手に力を込める。が、その時。
「遥!」
 遥の名を呼ぶ声が背後から聞こえた。俺と遥が反射的に後ろを振り向くと、比良橋先生がタクシーの中から飛び出して、こちらへ駆けてくる姿が目に映った。
「お父さん、来ちゃ駄目!」
「おい、よそ見とは随分、余裕だな」
 そんな声が瓦礫の上から聞こえた。振り返ると同時に、レンジという男が飛び降りてくるのが見えた。次の瞬間、遥は振り向きざまに持っていた傘を素早くひっくり返し、石突きの青いT字の部分を右手で握りながら、左手で宇宙の描かれた面の中央を前に向かって押し出した。傘が柄の方向にスライドし、内側の金色が男に向けられる。その直後、ピーッという電子音が辺りに響いた。どうやら、遥の握る「太陽電池パドル」を模した青いプラスチックパーツから聞こえたようだった。

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 何が起こったのか分からなかった。飛び降りようとしたレンジという男は、空中で気を失ったようになり、地面に顔から落下した。そして男は倒れたまま、ぴくりとも動かなくなった。
 遥が握っていたプラスチックパーツを回すと、カチッという音と共にパーツは外れた。それを地面に捨て、即座に足で踏み潰す。ヒビが入り、プラスチックパーツは完全に割れた。ヒビの隙間からコンピューター基盤のような物がちらっと見えた。
「遥、無事だったか。ランドマークタワーに飛行機が衝突したと聞いて慌てて来たんだ。技術館はランドマークタワーのすぐ近くだったし」
 比良橋先生が青い顔をしながら遥の傍まで来て言った。しかし遥は瓦礫の上に立つセルラという男を見据えたまま、スカートのポケットから新しいプラスチックパーツを取り出して、再び石突きに刺した。パーツを回すと、カチッという音がする。
「なるほど、そういう戦い方があったか。人の事は言えないが……レンジの奴、侮(あなど)ったな」
 セルラという男が舌打ちして言った。そのまま、遥が踏み潰したプラスチックパーツの方を見る。
「デジタル変換器を備えた大容量のメモリ、というところか。傘をアンテナにして柄の先からそのメモリにレンジの奴をデータ変換して取り込んで隔離、物理破壊か。追われる身の割には考えたな。この星の文明もよく吸収している」
「お互い様でしょ。ヘッドフォンを使っているんだから」
「確かに」
 セルラは口の端を少しだけ持ち上げ、薄笑みを浮かべた。瓦礫の山を飛び降りる。遥は身構えたようだったが、何も起こらず、相手は普通に着地した。
「レンジを葬ったところで何も変わらないぞ、姫。あんたを追ってきた先遣隊は三人。レンジと俺、そして今テレビで喋っているサテラって奴が残っている。それに――」
 セルラの言葉に、俺は傍の携帯テレビに目を配る。画面にはまだ電波塔の記号が映っていた。
 『我々の目的は一つ。この星の征服だ。しかし、諸君らに恐怖政治を敷こうという訳ではない。先にも言ったように我々は電波生命体だ。だが故郷の星では義肢体という、自分自身の器の役目を持つ有機的肉体を使い、文明を築いていた。残念ながら故郷は滅んだので、環境の近いこの星を乗っ取る事にした訳だ。義肢体の代わりとなる有機的肉体も随分とあるようだからな』
 その言葉に、俺は背筋が凍りついた。まさか、人類の体ごと乗っ取るというのか?
 セルラが遥の方に顔を向ける。
「つまり今、あんたがいくら抗ったところで、何も状況は変わらないという事だ。この星を三人だけで乗っ取っても仕方ない。この意味が分かるか?」
 テレビのサテラいう仲間も話し続ける。
 『結論を言えば要するに、あと半年もすれば、この星に多数の我々の星の電波生命体たちがやって来るという訳だ。まあ、数千人といったところだから、かなりの人間が余る。当然、それらは不要なので皆殺しにする。電子レンジを知っているだろう。マイクロ波の荷電分子の振動により発熱させる。我々は空中を自在に伝播して動く事が可能だ。我々が密集すれば、分子の振動による発熱量は一体どれほどになるかな?』
 テレビの合成音声が含み笑いの声を漏らした。俺は混乱の極みに達していた。何を言っているんだ、こいつらは……。
 比良橋先生も状況が掴めず、俺たちとセルラを交互に見ているしかできずにいた。
「明日人くん、どういう事なんだ? 何が起こっているのか、私にはさっぱりだ」
「俺だって分かりません。正気なのか何なのか……。一体、遥とどういう関係なんだ」
 俺がセルラという男に向かってつぶやくように問うと、セルラは嘆息した。
「やれやれ、頭の固い奴だ。まだ受け入れられんか? 俺たちは遠い星からやってきた電波生命体。この体はこの星での活動の為に奪ったものだ。フレイ効果という原理を利用している。そして、その傘を持っているその女も、同じ星から来た電波生命体で、元王族の姫という訳だ。俺たちはその姫を始末しに追ってきたクーデター組の先遣隊だ。もっとも、星が消滅した今となってはクーデター組の者しか残っていない訳だし、無理に始末する必要もないんだがな」
 セルラが俺から遥へ視線を移す。
「その姫の許(もと)には、何かと人が集まりやすい。それがこの星の人間であろうと、脅威となりうる可能性は例え瑣末なものでも排除しておくに越した事はない」
 衝撃だった。どうにも信じ難かった。俺はゆっくりと首を曲げ、隣りで傘を構える遥を見た。遥は目を合わさなかった。ただひたすらに唇を噛み、セルラを見据えていた。
「電波って……嘘だろ、遥? 君は比良橋先生の娘の、比良橋遥だよな?」
「そいつはその体の名前だ。遥という人格はその体のその脳の中で、すでに食い潰されてるさ」
「俺は遥に訊いているんだ、黙れ!」
 横から訳の分からない男に口を挟まれ、たまらない程の怒りが込み上げ、俺は思わず叫んでいた。目の前の遥が地球の人間ではない、しかも生きた電波が体を乗っ取って、俺や先生など周りの人たちを騙し続けてきたというのだ。どうしようもない、複雑な、やりきれない思いが体の底から沸き起こっていた。
「明日人」
 遥が傘を構えたまま、声を漏らした。俺と目は合わさず、しかし、その目には涙が滲んでいるようだった。
「ごめんね、こんな事に巻き込んで」
 その言葉を聞いた途端、頭が真っ白になった気がした。体が固まり、俺は直立不動になった。今の彼女の言葉は、全てを認めた事と同じだった。
 遥は傘を持つ手を握り締め、セルラに対して身構えた。
「その戦法は一度見せたら、もう効かないぞ。受動的であるし、相手に対して不意を衝いた方法でしかない。光速で空中を自在に移動できる俺たちには何の意味もない」
 そう言って、セルラは一歩踏み出した。と、その直後、ふっと力が抜けるようになり、前のめりに倒れる。ほぼ同時に、俺の隣りにいた遥も力が抜けるように目を閉じ、傘を手放して後ろに倒れそうになった。が、背後にいた比良橋先生が支えようとしたその時、遥は足を踏ん張り、立ち直った。かっと目を見開く。
「馬鹿な、いないだと? この体を捨てたか!」
 ある意味、絶望的な瞬間だった。すぐ目の前の遥の口から出た言葉が、それだった。まるで違う人間へと変貌したかのようだ。今、自分の前にいる遥は俺の知る遥ではない。認めざるを得ない。たった今、目の前の長い髪の彼女は「遥」から「セルラ」へと人格交替したのだ。
 それを悟った時の、直後の俺の行動は直感による無意識なものだった。そうと分かった時に、即座にそうすべきだと、俺の本能が叫びをあげたのかもしれない。俺は傍の彼女の頭からヘッドフォンを外し、地面に捨てて思い切り踏み潰した。脱力したように倒れ込む遥を比良橋先生が支えた横で、俺は何度も、何度も、ヘッドフォンの電波受信部を力を込めて踏んだ。
 ヘッドフォンは俺の足によって、バラバラに破壊された。比良橋先生の抱える遥は、先生の腕の中でぐったりしたまま、目を閉じていた。まるで眠っているように。
「例の、睡眠周期か。そろそろ時間のはずだ」
「そうだといいんですが……」
「ん? それはどういう意味だい」
 疑問を投げかける先生の言葉に俺が答えに詰まっていると、傍の携帯テレビでサテラの電波ジャックは終わりを告げようとしていた。
 『言っておくが、諸君らには我々に対し如何なる措置も対抗手段もない。高度なハッキングによるサイバーテロの可能性を考えようが、その他のテロリスト集団を掃討しようが無駄な事だ。先に言ったとおり、我々は電波だからだ。諸君らに残された時間は少ない。たった半年だ。半年後の午前十時頃、我々の故郷から向かっている他の仲間たちがこの星に到達する手筈になっている。それまで限られた時間を楽しむといい』
 嘲笑うようなサテラの声が聞こえ、やがて映像は砂嵐になり、元のドラマ放送に戻った。
 辺りには、ランドマークタワーに飛行機が衝突した大事故の、無残な光景だけが残っていた。そして、ようやく消防車やパトカーのサイレンの音が、耳に聞こえていた。


   3

 その日の夕方は世の中の全てが騒然としていた。横浜で起こった大規模な航空機テロ。そして、その中でテレビの電波ジャックによって宣言された、電波生命体を名乗る者からの犯行声明と地球侵略の計画。マスメディアによる警察や国会議員への取材が殺到し、テレビでも緊急ニュースによる番組変更が相次いでいた。民放はもちろんの事、NHK、さらにはCNNでも報道が続けられている。国々のいろんな放送局でも、この話題で持ち切りだろう。
 俺と比良橋先生は相模原にあるJAXAのISAS(アイサス)(宇宙科学研究所)本部でもある相模原キャンパスの一室で、テーブル席についてテレビを見ていた。ISASは元々独立した宇宙開発組織だったが、2003年に他の日本の宇宙開発組織であるNASDA(ナスダ)(宇宙開発事業団)とNAL(ナル)(航空宇宙技術研究所)と一つに統合され、現在のJAXAの一部となっている。
『電波生命体の地球侵略声明という話は本当なんでしょうか?』
 テレビの画面では、文部科学省の記者会見室で文科省大臣がカメラフラッシュの嵐を浴びている。努めて平静を装っているのか、それとも事実をまともに受け止められていないのか、表情に動揺は見られない。淡々とした口調で記者たちの質問に応対している。
『その点については、警察や関係機関の見解も交えて、あらゆる可能性を見据えた上で現在調査中です』
『人為的なテロの可能性もあるんですね!』
『その可能性も捨てきれません』
『捨てきれないという事は、本件のテロは地球外生命体による仕業であるという可能性もあると、まさか大臣がおっしゃる訳ですか!』
 その記者の質問には「まさか国が電波生命体なんて存在を認めるのか」という、嘲笑めいたニュアンスが読み取れた。微かな笑い声がテレビを通しても聞こえる。
『現場に居合わせた人間の話も交えて総合すると、そのような可能性もないとは言えませんが、先に述べたとおり、現在調査中です。詳しい事は判明次第、発表できるかと思います』
 大臣はこういう場に慣れているのだろう、冷静な応答を貫き、やがて記者会見の放送は終了した。
「私もまだはっきりとは信じ切れていないが……」
 ふと、一緒に画面を見ていた比良橋先生が、つぶやくように口を開いた。
「どうやら電波生命体という話は現実であるという線が濃厚なようだ。警察が航空会社協力のもとで調べたところ、フライトレコーダーの記録から確かに、飛行途中で操縦不能になったらしい操縦士たちの会話が記録されていたらしい。しかし、現在の旅客機はハイテク化されていているとはいえ、電波通信によるコンピューターハッキングを行うというのは、技術的にもほとんど不可能に近いそうだ」
「まあ、それができていれば、ずっと前にアメリカで起きたテロ事件のように、ハイジャックして飛行機を凶器に変えようなんて真似はしないでしょうからね」
 俺が言ったのは当然、七年前にアメリカで起きた9.11の同時多発テロの事だ。犯人グループが計画的に複数の旅客機をハイジャックし、世界貿易センタービルや国防総省(ペンタゴン)などの場所に機体ごと衝突させるという、未曾有の大規模テロだった。子供の頃にテレビで見た、旅客機のビル衝突のシーン。巨大な世界貿易センタービルが崩れ落ちる様は、今でも目に焼きついている。
 建物の規模は違うが、今日、奴らは同じ事をやってみせた。あえて同じ事を再現したのだろう。9.11テロの記憶はあまりにも無慈悲で、残酷で、絶望的なものだった。多くのメディアが注目し、世界の多くの無関係な人間ですら、得体の知れない虚無感を覚えた。だからこそ奴らは、同じ事を繰り返したのだ。遥を狙い、人々の記憶に残る絶望をもう一度繰り返す機会を窺っていたのかもしれない。そして横浜を訪れた遥を狙い、タイミング的に合わせられそうだったJAM567便を乗っ取って、ランドマークタワーへ衝突させた……。
 もし、俺たちが今日、横浜を訪れていなければ。
 JAM567便の乗員乗客も、ランドマークタワーにいた人間たちも、その付近を通りがかった人々も、命を落とす事はなかったのだろうか。
 もし、俺が今日「きぼう」のセットを見たいと言い出したりしなければ――。
 俺は小さく首を横に振った。
 違う。そんな仮定を考えても意味はない。仮にそのif(イフ)がもう一方で成立していたとしても、奴らは別の機会を狙ったはずだ。例え遥が横浜を訪れなかったとしても、奴らは別のビルに飛行機を突っ込ませたかもしれない。そうだ、俺が今回のテロを引き起こした訳でも、遥が引き起こした訳でもない。
 俺は自分に言い聞かせるように頭の中でつぶやいた。すると、比良橋先生が静かに嘆息する。
 事情を察した俺は比良橋先生に話しかけた。
「先生にも事件の情報が来ているという事は、やはり国からJAXAに何らかのお達しが来ているんですか」
「ああ。なにせ相手は地球外のものだからね。まあ実質、政治家連中の中でも信じている者はごく僅(わず)かしかいないようだ」
 比良橋先生がテーブルに肘をついて両手を握り締め、そこに額を乗せた。何をどうしてよいのやら見当がつかず、天にすがるような気持ちの表れかもしれない。
 しかし国の態度は当然の事だろうと思う。いや、国というよりは、人々全体の反応か。地球外生命体。電波生命体。地球侵略。人類の肉体強奪。そして抹殺。全てが現実離れしすぎていて、現実に慣れすぎているまともな人間はそれを受け止めるだけの受け皿が頭の中には備わっていないのだ。
 テレビでは今日のテロで家族を亡くした人々へのインタビューや、ランドマークタワー跡で立ちつくす遺族らの様子が放送されている。小学生の頃にテレビで見た、グラウンド・ゼロ前で瓦礫の山を眺める遺族たちの後ろ姿が、記憶の奥から呼び起こされた。思わず、テーブルの上に乗せていた右拳を握りしめる。
 俺はあの現場にいた。奴らと向き合い、話までした。それでも俺はその時、すでに、奴らにしてやられた後だった。沢山の人間が命を奪われた後だった。そして俺たちは今もなお、奴らの脅威の下に居続けている。
 半年後。膨大な数の電波生命体が、この地球に。その時こそ、空前絶後の大虐殺が世界中で行われ、この星は奴らにプラネットジャックされる。
 テレビの画面で遺族が泣いている。言葉にならない声で失った家族の名前を呼びながら、地面に膝をついている。胸の中に熱いものが込み上げてくるのを感じた。握った自分の拳を見る。
 俺は。俺に、できる事は――。
 そんな事を考えた時だった。突然、部屋の扉がやや乱暴に開けられた。宇宙研の若い男性職員が慌てた様子で部屋に入ってくる。
「比良橋先生、娘さんが目を覚ましました!」
 その職員の言葉に、俺も先生も思わず席を立ち上がった。

 遥はベッドで上半身を起こしていた。その頭には、壊した物の代わりとなる新しいワイヤレスヘッドフォンがある。俺の提案で代用品を用意してもらったのだ。
「明日人、お父さん……」
 遥は眉根を寄せ、悲しそうな顔をしていた。
「ごめん、ごめんね。騙すつもりはなかったんだけど」
「遥、いいんだ、その事は。今はもう」
 比良橋先生が傍まで寄って、肩に手を置いた。
「娘の人格が君に食い潰されたなんて、私は信じちゃいないよ。本当は、あの事故の時にもう、娘は死んでしまったんだろう? だが、君が体を今日まで生かしてくれた」
 遥は唇を震わせ、目を閉じた。その両目から涙がぽろぽろと零(こぼ)れ、やがて遥は、ゆっくりと頷(うなず)いた。比良橋先生は遥をそっと抱きしめる。
「ありがとう、遥。今まで私の傍にいてくれて」
「お父さん、まだ遥って呼んでくれるの? 私、まだお父さんの娘でいいの?」
「ああ。事故に遭う前も、その後の君も、どちらも私にとっては娘だ。かけがえのない、大切な……」
 遥も比良橋先生のジャケットをぎゅっと握り締める。先生の胸元に顔をうずめる。その光景は、本物の親子の姿にしか見えなかった。
 俺は自分の子供の頃を思い出した。まだ小学校に入る前の頃、父に手を繋いで、いろいろな所へ連れて行ってもらった。プールだったり、博物館だったり。取り分け、今でも記憶の一片として色褪せずに残るのは、Μ‐Ⅴの打ち上げ見学。父に肩車してもらったり、カメラのファインダーからロケットを覗かせてもらったりした。ロケットの打ちあがる様を、二人一緒になって興奮して見つめていた。それは今では懐かしい、家族の記憶だった。
 父さん……か。
 俺が二人の姿を見つめていると、遥が比良橋先生から体を離して、俺の方へ顔を向けた。
「明日人」
 ただ一言、遥は不安そうに声を漏らした。
 本当なら、今の今まで自分の中では複雑な思いが巡っていた。これまでの遥が地球外からやって来た存在で、地球の人間のふりをしていたという事実は、あまりにもショックが大きかった。眠る遥が例え目を覚ましたとして、それからどう接すればよいのかが俺には分からなかった。
 だが、今の比良橋先生の遥に対する態度を見て、そんな思いは一気に払拭された。自分がどれだけ、つまらない事にこだわっていたのかを思い知らされた。
 そうだ。遥は遥。例え、その中身が電波生命体だとしても、俺たちは心で触れ合える存在なんだ。俺たちの間には遠慮も距離もない、素直な感情の赴くままに手を繋ぐ事のできる関係なんだ。それが確実な事実で、それこそがきっと本質だ。
 俺は遥に微笑んで見せた。
「おかえり、遥」
 俺の言葉に、遥も顔をくしゃくしゃにしながら、手で涙を拭って笑顔を見せる。
「ただいま」
 俺たちの許に、比良橋遥が帰ってきた瞬間だった。


   4

 三十分後、キャンパスのミーティング室に比良橋先生含む宇宙研の職員や研究員ら十数名が集まった。長方形状に並べられたテーブル席に着くメンバーには、俺と遥も含まれていた。その理由としては、奴ら電波生命体に関わった人物だからだ。特に遥には多くの情報を提供してもらう必要がある。
 しかし、遥には過去の事故の後遺症と思われる睡眠周期というものがあった。一日に三回、遥には必ず睡眠に陥る時間的周期がある。大体三時間ごとに睡眠の周期は訪れ、それから三時間後に目を覚まし、また三時間後に睡眠状態に入る。遥の体は三時間区切りでしか活動できないのだ。だから、人並みの日常生活は難しく、中学卒業後、遥はフリースクールに通っていた。
 今から約三時間半前、セルラと呼ばれる電波生命体は遥のヘッドフォンに侵入し、その中にいる遥を直接攻撃しようとした。しかし、どういう訳かその中はすでに遥が姿を消した後だったのだろう。理屈は分からないが、遥も奴らもヘッドフォンをしていた事を考えると、電波生命体はワイヤレスヘッドフォンの電波受信部から侵入し、ヘッドフォンを介して肉体に命令を与えて操っているらしい事に俺は気づいた。だから、あの時ヘッドフォンを飛び出した遥が元の体に戻ってくるかどうかは正直分からなかったが、もしもの場合の事を考え、俺は代わりのヘッドフォンを用意させた。そうしなければ、おそらく睡眠周期に関係なく遥は二度と目覚めないと考えたからだ。
 遥が体に戻っても、あと二時間半後には再び睡眠周期が訪れる。会議は急を要するのだ。
「……つまり、君の故郷でもある、奴らのいた星というのは、三ヶ月前に発見されたあの恒星の周りを公転していた衛星だと言うんだね?」
 研究員の一人が遥に向かって尋ねた。遥はこくりと頷く。
「新聞で読んだ内容からみて、多分間違いないと思います。その恒星は、私たちの星にとっての太陽で、私たちはティエダって呼んでいました。そして、その周りを私たちの故郷、オルフォスが周っていたんです」
 遥の言葉に研究員らは、ふうむ、と唸った。
「比良橋先生の娘さんの遥ちゃんが、航空機テロの犯人が言う電波生命体だなんて話はどうにも、にわかに信じがたいのだけど……まず、原理を教えてもらえないかな。君の体は以前からの比良橋先生の娘さんである遥ちゃんの物で、人格だけが今の君に取って代わったという事なんだよね? 生きた電波が人間の体を動かす仕組みというのは、一体どういう理屈で成り立っているのか、その辺りからして我々には既に未知の領域でね。敵の事を知らないうちには、対策の施しようもないんだ」
 研究員の一人が代表して遥に質問した。しかし遥は、困ったような表情を見せる。
「ええと、私も感覚的にやっている事だから、原理って言われても、ちょっと……」
 感覚的。つまりは、人間が手足を動かすのに、動かし方なんて知らなくても、何も考える事なく無意識にできてしまうように、遥にとっては直感で行っている事なのだろう。
 でも、待てよ。確か、あのセルラとかいう奴の言葉では……。
「原理については、私が答えましょう」
 俺が考えていると、比良橋先生が遥の代役を買って出た。テーブルの席を立って、部屋の壁にあるホワイトボードに歩み寄る。
「私たちが遭遇した敵の一人が、こういう言葉を口にしていました。『フレイ効果』を利用している、と」
「フレイ効果って、あれですか。いわゆるマイクロ波聴覚効果という」
 比良橋先生は頷いた。俺も含めてフレイ効果を知らない宇宙研のメンバーに向けて、比良橋先生がホワイトボードに図説などを交えて説明する。フレイ効果とはつまり、マイクロ波のパルスを照射する事により、対象人物の脳内の組織が振動し、頭の中の音として聞こえる効果らしい。米軍ではこれを利用した、標的の無力化を目的とする非殺傷兵器「MEDUSA(メデューサ)」なる物も研究中だという。
「おそらく電波生命体が人間を自分の体として使う原理としては、これをさらに高度に使う事による催眠効果ではないかと思われます」
「マイクロ波による催眠ですか。興味深いですが、恐ろしい話だ」
「しかし、それだと一方的に体に命令を送るだけではないですか? 電波生命体とやらは、まさに自分の体のように五感も自分のものにしている訳ですよね。送信はできても受信ができなければ、五感を受け取る事はできない。触覚はおろか、視覚も聴覚も自分の物とする事はできないはずですよね」
 別の研究員が言った。比良橋先生は再び頷く。
「ええ。これは私の推測でしかありませんが、おそらくは五感を脳内で一種のデータにして、人間の体が発する赤外線を利用してリアルタイムで五感情報を送信する催眠を予(あらかじ)めかけているのではないかと思います」
「赤外線ですか。なるほど確かに、それは盲点でしたが……初めの送信がマイクロ波で、受信は赤外線ですか? 波長の違う電磁波情報を受け取っても、解析できるものでしょうか。明日人くんの推測によると、奴らはワイヤレスヘッドフォンに侵入し、そこから体に命令を送っているようですが」
「おっしゃるとおりです。当然、ワイヤレスヘッドフォンで主に使われているブルートゥース規格はマイクロ波通信ですし、ブルートゥースのヘッドフォンに赤外線の送受信機は普通ついていません。ただ一つ、この波長の違いをクリアする条件があるんです」
 比良橋先生はそう言うと、遥の方へ歩み寄る。
「遥、携帯電話を貸してくれないか」
「え、うん」
 遥はスカートのポケットから自分の携帯電話を取り出して、比良橋先生に手渡した。受け取った比良橋先生は携帯電話を掲げて皆に見せる。若い宇宙研職員がすぐに気づいたのか、あっ、と声をあげた。
「携帯電話は以前、主に赤外線通信で端末間のデータ通信を行っていました。そしてそれは今でも続いていて、加えて最近では音楽プレイヤー用としての機能も高まり、ヘッドフォンなどと通信できるブルートゥースなどにも対応する機種が増えてきているんです」

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「そうか! 携帯電話を中継してデータの波長を変換する訳だ」
 研究員らが意表を衝かれた顔を見せた。
「なるほど。ですがしかし、それなら初めから携帯電話に潜めばいいような気もしますが……なぜ奴らはヘッドフォンなんでしょうね?」
 一人の研究員が、やや引っかかるようにつぶやくのが聞こえ、すぐに全員が言葉を止めた。が、それには遥が首を横に振って答える。
「ダメなんです。なんでなのかは私にも分からないんですけど、ヘッドフォンとかイヤホンじゃないと無理みたいなんです」
「そうなのかい? まあ、催眠というからには脳に働きかける訳だから、頭部に装着する物の方がいいのか……」
 遥の言葉に、ようやく研究員らは皆、合点が言ったようだった。おそらくそれで正解だろうと俺も思う。遥も、ランドマークタワーの崩れた現場で会った二人も、皆ワイヤレスのヘッドフォンかイヤホンをしていた。頭に身につける無線機器が必須なのは、ほぼ間違いない。その条件下で肉体の操作が可能なケースとして赤外線通信とブルートゥース通信の両方に対応した携帯電話が必須だとすれば、きっとレンジやセルラと呼ばれた電波生命体のあの二人も、操作していた人間がそういう携帯電話を持っていたのだろう。
 比良橋先生の説明を聞き終えて、全員、ホワイトボードを見つめたまま黙り込んだ。ふいに訪れた沈黙。その理由は、なんとなく皆が分かっていた。
「もし比良橋先生の推論が正しいとしても……」
 一人が、つぶやくように声を漏らす。
「こんな奴らを相手に、ただの人間がどう対抗できるっていうんでしょうか」
 誰も返事しなかった。
 確かに、化け物じみている。自由に人間の肉体を操作できる、目で見えない地球外の光速生命体なんて。普通に考えれば、対等に渡り合える相手だとは思えない。
 絶望。まさしく、そんな空気だった。不安と恐怖が、布が水を吸うように、じわじわと拡がりつつあるような、そんな雰囲気だった。
 これはまずい。そう思った俺はとっさに、頭に浮かべていた打開策案を口に出してみた。
「奴らを殺す手段はあります」
 無言の中、俺がそう言うと、全員が注目した。比良橋先生が俺に向かって声をかける。
「それはもしかして、データ変換しての物理破壊の事かい? 普通の電波であればそれも可能だろうが、相手は自由自在に動く、生きた電波だ。都合よくアンテナから受信されてくれるとは思えないが」
「いえ、方法はもう一つありますよ、先生。電波を相殺させるんです」
 俺が言うと、遥以外の皆が、あっ、と声をあげた。
 とりあえず言ってしまったものは仕方ない。どこまで話を持っていけるのか、はたして光明となりうるのかも分からないが、出せる案は出しておいた方がいい。俺は半ば勢いで、全員に向かって説明を続けた。
「確か、ステルス軍用機などでも使われている方法の一つです。飛んできた電波に対して同じ波長の逆位相の電波をぶつけて相殺するんです。互いの電波が消滅する訳ですから、奴らにとっては死と同じ事になるかと」
 通常、ステルス軍用機がレーダー探知を回避する方法は、飛んできたレーダー波を散乱させるか、吸収素材で吸収するか、の二パターンが用いられる事が多いらしい。相殺するという方法は、実際には技術的にかなり難しいと聞いた事がある。でも、理論上は電波の相殺は可能なのだ。もし、これで地球に向かって進行している奴らを全滅させる事ができれば――。
「そうか、そういう手があったか! 相手が生命体だという事に惑わされていたな。何の事はない、電波には電波の対抗手段があった訳だ」
 職員の一人が興奮気味に言った。
「いや、そう単純な話でもありませんよ」
 別の一人がすぐに口を挟む。
「相手が生きた電波であるとすれば、宇宙空間では一塊になって移動しているとしても、地球に到達した時点で分離するかもしれない。奴らの規模は数千だとテレビでは言っていました。数千の電波にそれぞれ電波を照射する事は不可能だ。しかも目で見えない、空中を光速で自在に動ける相手にはね」
「では、地球に到達する前で叩く、というのは有りですか?」
「そうなると、人工衛星を使うしかありません。しかし問題は、奴らが半年後のいつ地球に到達するか、という時間ですよ。ぴったり半年後なのか、大体の半年後なのか。十時頃というのも大体の十時頃なのか、ちょうど十時なのか。到達時間が判明しない限り人工衛星を使うにしても、迎え撃つ最善の位置に配置できない」
 ううむ、と何人かが唸った。再び全員が黙り込み、壁に掛けている時計の針の音だけが、静かな部屋の中で響いていた。
 俺は遥の睡眠周期が気になり、時計に目をやった。次の睡眠時間まで、あと一時間。一時間後には遥は強制的な睡眠に陥り、次に遥から話が聞けるのはその三時間後の夜に持ち越される。その三時間後にもまた眠りについてしまうが、それは普通の夜の睡眠だ。
 ……いや、待て。俺は今まで、夜だから遥も人並みの睡眠の時間帯には眠っていると考えていた。しかし、もし深夜帯にも覚醒の時間があるとすれば。夜の普通の睡眠時間帯も三時間区切りで間に覚醒時間があるとすれば。遥は一日に四回、覚醒と睡眠の交代がある事になる。覚醒と睡眠で六時間。六時間が四回。一日に六時間周期……。どこかで聞き覚えがある間隔だ。
 電波……空っぽのヘッドフォン……三時間区切り……日に六時間周期……人工衛星……。
 俺の頭の中で様々な情報がジグソーパズルのピースのように繋がり、一つの仮説を組み立てていく。まさか……。しかし、もしそうだとすれば、光明はあるかもしれない。
「すみません、いろいろな星の立体的な位置を時間ごとに算出して表示できるようなソフトとかって、ありませんか」
 俺は誰にともなしに尋ねた。その言葉に、職員の一人が答える。
「別室に行けばあるけど。でも、どうするつもりだい」
「まだ希望的観測に過ぎませんが、ひょっとしたら、奴らが到達する時間を割り出せるかもしれません」
 その言葉を聞いた皆の顔に、期待の色が表れた。

 俺たちは研究員が使っているパソコンのある別室へと移動した。ミーティング室へと移動させるには少々大変な大きさのパソコンである為に、人の方が移動するしかなかったのだ。しかしモニター表示は全員で見えるように、大型のディスプレイに繋いで表示させた。
 皆が楕円のリング状になったテーブルの席に着く中、俺は大型ディスプレイの脇に立って、説明を始める。
「まず、奴らの星の太陽でもあるティエダ。奴らの故郷オルフォスはこのティエダの周りを公転する衛星の筈です。確かティエダは衛星も一つ発見されていますよね。遥、オルフォスはこの衛星かな?」
 職員の手で画面に表示されたティエダの唯一の衛星を指差して、俺は遥に尋ねた。遥は首を横に振る。
「違うと思う。私たちの星はこの地球と環境が似ているの。だから、もっと青いと思う」
 パソコンを操作していた職員は頷く。
「だろうね。しかし、この恒星の周囲にある衛星はこれしか――」
 そこまで言って、口を止めた。それが表す事実は、遥の両親たちがいる筈の故郷は、すでに存在しないという事だったからだ。
 遥は画面を見つめて、少しの間黙っていた。が、目を閉じて大きく息を吸い、ゆっくりと吐いて、そして引き締めた顔で言った。
「明日人、続けて」
 俺は頷いた。
「奴らの話からして、電波生命体の故郷であるオルフォスは、おそらく恒星ティエダに飲み込まれたとみて、ほぼ間違いないと思います。多分その他の惑星もそうでしょう。すると、一つだけ残っているこの衛星は、なぜ飲み込まれていないのか?」
「……ロシュ限界か」
 比良橋先生の声に俺は頷いた。ロシュ限界とは、主星の潮汐力(ちょうせきりょく)(重力を受ける場所による重力差によって物体が体積を維持しながら変形する力)によって伴星が破壊される領域の境界線だ。つまり、唯一の衛星はティエダのロシュ限界の外側にあるという事になる。

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「ティエダからこの衛星までの距離はほぼ1AU(約一億四千九百六十万キロメートル)。電磁波の移動速度は光速だから秒速約三十万キロ。ええと、奴らの移動時間で大体8.3分くらいか」
 研究員の一人が素早い計算で暗算してみせた。
「しかし、それがどうしたというんだ?」
「奴らが地球に向けて出発した地点は恒星ティエダの衛星周回軌道のライン上で、それはティエダから誤差8.3分以内の範囲という事です。その範囲から光速で、半年後の地球の位置する場所までの、奴らのある程度の移動経路が割り出せます。その移動経路の直線上の地球から光速で半年の所に位置する、電波を発生する天体がもしあれば、その天体を地球から観測すれば奴らの通過した時間を割り出せる事になりませんか」
 つまりは、観測天体の電波画像に異変が見られれば、その画像が撮影された時点が奴らの通過時間となる訳だ。
 俺の説明を聞くと研究員たちは感心したような顔はしたものの、しかし納得はしなかった。
「なかなか筋のいい考え方だけど、さっきも言ったとおり電磁波のスピードは光速だ。つまり奴らも、天体からの電波も、同じ速度な訳だから、望遠鏡に天体からの電波が到達した時点で同時に奴らも地球に到達しているという訳だ。それじゃ遅すぎる」
「確かにそうです。しかし、もし奴らの移動直線上に何らかの電波天体があれば、天体から発する大量の電波の海の中をそのまま突っ切るとも思えません。電波生命体にとって電波の接触とは、物理的な衝突に等しいはずです。奴らの集団の先頭は天体からの電波の海に衝突するかもしれませんが、そもそも自在に動ける電波ですから、後続の者たちは電波の海を迂回して地球へ向かう。すると、迂回する分だけわずかな時間差(タイムラグ)が生まれる。準備が整っていれば、そのわずかな時間に対抗手段を取る事は可能なのでは?」
 俺の仮設を聞くと、にわかに研究員たちは沸いた。
「なるほど、盲点だったな……」
「相手が光速であるという点にすっかり飲み込まれていましたね。考えを巡らせれば、こうしてまだ光明はあるもんだ」
「なにせ、光速は宇宙で一番速いスピードですから。そんな速度で動ける生命体なんて、もはや究極じゃないですか。勝てる見込みは初めからほとんど有りませんでしたよ。よく思いついたもんだ」
「いやいや、私たちがそんな事を言ってどうするんですか」
 宇宙研の面々の表情が次第に緩み始めていく。が、その空気を制したのは比良橋先生だった。
「まだ安心するのは早いですよ。明日人くんも自分で言ったとおり、これは希望的観測に過ぎません。この対策案を通すには、その直線上で地球から0.5光年の位置に電波天体がなければいけないはずです」
 言われて宇宙研の研究員や職員らが再び顔を引き締める。誰かの唾を飲み込む音も聞こえた。
 そうだ。俺の提案は希望的観測。奴らの通過時間を割り出す為の、何らかの電波天体がそこに存在していなければ、全てが振り出しに戻る。
 パソコンを操作している職員が、比良橋先生の視線を受けて、慌ててキーボードを叩く。俺も遥も、比良橋先生も、他の宇宙研の面々も、皆が固唾を呑んで、結果を見守っているのが、その場の空気で自然と分かった。俺も生唾を飲み込む。
 やがて、計算を終えたパソコンが、ディスプレイの画像表示を更新していく。それを見て、パソコンを操作している職員が声をあげた。
「あった、ありました! これって、今日発見が発表されたばかりの新しい準惑星ですよ!」
 どうやらそれは、オールトの雲とカイパーベルトの境界に位置する、俺がコスモワールドでニュースを知ったあの新しい星だった。運のいい事に、既に電波観測も行われている天体だ。
 途端に部屋内に、おおっ、という声が湧き起こった。
「行けますね! これなら、我々人間の技術でも奴らに対抗する事ができる」
 再び周囲を希望が埋め尽くしてゆく。皆が口々に、安堵感を言葉にする。が、それでも比良橋先生だけは表情を崩さぬまま、画面をじっと見つめていた。それは俺も想定済みの事だった。きっと比良橋先生は今までの話だけで納得しないだろう事は、話をした俺自身にも分かってはいた事だったのだ。まだ、指摘すべき点がある。
 比良橋先生はやがて、おもむろに口を開いた。
「明日人くん、この案はかなり素晴らしいと思うが、それでも一つ重大な事を見落としているよ。奴らは電波だ。可視光による観測でその姿は捉えられないから、電波観測という点は頷けるんだが」
 比良橋先生が躊躇(ためら)いながら言った。そのとおり、可視光(目が景色を認識できる波長の光)以外の電磁波は波長が違う為、その姿を捉える事ができない。
「どこか気になりますか、先生。VLBIだってあるじゃないですか」
 研究員の一人が言った。VLBIとは超長基線電波干渉法の略だ。パラボラアンテナで電波を受信して天体を観測する電波望遠鏡は、口径が大きいほど観測画像の解像度を高める事ができる。高い解像度であるほど当然、何十万光年や何億光年といった超長距離の天体を観測できるのだ。その為、世界で作られる電波望遠鏡は次第に大きくなっていったが、土地にも限界があり、もちろんある程度の大きさで行き詰まる。これをクリアしたのがVLBIで、複数の電波望遠鏡で観測したデータをそれぞれで時刻と共に記録し、その記録内で複数のデータの時刻をぴたりと合わせる事で、離れた電波望遠鏡の距離がそのまま一つの望遠鏡の直径に相当する高解像度の天体画像を生み出す事ができるのだ。それはまさしく、地球の直径の電波望遠鏡と同じである事を意味している。
 しかし、比良橋先生は首を横に振った。
「いや、駄目だ。奴らが一光年以上もの尾を引いて宇宙空間を飛んでいるとも思えない。つまり、一光年以下のスケールの電波を観測できるほどの高解像度でなければ無理だ」
 思ったとおりの指摘が挟まれた。比良橋先生が言うと、研究員らは途端に落胆の色を見せる。地球の直径は一万三千キロ。それほどの口径の電波望遠鏡をもってしても、観測は不可能なのだ。宇宙のスケールは途轍もなく大きい。
「せめてVSOPが今、可能であれば……」
 誰かがつぶやく。
 VSOP――十一年前、内之浦からΜ‐Ⅴ一号機で打ち上げられた人工衛星「はるか」によって行われた観測ミッション。スペースVLBI。
 地球上で限界を迎えたVLBI以上の解像度を持つ電波観測を行うには、地球外にもう一つ電波望遠鏡を作るしかない。その発想によって生まれたのが電波天文衛星「はるか」。複数の電波望遠鏡の距離がそのまま望遠鏡の直径に値するVLBIにおいて、地球の衛星軌道に電波望遠鏡を配置した事で、人類は一気に直径約三万キロメートルの電波望遠鏡を手にしたのだ。


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 しかし今、VSOPが実行不可能であるという事は、皆が理解していた。当初三年を予定されていた「はるか」は予想を上回り長期間運用する事ができたが、運用開始から八年九ヶ月の後、とうとう老朽化の限界を考慮して運用が停止された。俺が遥と出会う前の年、二〇〇五年十一月の事だった。
「後継機である『ASTRO‐G』はまだ開発中ですし……。今現在、VSOPを行える電波天文衛星は存在しませんね」
 職員の一人が暗い顔でつぶやくように言った。
「いえ、おそらくはあります」
 俺が言うと、俯(うつむ)き加減であった皆が顔を上げた。俺は遥の方へ顔を向ける。
「そうだろう? 遥。君はそのヘッドフォンの中にいるんじゃない。それはあくまで遠隔操作の電波の受信機。君が今いるのは……宇宙空間だ。それも地球の衛星軌道にいる」
 遥は俺の目を見つめながら、静かに頷いた。俺のその言葉は初めから予想がついていたかのように、遥は全くと言っていいほど動揺を見せなかった。他の皆は理解できないといった表情をしている。
「私の正体を知った時、明日人はいつかその事に気づくんじゃないかと思ってた」
「どういう事だ? 明日人くん」
 比良橋先生が俺に答えを求めた。
「先生、遥には三時間ごとの睡眠周期がありますよね。もし睡眠と覚醒のセットで考えれば、六時間です。一日二十四時間として六時間が四回。この周期は何かと同じじゃないですか?」
「六時間が四回? 六時間……」
 つぶやきを繰り返しながら、比良橋先生の表情が次第に変わっていく。ここまで言えば、比良橋先生ならきっと気づくだろうと、俺には確信めいたものがあった。
「まさか……。『はるか』の地球の公転周期か?」
 俺は頷いた。
「そうです。そして一回の周回で太陽のある側と太陽の影になる側との行き来をします。つまり、太陽のある時とない時とで、それぞれ三時間。『はるか』は太陽のない地球の裏側にいる時は、活動を中断して節電しているんです。まあ、夜は地球の裏側に太陽があるので、その時間帯は活動停止せずに太陽電池で充電できますけど」
 そこまで俺が言うと、比良橋先生は動揺の色を隠せないようだった。
「まさか、明日人くん。遥は――」
「そうです、人工衛星『はるか』の中にいます」
 その答えには、一同が驚嘆の声をあげた。つまりはこうだ。電波天文衛星「はるか」は、宇宙空間を飛来してやってきた電波体である今の遥をアンテナから受信した。しかし太陽の影にいて節電の為に活動を中止していたのか、その時の遥はデータ化されて磁気テープに保存されたりせず、衛星内に留まる事ができた。そして、衛星「はるか」を自分の体とし、そこから衛星の人工電波による通信でヘッドフォンを介し、遥の肉体を操っていたという訳だ。セルラがヘッドフォンに侵入した時に遥がいなかったのも当然なのだ。そもそも最初からそこにはいなかったのだから。
「しかし、確かに三年前に『はるか』の運用停止のコマンドが確認されたはずだ」
 比良橋先生が慌てるように言った。
「嘘をつけばいいだけですよ。デジタル変換で、遥は人工衛星のコンピューターそのものとなっている訳ですから。おそらく、排出したスラスター燃料もまだ残っているんじゃないかな」
 「はるか」の運用停止時、確か爆発を防ぐ為に、用済みとなった残りのスラスター燃料は排出されたと、当時、JAXAのホームページで目にした覚えがある。しかし、それは運用停止となって必要のなくなった燃料が、何かの間違いによって宇宙空間で爆発する危険性を回避する為だ。宇宙空間には世界中の国々から打ち上げられた無数の人工衛星が漂っているうえに、有人であるISS(国際宇宙ステーション)などが爆発に巻き込まれたら、人命にも関わる。もしその時、船外活動(EVA)などしている宇宙飛行士がいたりしたら、完全にアウトだ。
 だが、運用室からの制御がなくなっても、もし「はるか」自身が意識してコンピューターを制御すれば。そういった事故は未然に防げる。ゆえに、スラスター燃料を外に排出する必要もなくなるのだ。燃料は人工衛星の移動には必要不可欠だ。捨てる必要がないのであれば、万一、必要が生じた時の為に、最後まで取っておいた方がいいに決まっている。
 俺が遥に目をやると、遥は頷いた。皆、驚愕の事実に茫然とするしかなさそうだった。遥を見たまま、なかなか言葉が出てこないようだった。
「本当なら別の体……それこそ、ヘッドフォンでこの体を使ってもよかったんだけど、私もこの人工衛星には愛着があって。私が意識して制御すれば、まだ持つんじゃないかと思って」
 遥のその言葉に、ようやく声を発する事ができた研究員が、慌てた口調で声をかける。
「ちょ、ちょっと待って! つまり、人工衛星の『はるか』は実際にはまだ生きていて、スペースVLBIが可能だという事かい?」
 遥は頷いた。
「まだぎりぎり、なんとか」
 その答えに、沸き立つ研究員たち。部屋中の温度が高まっていくのが俺にも分かった。一様に興奮する。
「こうしちゃいられないぞ。スペースVLBIを行うには、世界中の電波望遠鏡の協力が必要だ。今すぐにでも、各国の関係者に連絡を取らなきゃ。ですよね、比良橋先生」
「あ、ああ」
 比良橋先生は動揺を引きずったまま、何とか答えた。宇宙研の研究員や職員らが慌てるようにして席を立ち上がり、指示を飛ばしたり、確認を取ったり、電話したりと、忙しなく動き始める。
「まずはアメリカ国立天文台に、NASAのジェット推進研究所に、ええと、それからヨーロッパVLBI連合と、ええと、それから……あ、日本の国立天文台にも連絡しないと!」
「USC(内之浦宇宙空間観測所)や相関局にも確認の連絡! VSOP2で運用予定だった施設とシステムの転用は可能なのか、すぐにチェックを! 急いで!」
「研究センター棟に至急、『はるか』の運用室を用意してください! そうです、至急です!」
 急遽、嵐のようになった宇宙研の面々の中で、比良橋先生だけは椅子に座ったまま、その様子をぼうっと見たままだった。いや、正確には彼らの姿は先生の目には映っていないようだった。遥が人工衛星「はるか」の中にいるのだという事が、そして「はるか」がまだ生きているのだという事が、比良橋先生にはよほど刺激が強すぎる事実だったらしい。でも、それも無理からぬ事だ、と俺も思う。
 このまま動かないままでいても何も始まらないので、俺は比良橋先生に声をかけた。
「比良橋先生」
 ようやく、比良橋先生ははっとした様子で我に返った。
「ごめんごめん、ぼけっとしてしまった」
 バツが悪そうに、比良橋先生は頭を掻いた。ふと、何か感慨深いものがあったのか、比良橋先生は独り言のようにつぶやく。
「私は『はるか』のプロジェクトに十七年携わってきた事もあって『はるか』への愛着は大きかったんだ。MUSES-Bの衛星名は関係者の投票で決まったから偶然ではあったんだが、娘と同じ名前を持つせいもあって、どうも擬人化して感慨に浸る事も多かったよ。しかし……まさか本当に、娘が人工衛星『はるか』であるとは……」
 その言葉に、俺は遥と顔を見合わせた。なんとなく二人揃って、くすりとした笑みが零れた。
 一人つぶやく比良橋先生の言葉はよそに、研究員らは電波望遠鏡を所有する諸外国の関係者へ連絡を取る為に部屋を駆け出していった。
 運用停止から約三年。再び「はるか」を使って実行されるそのスペースVLBI計画は、その後VSOPダッシュと正式に呼称が決定された。


   5


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  2008年10月4日

「明日人くん、こんなところにいたのか」
 相模原キャンパス敷地にある飛翔体環境試験棟で、ふいにかけられた声に、俺は後ろを振り向いた。見ると、比良橋先生がこちらに歩いて近づいてきていた。
 がしゃん、と大きな音が、空間内に響き、俺は再び試験室中央にある機械の塊を見た。外観では開発中の内のどれの物なのかは判別つかなかったが、説明してくれた研究員によると、人工衛星の試験中らしい。詳細はさすがに教えてくれなかったが、こんなに間近で人工衛星の開発中の様子が見られるという事実が、俺の胸を揺さぶり、高揚させてくれる。
「先生、箱状の形をしていますから、あれは金星探査機の『PLANET‐C(プラネットシー)』か、VSOP2の『ASTRO‐G』か、どっちかかと俺は思うんですけど、どっちなんでしょうかね」
「そこまではさすがに教えられんよ」
 ははは、と比良橋先生は笑いながら、傍まで来て同じ視線の先を見る。
「わざわざ俺に見せてくれる訳ですから、ひょっとしてあれが『ASTRO‐G』だとか?」
「まあ、そこは君の想像に任せるよ。そろそろ出よう」
 ……ひょっとして図星だったのだろうか。

 こんな機会が訪れるなんて、まるで夢のようだった。今でもまだ信じがたい。
 VSOPダッシュ計画の原案を生み出した俺は、対電波生命体対策室の特殊アドバイザーの任を拝命する事となった。もちろん、JAXAの人間でもISASの職員でも、ましてや社会にも出ていない一高校生に過ぎない俺に、大きな期待が寄せられている訳でもない。アドバイザーなんて御立派な名前をもらっているが、特殊と付いているだけあって、正式なものでもない。実質、何も働かなくても、結果が出せなくても、何ら責任を負わされる事はないのだ。
 でも、周囲はそうはならないであろう事を知っている。俺が自発的に頭を巡らせるだろう事を、宇宙研の人間たちは分かっていて任命したのだ。
 当然、素人の、しかも高校生などに専門的な事が分かるはずもない。周囲が期待しているのは、俺の閃きだ。VSOPダッシュ計画を思いついたのだって、たまたまではあるが、俺の閃きによるものだった。加えて今回の計画には、「電波生命体」という敵が存在する事、人類側のカードとして、同じ電波生命体である遥が戦いのカギを担っているという事が重要な点となってくる。それには、普段から遥と一緒にいて、遥の事を熟知している俺の協力が必要不可欠となってくるのだ。もしVSOPダッシュに関して不測な事態が発生した時、専門的な対処なら宇宙研の人間だけでも対応できる。しかしそれが、遥や電波生命体の事となれば、もしかしたら俺の力が必要になる場面が出てくるかもしれない。ISASはそういったケースを万一の想定内に入れている。
 しかし本来、俺が相模原キャンパス内にいる事はともかくとして、施設内を見学する必要はないはずだ。研究開発や試験などを行っている施設内の様子を見せてくれるのは、言わばISASからの厚意なのだ。
 飛翔体環境試験棟を出て、敷地内の道を歩いて比良橋先生と一緒に、研究管理棟へと向かう。
 周囲を見回しながら、俺は静かに興奮する。今見てきた、人工衛星や観測ロケットを打ち上げるのに必要な機能、性能の確認試験を行う飛翔体環境試験棟。隣接するのは、ロケットのパーツや衛星の強度試験、分離試験などを行う構造機能試験棟。他にも、特殊実験棟、中央機械棟、風洞実験棟、総合研究棟などもある。俺にとって身近なところで言えば、研究員宿泊棟と食堂、売店だろうか。ISAS内で俺が主に利用するのは、この三か所だ。特に生協での四百五十円定食にはお世話になっている。ISAS内での食費(ただし朝食・昼食・夕食のみ)はISASが受け持ってくれるので、一高校生としては大助かりだ。加えて俺は高校生なので、休学しての拘束時間を金額に換算した拘束費も支払われるらしい。そのぶん学校には行けないので、自主的な勉強が必要となってくる訳なのだが。
 道の先に、建物とは違う大きな物が横になって飾られている。筒状のそれは、宇宙研の展示物として有名な「M-3SⅡ(ミュースリーエスツー)」ロケットの実物大模型だ。「M-3SⅡ」は、ハレー彗星探査機「さきがけ」や、「すいせい」などを打ち上げたロケットだ。その向かいには、何かの台だけが設置されている。そこに何が載るのかという事は、宇宙好きなら誰でも知っている。予定では、一週間後に新しい展示品がそこに飾られているはずだ。
 「M-3SⅡ」の前では、三十代ほどの男性がデジカメで写真を撮っていた。職員や研究員ではなく、明らかに一般人だ。相模原キャンパスは、去年から無料見学ができるようになった。宇宙マニアも、そうでない人も、こうして相模原キャンパスに来て、目の前のロケットの模型を眺めたり、展示室の小惑星探査機「はやぶさ」の実物大模型を見て回ったりする。毎年の一般公開日などには催し物などもあって、家族連れや宇宙好きなど、大勢の人で辺りが埋まるほどだ。

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「俺もあんな風に、一般の人間として見学には何度も来ましたけど、施設の中までは見学できないじゃないですか。今日は感激ですよ」
「せめてものお礼の気持ちだよ。私は君と知り合って二年ほど経つけど、君はそれを機にJAXAの研究開発の様子を見せてほしいなどと頼んだりしてきた事は一度もなかったね。立場をしっかりとわきまえている子だ、といつも感心していたよ。いくら知り合いとはいえ、立場として許されざる事も多い。簡単に部外者に明かせない事の方が多いんだ。実を言うと、いつか君にそういうお願いをされた時はどうしようかと考えた時だってあったよ」
 比良橋先生の言葉に、俺は照れ笑いするしかなかった。
「実を言うと、俺も凄く我慢していました。なにせ、『はるか』のプロジェクトマネージャーである比良橋先生と知り合いになれるなんて、自分にとっては史上最高の幸運だと思っていましたから」
 それを聞くと、比良橋先生は意外なほど豪快に笑った。
「お互いに、我慢してヒヤヒヤしていた訳だ」
 そう考えると、俺もつい、噴き出すようにして笑ってしまった。
「でも、感激したのは本当ですよ。俺にとって比良橋先生は雲の上のような存在でしたから。……と言っても、ただの高校生なんだから当然なんですけど。でも、今日は本当に感動しました。日本の宇宙開発を担っているJAXAの研究施設内を見学できるなんて、贅沢この上ない事ですよ」
「アメリカ航空宇宙局(NASA)などに比べたら、施設のスケールは遥かに小さいがね」
 俺は首を横に振った。
「施設のスケールなんて、実績上は関係ありません。確かに日本は世界の宇宙開発の中でスタートは大きく出遅れましたけど、世界初の偉業を成し遂げてもきました。『はるか』だってそうだ」
 比良橋先生は足を止めて、俺の方を見た。大きく頷く。
「君は本当によく分かっている」
 そう言って比良橋先生は、キャンパス内に建つ研究棟の数々を見回した。
「確かに、人類史上で成し遂げた宇宙開発の実績は、アメリカや旧ソ連などと比較すれば、少ないかもしれない。だが、日本の技術力は世界でもトップクラスだ。経験を積めば日本も宇宙開発の歴史に次々と名を刻む事はできる。『はるか』がそうであったようにね。これからますます、そういった日本の世界初は増えていくはずだ。私はそう確信している」
 比良橋先生の熱のこもったその言葉は、俺の考えと同じだった。
 宇宙に電波望遠鏡を飛ばす。地球上で限界だったVLBIの精度を高める為に、宇宙に望遠鏡を作る。そんなぶっ飛んだアイディアを実現させた日本の技術力の水準は世界レベルだと言える。宇宙の望遠鏡と言えば、スペースシャトルのディスカバリー号で打ち上げられた赤外線天体観測用の「ハッブル宇宙望遠鏡」が有名だが、単体で機能する「ハッブル宇宙望遠鏡」と違って、VLBI用の「はるか」は地上の電波望遠鏡と連携する。だからこそVSOP計画は世界的な、壮大なプロジェクトとなった。
 もちろん、世界中の電波天体観測の大革命となるプロジェクトだった為、国々の研究者が集まって協力し、共同で行ったのが「はるか」の研究開発体制だった。国際プロジェクトなのだから当然だ。外国からの研究員たちの協力もなければ「はるか」は完成しなかっただろう。だが、そのリーダシップを取ったのは日本の宇宙科学研究所(ISAS)だった。それもまた紛れもない事実なのだ。
 ふと、比良橋先生が思い出すようにして笑った。
「これは以前、NASAの人たちが日本に来た時に言った言葉なんだがね」
 そう前置きしてから、比良橋先生は再び可笑しそうに笑う。
「『はるか』の研究体制について、マリリン・モンローがボロを着ているみたいだ、と表現したんだ。多少の皮肉も交じってはいると思うが、ある意味、凄い讃辞だと思わないか」
「確かに」
 NASAの連中も洒落のきいた事を言うもんだ。笑いながら通り過ぎる俺たちを、「M-3SⅡ」の前でカメラ撮影していた一般男性が不思議そうに見ていた。

 翌日、俺と遥はISASに許可をもらって、朝から横浜に向かった。二人ともなるべく相模原を離れないのがベストなのだが、遥のたっての希望だった。最悪、何かが起こったとしても、遥は体を離れれば光速移動できる。宇宙研の仕事に遥が協力できるとすれば電波状態の時なので、地球人の遥の肉体はなくても問題ないのだ。
 その日の遥は口数が少なかった。いつもの天真爛漫な遥からはイメージできないほどだった。表情もあまり明るさは見られなかった。
 いつものように遥は宇宙の傘を持ってはいるが、あまり傘に意識は向いていないようだ。本当に、ただ持ってきただけ、という感じだ。元々、今まで遥が宇宙の傘を持ち歩いていたのも、いつ何時、電波生命体の追っ手に狙われるかもしれない、という危機感からだった。襲われても自作の武器で対抗できるように、常に携帯していたのだ。だがその戦闘方法が判明してしまった今、傘が有効かどうかは分からない。問題は、唯一残っている先遣隊の最後の一人が、宇宙の傘について知っているかどうかに懸かっているとは思うが。
 遥が横浜へ行きたいと言った時に、俺には理由が想像ついた。俺たちにとって、いや、JAXAにとって、今の横浜は特別な意味を持つ街だ。そこに遥が向かいたいとすれば、理由は一つしか見当たらなかった。
 電車に揺られている間、俺と遥はほとんど会話を交わさなかった。遥は座席に腰掛け、窓の外を流れる風景を、ただ黙って見つめていた。声をかけるのは思慮の浅い行為だ。俺は隣りに座って、駅の売店で買った週刊誌の記事を読んでいた。
『電波生命体は存在するのか!?』
 そんな見出しで始まっている記事が告げる内容は、一ヶ月前の航空テロについての文科省とJAXAの徹底した非応対姿勢について取り上げているものだった。電波生命体の話が事実であるとするならば、と前置きした記者の記事は、その事実を公開しない点について推測を並べている。電波生命体が実在するのであれば、その存在はテレビの犯人が述べていたとおり、地球に住む人類には全く勝ち目がない。パニックを回避する為に、政府は緘口(かんこう)令を敷いているという可能性は考えられる。一方、テレビの犯行声明と航空テロを実行した犯人グループは人間であり、捜査の攪乱を狙って電波生命体などという妄言を流したのではないか、という説もある。この仮説で事実関係と合わせて考えられるのは、国家レベルの一級テロ組織による犯行である場合だ。警察がその事実をすでに掴んでいるとすれば、捜査情報の流出を防止する目的で情報非公開を貫いているという可能性も考えられなくはない。いずれにせよ、文科省もJAXAも航空テロの件についてノーコメントを徹底しているという事実は、今の日本が憂慮すべき事態に陥っているという可能性も示唆している――というのが、記事の内容だ。
 さすがにマスコミというのは鋭いところがある。しかし、こんな事を書き並べれば、それこそパニックを引き起こしかねない、というところまではマスコミは配慮してくれない。国を預かる身ではないマスメディアの人間たちには報道の自由を謳って、好き勝手に報道をするだけするフシがある。割を食うのは真面目に報道の使命を理解している業界の人間だろう。
 それに、地球の人間による人為的テロの場合、情報流出を防止する為に情報非公開にしているのではないかと、そこまで考えが及んでいて、何故、電波生命体実在の場合は、同様の理由が考えられないだろうか。電波生命体が実在したとしても、そいつらだってテロリストであり、犯罪者なのだ。対策室が情報流出を防ぐ為に情報を明かさないという可能性だって等しくあるだろうに。
 俺は嘆息しながら、雑誌を閉じた。隣りに目をやると、遥はまだ窓の外の景色を見つめていた。
 航空機テロが起こってから一ヶ月という節目もあって、報道関係は再びこの話題を取り上げている。遥が横浜へ向かう事を考えたのも、それが原因なのかもしれない、と俺は思った。

 横浜駅から根岸線に乗り換え、桜木町駅で降りる。駅から少し歩くと、その場所はすぐに姿を現した。
 みなとみらい、沿岸。退役した大型帆船、日本丸が展示されるその横には、広い敷地を建設現場用の金網が囲っている。延床面積三十九万二千八百八十五平方メートル。その広い面積を囲む金網の向こうには、大量の瓦礫の山と、いくつかの重機がある。その向こうには、クイーンズスクウェアのビルがそびえ立っている。
 この金網に囲まれた場所は、一ヶ月前、航空機の衝突によって崩壊した、タワービルの跡地だった。
 遥は金網の傍に立ち、目を細めて、瓦礫の山を見つめていた。
 今はもう犠牲者の遺体の搬出作業はあらかた済んだみたいだが、それでも、今もまだ稀に瓦礫の撤去作業中に発見される事も珍しくないらしい。
 風が吹いた。
 遥の長い黒髪をとかしてゆく。
 遥は前を向いたまま、ただひたすら、その瓦礫の山を見つめていた。
「私がこの星に来なければ」
 ふと、遥が正面を見たまま、つぶやくように口を開いた。
「私が逃亡先に、この星を選ばなければ、クーデター組も来る事はなかった。飛行機に乗っていた人たちも、死なずに済んだんだよね」
 やはりだ。遥はずっと気にしていたんだろう。自分がこの星の人間たちを巻きこんでしまったのだと。
「遥のせいじゃない。事故を起こしたのは、クーデター組の先遣隊の連中だ。同じ電波生命体でも、君とあいつらはちがう」
「そうじゃないよ!」
 遥は首を横に振って肩を震わせた。ようやく瓦礫の山から視線を外し、立ったまま俯いた。
「私がこの星に災いを呼びこんだんだもの。その事実は変わらないよ! でしょ?」
「いいや、違う。例え君を追ってくる連中がいる事が分かっていたとしても、その星の人間を巻き込むようなやり方を選んだのは、奴らだ。君に責任はない。許されざるのは、奴らの方だ」
 言いながら俺は、それが詭弁だという事を分かっていた。遥の言っている事は正論だ。もし遥が地球にやって来なければ、奴らはこの星に来なかったし、侵略しようなどとは考えなかっただろう。
 それでも俺は遥を擁護するしかない。何故なら、遥が地球に来た事を非難するという事は、俺が遥と出会えたこと自体の否定になるからだ。
 それに。俺の言う事は詭弁だが、一つだけ間違っていない部分がある。
 この星の人間を巻き込むようなやり方を選んだのは、奴らだ。許されざるべきは、奴らクーデター組の連中だ。
 遥は俯いたまま、しばらく無言で立っていた。そして、力のない声で、言葉を続けた。
「オルフォスは、この星と環境が似ているっていうのは、前に話したよね」
「ああ」
「パパとママを置いて星を出た時、私には悲しさと、帰る故郷を失った絶望しかなかった。長い長い時間を、広い宇宙を飛び続けて、私はさまよっていたの。そんな時にこの銀河系に通りかかって、オルフォスにそっくりなこの地球を見つけた時、私は無性に嬉しくて泣いちゃった。体はなかったけど、心で泣いてたの。もちろん、それが自分の故郷じゃない事は分かってはいたけれど、頭ではそこに向かう事しか考えられなかった」
「うん……」
 俺は余計な事は言わずに、ただ静かに、相槌を打った。
「そんな時、星の周りを飛んでいた傘みたいな機械にぶつかって、その中に取り込まれて……それが、私の地球との出会いだった」
「遥が『はるか』に出会った瞬間でもあった訳だ」
 普通なら冗談として、くすり笑いの一つでもありそうなところだが、遥はほんの少しだけ口角を持ち上げて頷いた。
「でも、この星にはたくさんの人が生活していて、そんな人々の生活に興味が湧いて、この体が事故で死にそうだったから私は慌てて比良橋遥になり代わって、お父さんができて、明日人に出会って」
 遥は再び顔を上げて、瓦礫の山とは別の方向へ視線を向ける。コスモワールドの大きな観覧車の姿が、日本丸の帆の向こうに見える。
「本当は少ししたらこの星を離れるつもりだったのに……凄く、居心地が良かったの」
 遥が感慨深そうに言った。
 居心地が良かったのは、俺もだ。遥――。
「俺も同じだよ。遥と出会ってから今日までの二年間、凄く楽しかった。遥のおかげで比良橋先生とも話ができるようになった。俺にとっては充実した二年間だった」
 幼い頃を思い出す。Μ‐Ⅴ一号機の打ち上げを一緒に見に行った時、父が肩車をしてくれた。
それから俺がロケットに夢中になると、ロケットのおもちゃを買ってきてくれた。宇宙に関心を広げれば、小さい天体望遠鏡を買ってくれた。使い方の分からない俺の為に、説明書を読みこんだり、星座について勉強してくれたりした。あまりに俺について時間を割くので母が心配する声をかけた事もあったが、「いやあ、宇宙って、なかなか面白いんだぞ」と言って、笑っていた。
 そんな父も、俺が小学二年の時に、交通事故でこの世を去った。
 俺と父との思い出は、あまりにも短かった。部屋には今も、Μ‐Ⅴ見学場で撮った親子の記念写真が残っている。
「比良橋先生と話していると……父さんが今もまだ生きていたら、こんな風に会話できていたのかなって、よく思うんだ。比良橋先生にはもしかしたら失礼かもしれないけど、俺、新しい家族ができたように感じていた。遥と先生と、新しい家族に」
 遥が頷く。
「私も、お父さんの事、本当のお父さんのように思ってる」
「それを導いてくれたのは、遥だ」
 その声に、遥はこちらを振り向いた。悲しさと、希望を同時に湛えた目。しばらく俺の目を見つめ、やがて、俺のすぐ傍まで体を寄せる。
 俺の手を取る。冷たい手が、互いの温度を感じ取る。遥は指を絡ませた。
 と、その時、遥は急に視線を金網沿いの先に向ける。
 そこに三十代ほどの女性が、幼稚園児くらいの男の子の手を握って立っていた。二人とも、その視線の先は、目の前の瓦礫の山に向けられていた。女性の疲れ切った表情が、この世の絶望を見てきたような感情を思わせる。子供もじっと、ただ黙って瓦礫の山を見つめていた。
 俺も遥も、二人がこの場所とどういう関係があるのか、すぐに想像がついた。俺の手を握る遥の手に、さらにぎゅっと、力がこもった。
「私、誰かに、自分は悪くないよ、って言ってほしかったんだと思う。誰かに、赦してほしかったのかもしれない……」
 遥が親子と思われる二人を見つめながら、つぶやくように言った。
「でも、甘えちゃいけないよね。私たちは下を向いてなんていられない。今は戦わなくちゃ」
 その言葉には、決意のようなものが感じられた。俺の言葉なんてなくても、遥は自分の力で立ちあがれる。そういう強さを、初めから遥は持っているんだ。そして、そんなところも、俺にとって魅力的な彼女の一部だ。
「ありがとう、明日人」
 遥は顔を俺の方に向けて微笑んだ。
 俺は何もしていないよ。でもね、遥。これだけは覚えておいてほしい。君が求めなくても、俺はいつでも、できるかぎり君の力になろうと思っている。ずっと君の味方でいる。それだけは永遠に約束するから。
 瓦礫の山を並んで見つめ、俺も彼女の手を握り返した。

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   6

 年明け前に、その報せは届いた。
 十二月半ばの十五日、早朝から比良橋先生に内線で起こされ、俺は慌てて研究員宿泊棟を飛び出した。研究管理棟に向かい、比良橋先生が呼び出した会議室の一室に勢いよく駆け込む。
「どういう事ですか?」
 俺は開口一番に叫んだ。
 室内には比良橋先生と宇宙研の職員が何人か集まっていた。
「私たちも分からないんだ。まずは自分の目で見てくれ」
 比良橋先生が自分の目の前に置いていたノートパソコンを俺の座る席の前に差し出した。壁から引いたLANケーブルが繋がっている。
 俺は脱いだジャンパーを椅子にかけて席に着き、パソコンの画面を見た。インターネットブラウザが立ちあがっていて、ネットのページが映し出されている。

 『速報Newsドットコム』

電波生命体対策にVSOP計画が再始動

 十五日午前二時頃インターネット上において、かつて運用されていた日本の電波天文衛星『はるか』を使用した電波天体観測『VSOP』計画が、一ヶ月前に世間を賑わせた横浜ランドマークタワーの航空機テロの犯人グループである、自称『電波生命体』を名乗る集団への対策案として、四年ぶりに再び実用される、といった内容の書き込みが相次いだ。連続するこの書き込みによって、ネット上は騒然となった。
 この事実について文部科学省と宇宙航空研究開発機構(以下、JAXA)はコメントを控えている。
 一ヶ月前の九月十三日昼ごろ、横浜ランドマークタワーに日本エアマネジメントの旅客機JAM567便が衝突、旅客機は大破、ランドマークタワーも崩落し、大勢の犠牲者を生む大惨事となった。同時刻、民間のテレビをジャックして犯行声明を告げた犯人グループの一人は自らの組織メンバーを『電波生命体』と名乗り、地球侵略を宣言した。この事件に対して、文科省とJAXAは以降の調査結果を公にしていない。
 VSOPとは、一九九七年から二〇〇五年まで運用されていた人工衛星『はるか』によって行われた電波天体観測計画で、諸外国の地上の電波望遠鏡と連携して行われた壮大なプロジェクト。『はるか』の老朽化に伴い、運用を停止と同時にこの観測計画は終了を迎えた。
 ネット上に連続多発した書き込みの内容によれば、人工衛星『はるか』はまだ機能停止しておらず、人類側にいる味方の電波生命体の少女がコンピューターを操作する事で、かろうじてVSOP計画を再現する事は可能だという。これは、今日までその存在について議論が交わされてきた電波生命体の存在を断言した内容となっている。JAXAはVSOPによって地球に向かっている電波生命体の集団の到達時刻を算出し、経路上に『はるか』を配置、電波照射によって電波生命体を相殺させる計画を水面下で進行中との事。これについてJAXA広報は「ランドマークタワーの事件に関した情報は公開できない」と回答している。
(共度通信 2008/10/15 04:01)


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 情報漏洩。徹底して非公開の状態で進めてきたVSOPダッシュの詳細が、一般に漏れている。敵を警戒しての、宇宙研と文科省の極一部の間だけのトップシークレットだったはずだ。
 こんなに大きくニュースになってしまっては、もう手の打ちようがない。
「書き込みがなされたサーバーには、すぐに文科省を介して書き込み削除を行ってもらっているが……正直言って、焼け石に水だ。ネットの書き込みは簡単にコピーして転載できる。おそらく書き込みを行っているのも一人ではなく、目にした何人もの人間があちこちに転載し、それを目にした人間も同様の事を繰り返す。現状はそうやって生まれているんだろう」
 職員の一人が溜め息をつきながら言った。「おまけに、通信社までがその状況をニュースとして取り上げてしまっては、後手もいいところだ」と、付けくわえながら。
「何故、こんな事に……」
 俺は茫然となり、それだけをつぶやくのが精一杯だった。
 究極の生命体になんとか勝てる見込みのある、唯一の対抗手段を見つけ出した。これを成功させるには、徹底した情報秘匿が必要だったというのに。絶望が頭をよぎる。
 どうする。どうする。どうする。
 奴らの先遣隊、三人のうち二人は一か月前の横浜で倒した。だがまだ一人、テレビで犯行声明を行ったサテラという最後の一人が残っている。そいつは今も、この地球上に潜伏し、膨大な数の仲間が到着するのを待っているのだ。もし、そのサテラに、俺たちが進めている計画の事を知られれば。
 いや、もう遅い。事件が発生してからもう二時間近くたっている。とうに知られていると考えるべきだ。
 確かに後手もいいところだ。こんな状況で、どう打開すればいい。
「ネットでは祭りになっているよ。もっとも、電波生命体について信じている訳ではなく、かつて運用が停止された『はるか』でVSOPが再び行われる、という点について大盛り上がりなんだけどね」
 職員の一人の言葉に、別の若い職員も続ける。
「それだけじゃないですよ。女の子の電波生命体が『はるか』を操作するというところがツボにはまった宇宙オタクも多くて、『はるか』を擬人化した女の子のイラストも増殖中で――」
 場の空気を読めないその職員の言葉は、その場の全員の白い目を集中的に浴びる事で中断された。
 しかし、今のその職員の言葉で、俺はニュース記事のある一点に目を留めた。
「ちょっと、ここ見てください」
 俺は全員を周りに集めて、記事の一文を指でなぞりながら音読する。
「人類側にいる味方の電波生命体の少女が――これは、あまりに詳細すぎると思いませんか。こちら側に味方の電波生命体がいるというところまではともかく、少女の電波生命体とまで判明しているんですよ。これは明らかに、遥の事まで知っている人間でないと、いくらなんでもここまでは分からない」
 比良橋先生が息を呑んだ。
「まさか、情報漏洩は、内部の人間が意図的に?」
「いえ、そこまでは断言できませんけど、少なくともマスコミなどの外部が探りを入れて得た情報ではない気がします。比良橋先生、関係者で遥の存在まで知っているのは、どの辺りまでですか」
 比良橋先生は少しの間だけ考えるような表情をし、
「宇宙研の職員、研究員はほどんどが。あと、JAXAの幹部クラスの人間は知っている。それと、文科省の大臣を含めた上層部のわずかな人間と、省内に設けられている電波生命体対策室の人員。確か、遥の事まで知っているのは、これくらいのはずだ」
「警察は動いていますか」
 俺の質問に、比良橋先生以外の職員らも息を呑んだ。比良橋先生の答えを、緊迫した面持ちで見守る。
「警察は動いていない。今は公安調査庁が調査を行っているらしい」
「それって、警察の組織じゃありませんでしたっけ」
「公安警察とは違うよ。公安調査庁は法務省の諜報組織だ」
 さらに全員の顔が強張った。世界の命運がかかった計画を台無しにしてくれた訳だから、情報を漏洩した人間に対して政府は重大犯罪に値すると判断した訳だ。
「わ、私たちも取り調べられたりするんでしょうか」
 職員の一人がおそるおそる訊いた。比良橋先生は首を横に振る。
「私は何も聞かされていないよ。その事実だけを知っているだけだ。おそらくは、調査も極秘で行われるんだろう」
 比良橋先生はそう言ってから溜め息をつき、椅子の背もたれに背を預けた。
 起こってしまった事はどうしようもない。今さら元に戻す訳にはいかないのだから。問題はこの現状から、どうやってアドバンテージを取り戻すかだ。もともと、わずかしか残されていなかった可能性を、全て奪われたに等しいのだ。はたして、ここからの打開策がありえるのか……。
 と、その時、会議室の扉がノックされ、女性職員が顔を出した。
「比良橋先生、文科省の方からお電話が入っています」
 その声にも、溜め息をつくしかない。比良橋先生は重そうに腰を上げ、退室していった。
 その後も、残された職員たちの間で今後の対策が話し合われる。しかし実質、どうしよう、どうしよう、と有効と思える対策案が浮かばないまま悲鳴をあげているだけの会議に近かった。比良橋先生は電話で文科省の方へ呼び出されたらしく、そのまま相模原キャンパスを後にしたという事だった。
 俺は会議には参加せずに、テーブルに座ったまま、虚空を見つめて、無言で考えていた。
 そもそも、奴らは何故、犯行声明などを行ったのだろう。何故、わざわざ航空機テロなどを実行したのだろう。よくよく考えれば、どれも必然性がないように思える。王族の生き残りである遥を始末するのに、航空機を使う必要はない。正面からぶつからずに、そっと暗殺した方がずっと有効なはずだ。例え、航空機テロが人類に絶望を与える為のものだったとしても、遥の暗殺と結びつけて実行する必要はない。
 地球侵略の声明。これも、声明を行う事によるメリットがない。奴らは、これから地球を侵略すると、宣言をした。これが単純に自分たちと地球の人間たちとの差を誇示する為の行為だなんて事はないだろう。奴らはそれほど単細胞ではない。だが、半年なんて先の侵略計画をわざわざ敵側に教えるメリットがどこにある? むしろ対抗手段の準備の猶予を与える事になる。どうせなら、人類が何も知らないままに電波生命体たちがやってきて、人類を襲撃した方が遥かに効率的だ。デメリットの方が多い。
 何か、何かあるはずだ。一連の行為が、奴らにとってメリットに働く、何かが。

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 ……待てよ。
 現状、こうして俺たちの電波生命体に対する対抗手段の情報が外部に漏れている。そうでなくとも、奴らは人間の体を操作する事ができる。これは、様々な人間になり代わる事ができる、という事だ。つまりは、宇宙研の職員になり代われば、内部情報を取得する事もできる。
 イコール、人類の用意する対策案も知る事ができる。もし、その段階で対策案を実行不可にしてしまえば、人類側には対抗手段がなくなる。
 そうか。手の内を晒すという事は、相手の手を誘い出せるというメリットがあるのか。
 奴らの狙いはそこかもしれない。
 だが、奴らが宇宙研の職員になり代わる事はできない。それに関しては、俺がすでに奴らのJAXA施設侵入を防ぐ為の防止策を施行している。もし、侵入できるとすれば――。

 比良橋先生は夕方に帰ってきた。
「情報漏洩の原因が判明したよ」
 その一言に、相模原キャンパスの一室でテーブルについて休憩していた俺は反応せざるを得なかった。
「ファイル共有ソフトが漏洩の大元だった。そこから漏れたVSOPダッシュ計画に胸を躍らせた宇宙ファンの一人がネットに書き込みを行い、それを目にした人間によって連鎖していったそうだ」
 ファイル共有ソフト。つまりは、誰かが意図して情報を流した訳ではなかったのか。
「しかし、どこから漏れたんですか? 関係者の使っているパソコンのどこかから情報が流れたんですよね?」
「それが……」
 比良橋先生もネクタイを緩めて、テーブルの椅子につく。
「なんと、文科省の対策室からだった。ソフトを使っていたその職員は逮捕されたとの事だよ。書き込みを行った人間の処遇は分からないが、最初の書き込みを行った人間は、少なくとも警察に連行される事になるだろう」
 比良橋先生が脱力する訳だ。ファイル共有ソフトの危険性は過去に何度も報じられているというのに、極秘情報を扱う身だという自覚がなさ過ぎる。
「こう言ってはなんだが、宇宙研が原因ではなくてホッとしているよ。身内に犯人がいるかも、なんて話に発展しかねなかったからね。内部に猜疑心が生まれなくてよかった。今は仲間がバラバラになっている時ではないからね」
「そうですね。確かに、そのとおりです」
 比良橋先生はまた椅子の背もたれに背を預ける。深い溜め息を吐いた。
「だが、何も問題は解決していない。我々の手の内が敵に知られる事になった。どうすればよいのやら……」
「それなんですけど、比良橋先生」
 俺は改まって言った。
「このままVSOPダッシュを進めましょう。特に、現状をどうにかする必要はないと思います」
「何だって?」
 比良橋先生は目を丸くした。俺は周囲を見回してから、身を乗り出すようにして比良橋先生に小声で別計画を説明する。比良橋先生は説明を聞いている間、感心するように唸っていた。
「リスクはあるが……いや名案だ。よくそれに気づいたな、明日人くん」
「俺の仕事ですから」
 そうは言ってみたが、先生に褒められたのが嬉しくて、俺は照れ笑いを見せた。
「必ず勝ちましょう、先生。勝って、笑って終わらせましょう」
「ああ、もちろんだとも」
 俺と比良橋先生は深い決意を胸に、大きく頷いた。
 窓の外はもう、すっかり暗くなっていた。


   7

  2009年3月13日

 その日、神奈川は雨が降っていた。俺は遥の宇宙の傘に一緒に入って、相模原キャンパス敷地内にある保存緑地の脇の歩道を歩いていた。
 研究センター棟の建物の前に差し掛かると、宇宙研の展示物であるあの「M-3SⅡ」のロケットの実物大模型が横になって目の前に姿を現した。そして俺たちはその向かい側の方へ体を向けた。この半年の間には、宇宙研では新たに展示物が増えたのだ。
 「Μ‐Ⅴ」――。小惑星探査機「はやぶさ」やX線天文衛星「すざく」、赤外線天文衛星「あかり」など、六機もの科学衛星を打ち上げたロケットの実機だ。そして何よりも忘れてはならないのは、一号機で電波天文衛星「はるか」を宇宙に打ち上げたロケットだという事だ。

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「これは『LUNAR-A(ルナーエー)』っていう月探査衛星を打ち上げる為の二号機だったんだけど、プロジェクト自体が中止になってしまって結局使用されなかった物の実機なんだ」
 俺はロケットを前にして、つぶやくように言った。隣りを見ると、遥も傘を持ったまま感慨深そうにM-Vを見つめていた。
「お父さんに聞いた事ある。このシリーズのロケットが『はるか』を打ち上げたんだって」
 遥はΜ‐Ⅴを見つめたまま、そう言った。澄んだ透明な目だった。しかし、その瞳はどこか物憂げな印象を俺に与えた。
 遥の口から白い息が漏れる。肌は周囲の空気に冷やされ、白みを帯びていた。空気はまだ冬の寒さを残していた。
「私、よく思ってた。このロケットが、私を明日人に引き合わせてくれたんだなって」
 遥が俺の方を向いて言った。
「Μ‐Ⅴが?」
「そう。だって、衛星『はるか』を打ち上げてくれたでしょ? 『はるか』がいなかったら私は比良橋遥になっていなかったもの」
 なるほどな、と俺は思った。遥はこれまで何度か地球へと降りて来た事があるらしい。そこで電波の入口からインターネットの情報の海に飛び込み、自分が居た人工衛星が「はるか」という名前である事と、そのプロジェクトマネージャーが比良橋先生だという事を知った。その後、遥は興味を覚えて比良橋先生の携帯電話にも入り込んだ。言わばプライベートの盗み見でもあるのだが、その頃はまだ異文明の探索という意識で、盗聴などといった概念はなかったらしい。そして、当時すれ違っていた父子家庭の比良橋親子の仲を気にしていたそうだが、そんな頃に先生の娘が事故で頭部を打ち、脳が活動停止しかけた。そして慌てて遥は、ヘッドフォンを介して脳にゆさぶりをかけ、体を生かす事を試みたのだと言う。娘の意識は死んでしまったが、脳はまだ生きていた。自分が比良橋遥になり代わる事で脳を生かし、生命を維持する事はできないか。それは遥にとっても無意識に行った賭けだった。そしてそれは、結果的に成功した。今の比良橋遥が生まれた経緯としては、そういう流れによるものだった。
「私が比良橋遥にならなかったら、明日人に出会えてなかったよ」
「そうか、確かに俺たちが出会ったのって、運命だったのかもしれないな」
 俺は初めて遥に会った頃の、彼女の言葉を思い出した。
 遥が片手で上着の襟元を少し上げた。再び、白い息を吐く。遥は――目の前にいる女の子は、今、確かにここに存在している人間なのだと実感する。
 俺は遥が傘を持つその手の上から、そっと自分の手も重ねた。大抵、手を取る時は遥の方からが多かったので、遥は少し驚いたようだった。
「俺、何もできないけど……君に頼るしかないけど、遥と一緒にいる事はできる。もし、全て終わって人類が奴らの脅威から逃れても、俺はその後も君と一緒にいるよ。いつだって、ずっと傍に。例え電波生命体でも何でも、君は君、俺の好きな遥だから」
 自分でも驚くほど、自然と口に出た。普段、そういった気持ちを言葉にした事はなかったが、しかしそれが自分の素直な思いだった。
 遥の頬がほんのり赤くなった気がした。それが意外で、いつもより可愛らしく思えた。
「ありがとう」
 そう言って微笑み、遥は少しだけ背伸びをして、俺の方に顔を寄せた。互いの唇が、そっと、軽く触れ合う。それが俺たちにとっての、初めてのキスだった。

 遥のサポートによるVSOPダッシュの観測は既に数回行われていた。新しく発見されたあの準惑星の傍に電波生命体の集団が差しかかったところがスペースVLBIの電波画像に写れば、それは半年前の画像という事になる。つまり、VSOPダッシュが実行されるのは、実際の準惑星通過時から半年後に地球で行わなければならない。だが、その「半年後」がはっきり何日かが分からない為、予想される期間の到達予想時間に観測を行っている。
 以前のVSOPでは観測データを磁気テープに記録し、それを日本を含めた三カ国の相関局まで送って相関処理というものを施して電波画像を作り上げていた。これに数週間の時間がかかっていた。
 現在は当時と違って大容量のデータを高速ネットワークによる通信でやり取りできる時代だ。相関局の相関器の性能も以前とは違う。元々、VSOP‐2に向けて作業高速化の準備は進められていた。だが、今回は光の速度で向かってくる敵を迎撃しなければならない為、相当な高速処理が求められる。いくら相手が準惑星を迂回してくるとはいえ、そのスピードは秒速三十万キロ。観測、通信中は各国政府の協力で最低限のネットワーク以外のデータ通信を停止させて、ネットワークが込み合わないようにはしているが、正直リアルタイムで相関処理を行っても、迎撃が間に合うかどうか厳しい。しかし、それでも人類は運に賭けるしかないのだ。

「太陽嵐(たいようあらし)が十時頃に? 本当ですか、比良橋先生。今までは十一年周期だったのに」
 相模原キャンパスの一室で椅子に座って眠る遥の横で、俺は比良橋先生に言った。
「ああ。『ひので』や『SOHO(ソーホー)』の宇宙天気予報で判明している。地球の電子機器ですら損害が危ぶまれる激しい太陽風なのに、これを人工衛星が食らっては、はたして無事で済むかどうか分からない。せめてこの太陽嵐が治まるまでは観測を中止しようかと遥には言ったんだが……その間に奴らが観測に引っかかるかもしれないと言ってきかなかった。確かに遥の言うとおりなんだが……。それは私も分かってはいるんだが……しかし、非常に危険だ」
 自分の立場と娘への心配と、どちらも天秤にかけられないものをかけざるをえない比良橋先生の辛い感情は、俺にも痛いほど分かった。どちらも天秤にはかけられないという点に関しては、俺も全く同じだったからだ。
 俺は、目を閉じて椅子の背もたれに体を預けている遥の方を見た。
 もし今日、奴らが地球に到達するとしたら、タイミングが重なるかもしれない。太陽嵐が人工衛星「はるか」に届く前に奴らを討てるか、奴らの来る日が今日でなければいいのだが。それに、不安材料はまだ他にも残っている。
 二人でそんな話をしていた時、部屋の扉がノックされた。
「比良橋先生、文科省の方がお見えになりました。守衛の方で身分証も確認したそうです」
 職員がそう言って身を引き、一人の男を部屋へ通した。年の頃は四十代前半か、革の鞄を持った、綺麗な身なりのスーツ姿の男が部屋へと入ってきた。比良橋先生の前まで歩み寄る。
「初めまして、一昨日、電話にて話をさせていただきました御上(みかみ)です。本日から観測に立ち合せていただきます。よろしくお願いします」
 男は丁寧な態度でお辞儀をした。比良橋先生も反射的にお辞儀をする。
「初めまして、VSOPダッシュのプロジェクトマネージャーを務めます比良橋です。こちらこそよろしくお願いします」
 それから、定番の名刺交換が交わされた。比良橋先生の名刺を名刺入れに入れた御上という男は、椅子で眠るように座っている遥の方へ視線を向けた。
「休憩中のようですね。彼女が例の電波生命体とやらなのですか」
「ええ、まあ。そうですね」
 電波生命体という言葉に、比良橋先生は複雑そうな表情を見せた。しかし御上は、それに気づく気配がない。遠慮なしに会話を続ける。
「なんでも、我々人類の切り札として活躍されるとか」
 御上は探るような目つきで遥を見ながら言った。
「失礼、御存知だとは思いますが、世間でも国会でも、電波生命体を名乗るテロリストは悪質な冗談で、本当はただの人間による誇大妄想的な犯行予告ではないかという見方も多いものでして。実を言いますと、国の方でも意見が分かれているのです」
「いえ、当然だと思います。我々としてはプロジェクトを承認していただけただけで充分ですよ。許可が降りなければ、対抗手段を講じる事もできませんでしたから」
 比良橋先生は、やはり複雑な表情で言った。
 と、その時、唐突に扉が勢いよく開けられた。
「先生、少しいいでしょうか。相関処理された画像の件で、ちょっと」
 慌てた様子で若い職員が部屋の入口で開口一番に叫んだ。その言葉に、比良橋先生の表情も引き締まる。
「電波画像かい? 分かった。明日人くんも、よかったら来てくれないか」
「あ、はい。でも、誰かが遥についていてあげないと。奴らの先遣隊はまだ一人残っている筈ですから、いつ遥が襲われるか分かりませんし」
 残された不安材料がそれだ。電波生命体の先遣隊三人の最後の一人、サテラという者がまだ残っている。いつ何時、遥が狙われるとも限らないのだ。
 俺と比良橋先生のやり取りを見ていた御上が、俺たちに声をかけてくる。
「VSOPダッシュは人類の存亡が懸かった重大プロジェクトなんですよね。極めて時間すれすれの綱渡りな計画なのだと伺っています。どうぞ、行ってあげてください。ここは私が代わりに見張っていますから」
 急な発言だった。俺も比良橋先生も顔を見合わせる。
 御上は、俺と比良橋先生の間をすり抜け、遥の眠る椅子に寄った。慌てて比良橋先生がその申し出を断る。
「お気持ちはありがたいですが、省の方にそのような事を任せる訳にはいきませんよ」
「お気になさらないでください。誰もいないよりは幾分もマシですからね。それに、私は趣味で空手をやっていまして、自分で言うのもなんですが普通の人に比べれば、そこそこ渡り合えると思いますよ」
「はあ、空手ですか」
 比良橋先生は受け答えに困ったのか、一言、その単語を繰り返す事しかできなかった。
 御上の言葉に、比良橋先生は俺の方を見た。俺も頷く。

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「では、あなたが遥を一人で見ていてくださるんですか?」
「はい。ですから、どうぞ行ってください」
「そうですか、分かりました」
 比良橋先生は右手をすっと上げた。
 それが合図だった。
 直後、入口から十名近くの、機関拳銃を構えた部隊服の警官らがどかどかと部屋の中に押し入ってきた。警察の特殊急襲部隊、いわゆるSAT(サット)の隊員たちだった。一斉に御上に銃口を向ける。廊下にも隊員らが万一に備えて待機していた。
 御上はいくつもの銃口を見回してから、戸惑う様子もなく、俺たちに向かって尋ねる。
「これは、どういう事ですか」
 その問いに、計画立案者である俺が代表して答えた。
「そろそろ動く頃じゃないかって思っていたよ。お前は文科省の役人なんかじゃない。いや、正確には、その役人の体を乗っ取った別の人格だ」
 俺の言葉に、御上は動揺も見せず、にやりとした笑みを浮かべた。やはり――。
「お前が、サテラって奴だな」
「御名答。なぜ分かったのか理由を知りたいものだな」
 サテラはあっさりと正体を認めた。
 やはり俺の推測は的中していた。目の前の男は確かに文科省に務める男なのだろう。しかし、肉体はそうであっても、意識の方は違う。
 俺はサテラの方を指差して答えた。
「理由は、その耳の穴に詰めている小型の通信機だよ」
 御上の耳の穴に、注視しないと気づかないほどの小型の機械が埋め込まれている。一見、耳栓かと見間違えそうだが、それは通信機だ。
「お前たち電波生命体がヘッドフォンを介したフレイ効果を利用して体を操作しているという事は分かっていた。でも、マイクロ波の照射なら別にヘッドフォンでなくても、離れた所からだって可能なはず。では何故、遥もお前たちの仲間も、わざわざヘッドフォンを利用していたのか。おそらくフレイ効果を使った催眠は、密接した極短距離でしか不可能だからだ」
 サテラは黙って俺の説明を聞いていた。余裕を含んだ表情はまだ消えていなかった。
 比良橋先生の推測では、催眠のマイクロ波を脳に送って肉体を操作する、というものだった。そして五感を、赤外線通信とブルートゥース通信の両方の機能を持つ携 帯電話を介して送信機がまた受け取るという流れになっている。送信、受信の相互通信が可能な発信機みたいな物を頭に装着しておけば、別にヘッドフォンでなくとも肉体の捜査は可能なのだ。そして、他人に気づかれずに裏をかきつつ肉体を操作するには、装着品を身につけるのに適した体の部位は、耳の穴くらいしかない。だから初め、御上という男が耳に小さな何かを埋めているのに気づいた時に、すでに警戒はしていた。宇宙研に出入りする人間には予(あらかじ)め規則を敷いてあって、頭部に何も装着している物がない事を必ず周りに示した格好でいるというルールになっている。女性職員も必ず耳を出すように決めている。だが当然、稀にここを訪れるような外部の人間などはその規則については知らない。そういった人間が訪れる際は、宇宙研の面々で外見上をチェックする事にしているのだ。そして、そんな事を知らないサテラは、見事にチェックに引っかかった。
「だから、ここの警備員も職員も研究員も皆、通信機器を頭の傍に近づけるという動作は意識して避けるようにしていた。電話でさえも受話はスピーカー出力で行っていたくらいだ。でも、そんな中でまるで隠すように耳の穴に小型機器を詰めている人間が現れれば、嫌でも注目せざるを得ない。おまけに、一人で遥を見張ると言い出したならば、極めて確率は高い」
「なるほど。なかなか切れるな。それで? この男を撃つのか? この男は普通の人間だぞ」
 御上は両手を上げて嘲笑めいた笑みを浮かべながら言う。
 俺はむかっ腹が立った。それで人質を取ったつもりらしい。やり方が卑怯なのも許せないが、何より、さっきからのこの男の態度自体が、俺の癇に障る。
 俺は語調を強める。
「撃つ。どうせ、その体の人格は、とうにお前に潰されているんだ。それに、電波生命体だって、乗っ取っている体が死 ねば器はなくなる」
「ほう、そうきたか」
「ここではお前の侵入を警戒して、電波の出入り口にはセキュリティを施してある。だから、電波状態での侵入も不可能だ。当然、お前もそれが分かっていて、役人に化けて侵入する手段を取ったんだろう」
 その俺の言葉に、セルラは嫌な笑みを浮かべたままだった。嫌悪感を伴う笑みだ。
「半年前、セルラの持つ携 帯電話を介して、諸君らと対峙した時のやり取りはモニターしていた。だから、デジタル変換による捕獲で物理破壊という我々電波生命体の殺害方法も把握していた。我々の存在を知った今、この星の人間たちが電波の出入り口にそのトラップを施しておくという可能性を視野に入れるというのは、当然の流れだ」
 サテラは笑った。
「皮肉なものだな。予め我々の存在と地球への進行を声明として報せておく事で、それに対するこの星の人間たちの対抗手段を明確にさせる計画だった」
 どうやら、その笑いは自嘲の笑みだったらしい。サテラは続ける。

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「かつて世間にやるせない絶望感を与えた9.11を再現する事で、この星の人間の気力を奪う目的はあった。だが同時に、我々電波生命体の存在を証明する必要があった。この星の人間は相当に頭が固いようだったからな。人間には不可能であるテロというデモンストレーションが不可欠だった。もちろん、それで全ての人間が信じるとは考えていない。だが関係者たちの間で、分かる人間にだけ分かればよかったのだ。何故なら、電波生命体の存在を認めるのはテロについて調査を行った関係者で、対策を練るのも関係者たちだからな。そうして絶望の中でもし、かすかな希望を見つけたのであれば、それを先遣隊である我々が仲間の到着する直前に叩けば、この星の人間たちには対抗する術がなくなり、新たな策を練る時間も、準備する時間もないまま、本当の絶望を迎える。それが当初のシナリオだった。しかし、過小評価だったようだ。まさか我々の方が裏をかかれるとはな」
 そこまで言うと、サテラは傍の椅子に座る遥に視線を移した。にやりとした笑みを見せる。
「いろいろ策は練っていたようだが、爪は甘かったようだな。一つ、見落としているぞ」
 その視線と言葉に、比良橋先生が反応を返した。
「まさか――」

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 サテラは含み笑いを漏らし、こちらに背を向ける。直後、御上の体はがくんと、力なく膝から床に崩れ落ちた。御上の耳の通信機から、サテラが遥のヘッドフォンに移動したのだ。
「遥!」
 すかさず叫んだ俺の声と同時に、遥は即座に身を起こした。ヘッドフォンを自ら外し、それを宙に投げると、床へと伏せる。直後、SAT隊員たちの何発もの銃撃が、床に落ちる前のヘッドフォンを宙で捉え、粉々に破壊する。激しい銃弾の雨によって部屋のガラスは音をたてて割れ、建物の外へと落下してゆく。
 隊員たちが発砲をやめると、音はやんだ。床にバラバラになったヘッドフォンの残骸が転がっていた。
「お見事だ、明日人くん! 作戦どおりだったな!」
 比良橋先生が興奮するようにして、俺の肩を叩いた。遥も床から立ち上がって、俺の許へとやって来る。
 ヘッドフォンを失った遥が、なぜまだ体を動かす事ができるのか。カラクリはこうだ。御上の耳にしているのと同じ、小型の通信機を耳の穴に詰め、その上からワイヤレスヘッドフォンを頭にしていたのだ。つまり、ヘッドフォンは囮だったという訳である。
「半年前のテレビでの犯行声明を見る限り、あのサテラって奴が先遣隊のリーダー格で、おそらく頭が切れるだろう事は推測できました。そんな奴の裏をかくには、誘導するのが一番だったんです」
 言わば追い込み漁だ。初めから逃げ道を用意しておいて、その逃げ道の方へと魚を追い込む。追われる魚は脱出口を求めてその道を進むが、そこは網で囲まれて行き止まりとなっている訳だ。
 物理破壊による電波生命体の始末については、サテラ自身も把握していた。それでも結局その方法で始末されるに至った理由としては、俺たちが遥を撃つ事はできないだろう、という予測があったからだ。それが網への入り口だったとも気づかずに。
 これで地上での問題は全て片付いた。あとは――。
「明日人、時間がないかもしれない! さっき、画像がどうとかって」
 遥のその言葉に、俺も比良橋先生もはっとし、背後に首を向ける。廊下にいたさっきの宇宙研の職員が、再び慌て始める。
「そうです! 不自然に電波画像の一部が切れている画像が出てきたんですが。おそらく、奴らが天体の電波を遮断した為に、その部分の電波がアンテナに届かなかったのではないかと。つまり、準惑星にまで到達した可能性が……」
 自然と、喉が唾を飲み込んだ。今これから、奴らが地球まで到達する。そう思うと、途端に緊張が体を包んだ。
 比良橋先生が遥の方を向いて叫ぶ。
「遥、衛星のみへの集中を頼む。すぐに奴らの軌道予測をして迎撃位置を伝える」
 遥は頷いて、椅子に座り直す。俺はそんな遥の手を取った。自分でも無意識に出た行動だった。突然の事に、遥も顔を上げる。
 俺は彼女の手を、きゅっと握った。力強く握れば折れてしまいそうな、細い、温かい手の感触が、そこにあった。遥は地球の人間ではなく、実体もないのかもしれない。それでも「遥」の人格はその電波体の中に天然的データとして確実に存在し、そして、この体を介して地上でのあらゆる景色、空気、世界を、五感を通して見てきた。普通の人間と同じように、何年もの歳月を比良橋先生や俺と共に過ごしてきた。
 比良橋遥は、紛れもなく、ここに存在する。これで終わりじゃないんだ。そうだ、この戦いが終わっても、俺と遥は、この先もずっと一緒――。
「気をつけて」
 俺が言うと、遥は少しだけ俺を見つめ、微笑みを返した。
「いってくるね」


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 突如、相模原キャンパスの「はるか」運用室は慌しくなった。決して広いとは言えないスペースの運用室内には幾つものパソコンとモニターが机の上に置かれている。その画面上には様々な英数の文字列やグラフのような物が表示されているが、俺が理解できそうなものは皆無に等しかった。画像と言えるものは、VSOPダッシュ観測で作成されたと思われる天体の電波画像だけだ。
「今、到達予想位置を伝え、配置完了したところです。スラスターによって衛星軌道上で静止しています」
 室内に飛び込んだ比良橋先生の姿を見つけるなり、若い職員が叫んだ。
 比良橋先生は天井を仰ぎ見る。
「遥、奴らの気配は感じるかい」
『……感じる。あと数分もかからないと思う』

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 室内のどこからか聞こえた遥の声に、俺は思わず隣りの比良橋先生の方を見た。
「予め声をサンプリングしておいて、合成音声で出力できるようにしておいたんだ。通信は声の方が早いからね」
 比良橋先生が俺の顔を見て答えた。天井に視線を移し、再び遥に声をかける。
「タイミングは計算で割り出してはいるが、精密ではない。ある程度の誤差はある筈だ。最終的な電波照射のタイミングは君に任せる」
『うん、任せて』
 室内に響く声で、遥が答えた。
 本来、天体の電波を観測する人工衛星「はるか」は電波を受信する事が仕事だ。だから、VSOPダッシュが始まる前に、技術研究員らは遥のコンピューター内のサポートも借りながら、通信を使って人工衛星内の電波の流れを逆流させられるようシステムの改造を施した。こうする事で、電波を敵の集団に照射する仕組みになっている。
 俺もなんとなく天井の方を向いて、遥に声をかける。
「遥」
 無理はするなよ、と俺は言おうとし、しかしそれを宇宙研の面々の前で口にする事はできなかった。遥には人類の未来が懸かっている。
「俺もついているから、頑張ってくれ」
 それしか、言う事ができなかった。
『……うん、頑張る』
 その遥の声に、何故だろう、俺はどこか遠い距離を感じた。それは事実上の俺と遥との間にある長い距離から感じたものだったのだろうか。それとも、もっと別の、遥の中に残っている何らかの感情があり、俺にそう感じさせたのだろうか。
 だが、そんな考えは、女性職員の声であっという間に弾け散った。
「来ます! 予想到達時刻まであと十秒、九、八、七――」
 急速に、運用室内の空気が張り詰めていったのを肌で感じた。カウントを刻む女性職員以外の声は完全に停止し、皆、無言でディスプレイの文字列を見つめる。
 俺は拳を握り締めた。もう戦いの舞台は宇宙空間へと移行した。宇宙へと移動できる遥以外には、地上にいる俺たちにはどうする事もできない。俺は心の中で、遥の無事だけを祈っていた。
 女性職員のカウントダウンが終盤に差し掛かる。
「三、ニ、一……照射!」
 ディスプレイの表示が変化した。数字列の値がめまぐるしく変化してゆく。
「遥!」
 比良橋先生が、室内からは見えない遥に向かって声をかけた。
『大丈夫、スピードが速いから、急には回避できないみたい。あと数分で全滅――』
 遥の声が返ってきたその時だった。運用室の一人の職員が慌てた様子で背後の比良橋先生の方を振り返った。
「先生、コンピューターの計算がはじき出しました! あと一分ほどで太陽風が『はるか』の静止位置に到達します!」
「何だって?」
 太陽風――フレアと呼ばれる太陽での爆発によって、表面を覆う超高温の電気を帯びたコロナという大気が、太陽の重力を振り切って宇宙空間に飛び出すもの。特に強力な太陽風は太陽嵐と呼ばれ、酷い場合には地球上の電子機器にまで影響を及ぼしかねない天体現象だ。
「駄目だ、タイミングが悪い! 中止だ、遥!」
 俺の叫ぶ声が運用室内に響いた。皆一斉に俺の方へ注目する。だが、誰も白い目で俺を見てはいないようだった。遥は比良橋先生の娘で、人工衛星と同じ名前でもあった。宇宙研の「はるか」に携わった者たちにとっても、遥は他人と思えぬ存在なのだ。
 人工衛星からの、遥の返事はなかった。気ばかりが焦る。
「あと十五秒!」
 職員の声が響く。
「遥!」
『……駄目、明日人。どのみち今から動いても間に合わない。もう、引き返せない』

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 ようやく聞こえてきた遥の返事は、拒否だった。息が詰まりそうだった。俺の意識の中で、目の前の景色が少しずつ、溶暗していくような感覚だ。
 遥は知っていたのかもしれない。太陽嵐による太陽風が、奴らの到達と重なるかもしれない事を。初めから、遥は自分の中で捨て身の決意を固めていたのかもしれない。
「あと五秒! もう間に合いません、ぶつかります!」
 カウントしていた職員が叫んだ直後に、運用室のパソコン群のモニター全ての画面にノイズが走り、変化を繰り返していた数字列の表示が停止した。
「磁気嵐の影響か? 復旧可能かどうかチェックを行って、通信を回復させてくれ! できるだけ早く!」
 比良橋先生が慌てた様子で皆に向かって叫んだ。「はるか」運用スタッフの職員たちも急いでパソコンのキーボードを叩く。目の前が真っ暗になりそうだった。地上の電子機器まで影響を伸ばす超高温の電気の風。そんなものを機械がまともに受けてしまえば……。
「遥!」
 俺は見えない彼女に向かって、叫ぶように呼びかけた。だが、応答はなかった。
「返事してくれ、遥! 遥!」
「遥、答えてくれ。君の父親だ。無事なのか? 遥、無事だと言ってくれ」
 俺と比良橋先生が懸命に叫んだが、遥からの返事は返ってこなかった。俺たちの姿を見ている宇宙研の女性職員らの中には涙を浮かべる者の姿も見えた。が、今の俺たちはそれどころではなかった。
 遥。無事でいてくれ、遥。
 お願いだ、頼む――!
『……明日人、お父さん』
 どれだけ長い時間に感じただろう。しばらくの無音の後、ようやくノイズ混じりの、遥の声が室内に聞こえた。途端に、運用室内の面々が、わっと声をあげ、拍手と歓声、涙に包まれた。俺の胸にも熱いものが込み上げてきていた。
「よかった、遥」
 比良橋先生がまるで腰を抜かしたように、力を抜いて、どっと椅子に身を預けた。
 俺は喉の奥から搾り出すようにして、遥に声をかけた。
「遥……大丈夫なんだね?」
『うん……なんとか。『はるか』はもう無理そうだけど』
 はるか――つまり、今、遥の肉体となっている人工衛星の「はるか」の事か。
『頑張ってくれたけど、もう耐えられなかった。元々、限界も近かったから』
「そっか……」
 その事実は俺の心に複雑なものをもたらしてくれた。遥が死んでしまう事はもちろん望んでいなかった。でも、「はるか」も俺にとっては特別な存在だったのだ。そもそもが既に老朽化のピークであったはずだ。長い間、彼女は地球の周りを漂いながら、俺たち人間の為に働いてくれた。もう、眠らせてあげる頃合いではあったのかもしれない。
「遥、奴らは?」
『今の太陽風に飲まれて、みんな掻き消えちゃった』
「そっか……」
『全部、終わったよ、明日人。もう、全部』
「うん……」
 言葉が、出なかった。一瞬、遥が死んでしまったように感じたのだ。永遠とも思える長い絶望の時間が、あの時、俺の頭の中をよぎった。遥の声が聞こえたその瞬間の、冷たい氷を溶かすような安堵は、俺の動揺をそう容易(たやす)く解きほぐしてはくれなかったのだ。
 声が震えた。いつの間にか、目に涙が溜まっていた事に気づいた。それを親指でそっと拭いながら、俺は遥に言った。少しだけ、涙声になっていた。
「どうして、そんな無茶するんだよ。死んだかもしれないだろ」
『……明日人?』
「遥……俺、俺は……」
 声が詰まる。さっき味わった絶望が、いまだに忘れられなかった。天井を向いていた顔を、思わず伏せる。比良橋先生が無言で、静かに俺の肩にそっと手を置いてくれた。
 俺の声から察したのか、遥は何も言わなかった。少しだけ待って、やがて言葉を続ける。
『どうしてって、決まってるよ、明日人。だって、私は――』
 そう言いかけた遥が、口を止めた。不自然な言葉の止め方だった。その妙な切り方に、それまで笑顔をこぼしていた宇宙研の面々も、思わず耳を澄ませた。
 俺も比良橋先生も、天井を仰ぐ。
「どうした、遥」
 俺の問いに、遥の緊迫した声が運用室内に響いた。
『駄目、まだ一人残ってる』
 背中を貫くような衝撃の一言だった。全滅させたと思っていた電波生命体が、まだ生き残っていた。もしそうだとすれば、もう不意討ちは効かない。一人でも残っていれば、そのまま地上にまっすぐ向かい、いくらでも人類を脅かす存在となれる。なにせ、相手は俺たち人間が目で捉えられない、光速の生命体なのだから。
 遥が消えてしまったかのように感じたさっきの時とは別の、違った絶望の色が宇宙研の面々の間に拡がってゆく。電波照射が可能な「はるか」はもう死にかけている。近くには現役運用中か、もしくは廃棄となった人工衛星のどちらかしかないし、それらは電波生命体と戦えるようにはなっていない。そもそも唯一の対抗手段は、待ち構えての不意打ち以外にはなかったのだ。こちらのカードがはっきりしてしまった今、電波照射が相手に通じるとは思えない。
 だがしかし、何故だ? 何故、一人だけ生き残った?
 オルフォスから地球に向けて進行していた奴らは、「はるか」の電波照射と、太陽風によって掻き消された。それに耐えうる道があるはずない。
 遥は生き残った電波生命体の気配を感じるらしかった。相手について、通信で特徴を告げる。
『近くに別の人工衛星がいる。そこから気配を感じる。さっき地上でも感じた気配……』
 そこまで聞いて、俺には相手の正体が分かった。
 サテラだ! 一瞬でピンときた。
 そして同時に、遥のその言葉を聞いた瞬間、俺は自分が一つ見落としていた事に気づいた。
 携帯テレビの放送は大抵今はワンセグだが、半年前の航空テロ現場で見かけた携帯テレビのドラマは、あまり地上波で見ないものだった。つまり、あの携帯テレビに映っていた放送、あれは地上デジタルのワンセグ放送ではなく、衛星放送だったのではないか。
 迂闊だった。さっき追い込まれた奴は、遥のヘッドフォンに移ると見せかけて、拠点である人工衛星に戻っただけだったのだ。俺の読みが足りなかった!
 思わず、握りしめた拳に力がこもる。
 遥は通信を続ける。
『向こうも太陽風で弱ってる。気配で感じる。でも衛星を抜ければ、きっと死ぬ事はないと思う。コンピューターではなく、電波の状態に戻れば。生き残るつもりなら、きっとそうすると思う。明日人、言っていたよね? 電波に同じ波長の電波を当てれば、相殺して互いに消滅させられるって』
 その遥の言葉に、俺は瞠目した。
「な……何を言っているんだ、遥? まさか――」
 比良橋先生が慌てて椅子から立ち上がった。
「馬鹿な事を考えるんじゃない、遥!」
『馬鹿じゃないよ』
 遥は怒るでもなく即答する。一つ一つ、言葉を噛みしめるように話す。

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『お父さん、私、本当の娘じゃないけど、お父さんの娘で良かったと思う。いっぱい、私を愛してくれたよね。私が本当の遥じゃないって知っても、それまでと変わらずに接してくれた。嬉しかったよ。私、比良橋遥でいられて、本当に良かった』
「遥!」
 比良橋先生は声を振り絞った。ずっと遠くの、真っ暗な空にただ一人きりで浮かぶ娘を仰ぐように、天井を見つめた。
 俺は拳を握った。爪が肌に食い込む。歯を食いしばる。ただひたすらに、自分の不甲斐なさが許せなかった。
『明日人』
 ノイズで乱れた声で、遥が俺の名を呼んだ。「はるか」の機体がもう限界近いのだ。このまま「はるか」の中に留まり続けても、遥は助からない。だが――。
 人工衛星を抜けても、遥は消える。遥はその決意を固めている。
「駄目だ、遥。そんなのは、駄目だ。言っただろ、これからもずっと、一緒だって」
『聞いて、明日人』
 合成音声とは思えない、穏やかで、優しい声が言った。
『今まで明日人と一緒に過ごせて、凄く楽しかった。『はるか』と『ASTRO‐G』、二人が出会ったのは、今でも運命だと思ってる。

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明日人にはこれからも宇宙を好きでいてほしいんだ』

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 目を開けている事ができなかった。ぎゅっと閉じた両の瞼(まぶた)から、温かい物が頬を流れ落ちたのが分かった。
 人工衛星「はるか」は限界寸前だ。コンピューターが死ぬ前に、遥は再び電波に戻って、人工衛星を抜ける。そして、敵であるサテラに、自らの体をぶつけて、相殺するつもりなのだ。
 地上にいる俺たちには何もできない。宇宙での事は、宇宙にいる者にしか対処できない。自分の無力さが悔しかった。俺には遥を守ってあげられる力が、何もない。
 どうして、俺は。どうして……。
 遥は優しい声で俺に語りかける。
『明日人、さっき訊いたよね。どうして無茶するのかって。私はね、明日人やお父さんのいるこの星の未来を守りたかった。私にとっての第二の故郷だから。雨の日とか、ジェットコースターとか、写真とか、音楽とか、好きな物がいっぱい。明日人も、お父さんも、宇宙研の人たちも、みんな、みーんな大好き。だから、私が守りたいの。私にしかできない事だから』

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 ノイズが酷くなった。
 なんて――。
 なんて、遠いんだろう、俺たちは。
 あんなに、すぐ傍に感じていたというのに。それが俺には悔しかった。目から溢れ出る涙が止まらなかった。
「遥、俺、もう一度、君に会いに行く。何年かかってでも。必ず。会いに行くから」
 情けないが、それだけの言葉が今の俺の精一杯だった。他に何も言えない自分も悔しかった。
 遥は少しの間だけ黙っていて、やがて笑みを含んだ声で、一言だけ答えた。

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 『うん、待ってるね』


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 微笑んだ顔が見えた気がした。俺ははっとして目を開く。涙がとめどなく溢れてくる。
 通信は激しいノイズとなり、それ以降、一切の連絡は途絶えた。比良橋先生は椅子に体を預け、放心するかのように天井を見つめて黙っていた。宇宙研の職員らには、涙を流す者もいた。
 そして俺は棒立ちのまま、泣き続けていた。何時間も、ずっとずっと。遥と過ごした日々を思い返しながら。
 その日、半年に及ぶVSOPダッシュ計画は幕を閉じた。暗闇に浮かぶ、美しい金色の傘の、命と引き換えに。

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   ‐Epilogue‐

  2010年4月10日

 外はよく晴れた晴天の日。いわゆる六畳一間の狭いアパートの室内に、携帯電話の着信音が鳴り響いた。着信に使っているのはJAXAの公式テーマソングである『Redio Emission』だ。
 今日は陽気だったので、窓は開けていた。アパートの前には車道があって、その車道とアパートの間にある歩道に沿って、桜が街路樹として植えられている。当然、今の季節には絶好の花見スポットと化し、でもいかんせん、ただの歩道である為にレジャーシートを敷く訳にもいかず、短時間の立ち見客が入れ替わり立ち替わりで出没する。まるで自分のアパートが不特定多数の人間から眺められているようで落ち着かない気もするが、二階の窓の目の前に桜があるというのは、住人としては実に贅沢な住居だ。これで家賃も学生にはお得な金額なのだから、まさに好物件。もちろんアパートの契約を狙う競争率は普通に比べて格段に高いはずだが、あまりにも偶然のタイミングで、一件契約解除で二階の角部屋が空いた直後に不動産屋を訪れる事ができた俺は、一体どれだけの幸運を使ってしまったのだろうかと、時たま心配になる事がある。
 開いた窓から、風に流された桜の花びらがいくつか部屋に舞い込んできている。実を言うと、後で掃除の手間が発生してしまう訳だけど、やはりそれでも、こういう暖かな日は、つい窓を開けてみたくなる。
 俺は机の上に置いてあった携帯電話を手に取った。画面に表示されている名前を確認する。少し久しぶりとなるその相手からの電話は、なんだか嬉しかった。
『入学おめでとう、明日人くん。メールでお祝いの言葉は送ったが、電話では遅くなってしまったね。どうだい? 航空宇宙学科の生活は』
「どうって、まだ大学始まったばかりですよ、比良橋先生」

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 俺は苦笑しながら答えた。窓辺に寄って、フローリングの床に落ちている桜の花びらの一つをつまみ上げる。その花びらを何となしに眺めながら、俺は会話を続けた。
「やっぱりこれから覚える事が多そうで。自分なりに結構、知識はある方だと思ってはいたんですけど、専門的な事ってやっぱり表面上からだけじゃ知りえないもんですね。実際に仕事に就いたら、それこそ専門的な話になるでしょうし」
『だが一年前も、その半年前も、もし君がいなかったら人類は救われなかった。君の閃(ひらめ)きがあったからこそ、私たち地球の人間たちは今もこうして日常生活を送れているんだ。それも全て、君にある程度の知識があったからこそだ』
 指の先で桜の花びらを弄んでいた俺の指が止まった。少しだけ、感慨深いものが胸の中に蘇ってくる。そうか、もうあれから一年になるんだ。月日が経つのって随分と早いんだな。
『卒業後はJAXAを希望しているんだろう? 聞いたところによると宇宙飛行士を目指しているとか』
「はい。約束しましたから。例えそこに遥はいなくても、一度自分の目で人工衛星『はるか』を見てみたいんです」
 比良橋先生の口が一瞬、止まった。
『しかし仮に宇宙飛行士に選定されても「はるか」に会えるミッションは無さそうだが――』
 そこまで言って、比良橋先生はすぐに言い直す。
『いや、野暮な事だ。私が口を挟む事じゃないな。応援するよ』
「……比良橋先生」
『ん? 何だい』
「『はるか』に会えるミッションが、これから生まれる可能性は充分ありますよ」
 俺は窓の外に腕を伸ばし、つまんでいた桜の花びらをそよ風に乗せた。花びらは微風に流されながら、秒速五センチメートルのゆっくりとした速度で地面に向かって落ちてゆく。その落ちてゆく様を見届けながら、俺は電話口で続けた。
「人類の宇宙開発の歴史は長いですよね。後にV2ロケットと改名される、第二次世界大戦中のA‐4ロケットを皮切りに、アメリカと旧ソ連の宇宙開発競争を軸にして、人類の宇宙開発は発展していった」
『ああ。元々、当初の宇宙開発は兵器開発に直結していたものだったからね。宇宙の高さまで飛ばす事のできるロケット技術は、そのまま大陸間弾道ミサイルの技術に応用できる。だからこそアメリカと旧ソ連は争うように宇宙開発を競った。そしてそれは、冷戦時代に突入しても、ずっと続いた』
「アメリカ、旧ソ連にロシア、それに、後から続いて宇宙開発を始めた世界中の国々。日本だって例外じゃありません。まだまだ未知の部分が多い宇宙に対する人類の探究心は、知る事にばかり興味が集中していて、自らが生んだ現状の問題を先送りにしている部分がある」
 そこまで言うと、頭の回転が速い比良橋先生はすぐに勘づいた。
『……そうか、デブリか』
「はい」
 世界の宇宙開発によって人類がこれまでの長い宇宙開発の歴史の中で、宇宙に向けて打ち上げたロケットの数は四千以上。地球の周囲には膨大な数の人工衛星が存在する。
 そして、運用を終えて役目御免となった人工衛星の残骸。それらはやがて大気圏に突入して燃え尽きるが、それでも地球の周囲の宇宙には大量の人工衛星が漂ったままだ。人工衛星だけじゃない。多段ロケットの切り離しパーツや、小さい物で言えば、宇宙飛行士がEVAで使ってうっかり手放してしまった工具なども。これらは宇宙に漂う人工物の残骸、宇宙ゴミ(スペースデブリ)と呼ばれている。
 地球の周回軌道を漂い続けるデブリの問題は、本来はずっと前から問題視されてきた事でもある。秒速約八キロメートルという高速で地球の周回軌道を漂うデブリは、十センチ大ほどの大きさの物でも、衝突すれば宇宙船を破壊してしまう。そんな物が今、約四万個も地球の周りに存在しているのだ。実際に、ISSでEVAの最中だった宇宙飛行士らが、デブリ衝突の危険性により緊急退避したという例もある。
「デブリの問題はこれからさらに深刻化していきます。人工衛星同士が衝突する可能性だってある」
『確かに、そうだ。「はるか」だって例外ではない』
 比良橋先生はそこで何かに気づいたような声をもらした。
『明日人くん、君はもしかして、それで焦りを覚えているのかい』
「焦っていないと言えば、嘘になります。その感情は三年前からありました」
『三年前?』
「風雲(フェンユン)一号です」
 比良橋先生はその一言で分かったようだった。
 三年前の二〇〇七年一月。中国はミサイルによる人工衛星破壊実験を行った。この時に破壊されたのが気象衛星、風雲一号C。低軌道を漂うこの人工衛星を破壊した事により、地球の周囲に大量の破片が撒き散らされる事となった。この低軌道にはかなりの数の現役人工衛星が存在しており、加えてISSも軌道がかぶっている。この一件は史上最大規模のデブリ事件と呼ばれ、世界の国々から中国に批判が浴びせられた。
『あれは酷い話だった。当時私も、確かに焦りを覚えた。「はるか」のみならず、今の人類の生活には人工衛星は必要不可欠な物となっている。宇宙の探究だけではなく、日常生活に密着した人工衛星だって数多く存在する。それらがもしデブリによって破壊されてしまえば、人々の生活に大きな影響をもたらす事になる。宇宙に修理しに行く訳にもいかないしね』
「JAXAでは、デブリを捕獲して大気圏へ突入させる為のロボット衛星を開発中だという噂がありますけど」
『詳しくは言えないが、デブリ除去の研究をしているのは確かだよ』
「比良橋先生、これは俺の未来予想図なんですけど、見方によっては宇宙好きの妄想も入っているかもしれません。でも、笑わずに聞いてもらってもいいでしょうか」
 比良橋先生は「ああ」と答えてから、一言付け加えた。
『宇宙開発なんて、極端に言えば妄想の実現だからね』
 その言葉に、俺は少しだけ笑った。窓から空を仰ぎ見る。
「去年の九月頃でしたね。HTVがISSとのドッキングを成功させたのは」
 二〇〇九年九月十一日午前二時一分。H‐ⅡA(エイチツーエー)に次ぐ新たな日本のロケット、H‐ⅡB(エイチツービー)ロケット一号機によって宇宙へ打ち上げられたのは、JAXAが開発したISS補給物資の輸送機「HTV」。無人宇宙船であるこのHTVは、秒速7.7キロで地球を周回するISSに接近し、ISSのロボットアームでドッキングさせるという当初の計画を見事成功させた。これは世界初の例であり、スペースシャトル退役後の物資輸送機としても世界から注目を浴びていただけに、宇宙開発の歴史に新たな一ページを刻んだ出来事だったとも言える。
「日本も独力で宇宙船を開発して打ち上げられる時代になりました。しかも、世界に誇れる高度な技術が詰め込まれた宇宙船を。いつかそう遠くない未来に、日本も有人宇宙船を打ち上げる事だって、きっとできる。HTVの例は、俺にそう実感させてくれました。だから、ランデブー飛行とロボットアームによる、デブリを除去する為の有人宇宙船だって、いつかは開発されるんじゃないかって思うんです」
『明日人くん、まさか君が宇宙飛行士を目指すというのは――』
 俺は頷く代わりに、照れ笑いの声をもらした。
「どうせなら、自分の手で終わらせてあげたい、と思うのはおかしいですか」
『いや……そんな事はないさ。まったく、君の考えも壮大だね。だが、けっしてそれは不可能ではない計画だ。未来予想図とは、実に言い得ている。ありえない話じゃない』
「そう思いますか」
『君の発想力はきっとJAXAにとって必要不可欠な、大きな力になるよ。私も今から期待している』
 比良橋先生ほどの人からそう言ってもらえる事は、実に感激だ。電話で姿が見えないというのに、俺は窓辺で恥ずかしそうにしながら頭を掻いた。
『ところで、今日も娘に会いに行くのかい』
「あ、はい」
『私は仕事の都合で無理そうだから、ついでによろしく頼む。それじゃあ、勉強頑張って」
「ありがとうございます」

 電話を終えた俺は、自分のアパートを出た。道路の向こうに、今日もまた缶ドリンク片手に桜を眺めている通行人の姿が見えた。本当によく晴れた晴天の日。心地の良い微風を肌に受けながら、俺は町の中を歩く。やがて桜は道の両側に見られるようになり、奥まで続くその桜並木にはソメイヨシノが満開の花を咲かせていて、宙に花びらを撒いている。さながら、桜の彗星群といったところか、なんて事を俺は思った。思わず目を細める。

「明日人」

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 ふいに、背後から聞こえた声に、俺は振り返った。

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 桜並木には似合わない、黒地に点描のように星が描かれた傘を持つ女の子が、そこに立っていた。初めて会った時と同じ、白いワンピース。そして、宇宙を描いた傘。それをいっぱいに広げ、くるくる回しながら、彼女はヘッドフォンをした首を傾け、にこりと微笑んでいた。
 優しげなその笑顔。明朗快活で、天真爛漫で。好奇心に満ち満ちていて。ジェットコースターなどの絶叫マシンが大好きで。「Redio Emission」を始めとした音楽好きで。雨の日でもウキウキしながら傘を差して出かけたりして。記念写真を撮るのが凄く好きで。パソコン自作しちゃったり、日用品まで自分で作っちゃったりして。
 比良橋先生ともすごく仲良くて。宇宙研の人たちとも馴染み深くて。誰にでも優しくって、明るくて。みんなに太陽のような温かさを振りまいた。
 俺が出会った、そんな素敵な女の子。
 比良橋、遥。

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 ――明日人にはこれからも宇宙を好きでいてほしいんだ。


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 一年前の、彼女の言葉が頭に蘇る。
 好きだよ、遥。俺は今も子供の頃も、変わらず宇宙が好きだ。大好きだ。君の言葉を受け継ぐ訳でもなく。俺は、ずっと、ずっと、宇宙を夢見てる。遠く果てしなく、無限に広がるあの世界を。今もまだ、俺は夢見ているよ。この気持ちを忘れる事は永遠にない。
 遥。
 俺、君に出会えてよかった。心の底から、そう思っている。
 君に会えた事を、神様に感謝している。
 だから――。


「なんだ、迎えに行こうと思っていたのに」
 俺は笑顔を浮かべて、目の前の彼女にそう言った。彼女も、ふふっ、と笑う。
「だって、明日人の一人暮らしの部屋がどんなのか、やっぱり見てみたいじゃない。でしょ?」
 遥はそう言って俺の傍に寄り、傘の中に俺を招き入れた。晴れの日に相合傘というのも、どうにも奇妙なものだ。
 遥、俺は君に会えた事を、神様に感謝している。だからあの時、君がこうして無事に地球へと生還できた事も、俺は神様に感謝しているんだ。
 一年前、遥は唯一残った電波生命体サテラに自らぶつかり、互いに消滅させようと考えていた。でも、それよりも前にサテラの乗っ取った人工衛星は太陽風のダメージで完全に壊れ、サテラはそのままコンピューターとして死んでしまったらしい――というのは、後から遥に聞いた話だった。ゆえに、あの時、遥が自分を犠牲にする必要はなくなった。
 だから遥は、静かにそのまま、「はるか」を離れた。
 わずかに残ったスラスター燃料も吐き出し、一九九七年のΜ‐Ⅴ一号機での打ち上げから約十二年もの長い期間を経て、電波天文衛星「はるか」は、ようやく眠りについた。最後にその命と引き換えに、人類を守って。彼女は真っ暗な空で、今もまだ輝き続けている。
 二人肩を並べて桜並木を歩きながら、俺は遥の傘を内側から見上げた。
「思えば、やっぱり俺たちが出会ったのって、運命だったのかな。人工衛星『はるか』はよく花には例えられるけど、傘みたいだって思った人間は多分少ない。でも、そんな俺の前に『はるか』に見立てた傘を持つ君が現れた」
 俺の言葉に、遥も「うん」と頷く。
「そうだよ、明日人。私たちが出会ったのは、きっと運命。だからこれは、私たちにとっての運命の傘。明日人、早く会いに行かなくちゃ」
 明るくそう言って、遥は傘を持ったまま前に進み出て、こちらを振り返った。桜の並ぶ隙間に差し掛かり、太陽の日差しが彼女を照らす。風に、遥の長い黒髪がなびく。斜めに差し込む陽光が傘の内側の金色に反射して、微笑む遥の表情をきらめかせていた。

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 再来年にはASTRO‐Gも完成し、宇宙に飛び立つ。俺だっていつまでも宇宙に憧れを持ったまま、ただ地上で燻ってはいられないのだ。この目で、ずっと遠くに広がる真っ暗な宇宙(そら)を見たい。そして、その中で太陽の光を受けて輝き続ける、金色の傘をこの目にする。
 遥か遠くの頭上で燦然と輝く星々の姿を頭に描きながら、俺は空を仰いだ。

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<了>


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ついでにDMで感想いただけたら嬉しいです!

※本作品に登場する地名、団体名、曲名、科学衛星名などは実在のものを使用していますが、電波天文衛星「はるか」のプロジェクトマネージャーのみ、ストーリーの都合上フィクションの人物に置き換えています。実際の「はるか」のプロジェクトマネージャーは、平林久氏になります。
また、実在のものは全て2008~2010年当時の状況を描いています。

※2012年打ち上げ予定だった「ASTRO-G」による「VSOP-2」計画は2009年に技術課題が判明し、予算と開発期間の関係でプロジェクトは2011年に中止されました。

※劇中で「はるか」が電波照射を行っておりますが、フィクションのストーリーにおける設定であり、実際に電波を照射する事が可能かどうかは定かではありません。

※本作品は宇宙、宇宙科学について一から調べて書いたものですが、最終的に詳しい方の監修等は受けていない為、ご指摘等あれば後学のためにもDM等でご連絡ください。
また、仮に数学的、物理的な点での間違い等があれば、同様に後学のためにご指摘ください。
(ご指摘頂いても、理解できない可能性も大きいですが、その際はあらかじめご容赦ください。)

執筆 2008年
追加修正 2009年

   <参考資料>
 参考書籍/
 「カラー版徹底図解 宇宙のしくみ」
     二〇〇八年四月ニ十五日発行 新星出版社
 「カラー版徹底図解 通信のしくみ」
     二〇〇八年一月五日 発行 新星出版社
 「カラー版徹底図解 飛行機のしくみ」
     二〇〇八年三月十五日発行 新星出版社

 参考映像作品/
 「3万㎞の瞳 ‐宇宙電波望遠鏡で銀河ブラックホールに迫る‐」
    宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究本部

 参考サイト(2008年当時)
・「宇宙航空研究開発機構」
・「宇宙科学研究本部」
・「横浜みなとみらい21」
・「横浜こすもワールド」
・「パシフィコ横浜」
・「三菱みなとみらい技術館」
・「クイーンズスクウェア横浜」
・「横浜ランドマークタワー」
・「Googleストリートビュー」
・「光結合VLBI推進室」
・「はいてんしょん」/「相模原キャンパスの一般公開に行ってきました」
・「大木社長のページ」/「研究(宇宙プラズマ)」
・「国立天文台岡山天体物理観測所」
・「マカロニアンモナイト」/「『ロケット打ち上げを見に行こう』前編」「後編」
・「AERO SCAPE」/「ロケットの打ち上げを自分のお目めで見に行こうツアー」/「Μ‐Ⅴロケット7号機編」
・「なりたま通信所」/「探検発見 - 各種ネタスポット探訪レポート」
・「山賀 進のWeb site」/「われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」
・「アットホーム㈱大学教授対談シリーズ こだわりアカデミー」/「宇宙・地球」/「平林久氏」
・「アストロノミー☆パブ」/「2007年3月17日 星空‥「はるか」‥宇宙人」
・「マイクロ波で頭の中の声を送る命令電波兵器 MEDUSA」
・「VS真空容器ウェブショップ」
・「科学と技術の諸相」
・「名古屋大学 太陽地球環境研究所(日本語)」
・「SWC 宇宙天気情報センター」
 その他、様々なサイト、ブログ参照
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