短編小説 地平上の銀翼

記事
小説
<航空パニックアクション小説>
あらすじ
修学旅行でハワイを訪れた蒼青高校の面々。ジャンボジェット機で帰途に着く中、穏やかな空気を切り裂いたのは1発の銃声だった…

※本作品は専門的な部分に不安が残るため、無料公開となります。

※物語は2008年当時のストーリーになります。時事的な部分は2008年当時の事柄を記述しています。

※本作品は航空知識について一から調べて書いたものですが、最終的に航空周りに詳しい方の監修等は受けていない為、ご指摘等あればDMなどで後学のためにも戴けると助かります。(※小説本文の修正はできません。)

※このブログ小説は、noteに掲載した物の再掲になります。


  ‐Prologue‐

 アメリカ・ハワイ州オアフ島にあるアラモアナビーチは、ワイキキビーチより車で五分というかなり近い距離にありながらも、ワイキキビーチに比べて人の数は少なく、また、防波堤によって波が非常に穏やかで、子供連れの親子などが遊びに来たりする程のんびりとした海岸だ。うちの学校――蒼青(そうせい)高校がハワイ修学旅行の帰国前日日程のビーチ遊泳に、ワイキキビーチではなくここを選んだ理由も、引率教師らの監督上の理由からなのだと、俺は校内の噂で聞いた。確かにワイキキビーチでは人が多すぎて、はぐれて迷子になってしまう生徒もいそうだな、と俺は思った。
 マリンブルーの美しい海を前に、水着で楽しげにはしゃいでいる高校生の集団がビーチのあちこちに展開している。
「やっぱり、ハワイといえばビーチは外せないよな。修学旅行の日程にビーチが入っていなかったら、どうしようかと思ったぜ」
 ぼうっと海面に浮かんで空を見上げていた俺に、側(そば)にいた親友の怜太(れいた)がつぶやくように言った。初めはただの独り言かと思ったが、どうやら俺に話しかけているようだった。
「ハワイは別にいいけどさ……。なんで、修学旅行がハワイなんだよ。修学旅行といえば日本国内が普通だろう。俺は京都とかで、寺とか見て回りたかったよ」
「何言ってるんだよ、今のご時世、海外の修学旅行は珍しくないだろ。おかげで俺はすげえ苦労した訳だけど。でもほら、見ろよ悠(ゆう)。こういう機会でもなきゃ、女子の水着なんか、そうそう拝めないんだぜ」
 怜太が砂浜でボールのトスラリーをしているクラスの女子達を指差して言った。俺はその方向を一瞥だけして、溜息を吐いた。
「あほらし」
 仰向けのまま足で水を蹴って、すいっと怜太から離れる。その後をすぐ追ってくる怜太。
「俺は、二度と飛行機なんか乗りたくはなかったんだけどな」
 俺のつぶやきを怜太は聞き漏らしていなかった。
「悠、お前、まだ気にしてるのか。まあ……何ていうか、気にするなっていうのが無理だけどよ。けど、もう吹っ切った方がいいぜ?」
 怜太はどこか言葉を選ぶようにして言った。単純で大雑把な性格の怜太らしくない言動だが、俺の抱えている過去を知っている親友だからこその、精一杯の俺への気遣いである事が分かった。怜太にそんな気を遣わせてしまう事は、俺としても申し訳なかった。
 旅行前日、修学旅行の行き先がオアフ島であると知った旅客機パイロットの飛高(ひだか)さんが、俺に携帯電話のメールを送ってきた。

<君の気持ちは痛いほど分かっているが、俺は君にまた飛行機を好きになって欲しいと思っている。押しつけるつもりはないが、俺は今でも空が好きだし、操縦士を続けている。飛行機乗りである事を捨てられないからだ。今回の修学旅行で君の気持ちに変化が起きてくれればと、俺は勝手ながら願っている。君には迷惑かもしれないが、宗司(そうじ)機長の息子である君は、きっとまた飛行機を好きになってくれると、俺は信じているんだ>

 飛高さんはあの日以降も、未(いま)だ旅客機のパイロットを続けている。俺の親父が死んだあのフライトの時、飛高さん自身も恐怖を突きつけられ、怪我を負った筈だった。それでも、まだ飛行機に乗り、遥か高い大空を飛んでいる。
 ――空への情熱が、忘れられないんだ。
 親父が死んだその便の副操縦士だった飛高さんに、なぜあんな目に遭っても飛行機に乗るのか尋ねた時、群青の空を仰ぎながら、あの人はそう答えていた。俺には、その気持ちが理解できなかった。
「FS(フライトシミュレーター)じゃ何度も飛行機に乗ったけど、俺はあれからFSでさえ、一回もやっていなかったんだ。それなのに、よりによって修学旅行が海外なんて……」
「なんだよ、そんなに飛行機が嫌なら、来なければよかったじゃねえか」
「怜太……お前なあ。そんな冷たい事を子供の時以来の親友に言うか、普通。高校生活三年間の中で一回きりの修学旅行なんだぞ。行かない訳にいかないだろう」
「その、せっかくの修学旅行にそんな辛気臭い顔してるからだよ。ここをどこだと思っているんだ? 天下のハワイだぞ!」
 何が天下か分からないが、怜太がそう言って突然、俺の顔を手で水中に押し込んだ。軽くパニックになって、手をばたばたさせて、俺は慌てて浅瀬に立ち、顔を水面上に出した。水を少し飲み込んだ為に、顔を出してからゴホゴホと咳き込む。側で怜太の笑う声が聞こえる。
「怜太、お前な!」
 俺が怜太に向かって叫ぼうと振り向くと、すぐ目の前に人の白い肌が立ち塞がっていた。その柔らかな輪郭はどう見ても女性の胸元で、続けてパニックになった俺は悲鳴をあげて水中で足を滑らせ、背中から水の中に倒れ込んだ。すぐにまた水面の上に顔を出して息を吐くと、しとやかな女の笑い声が加わっていた。
「琴音(ことね)……?」
 俺は思わず、相手の名前を声に漏らした。
 目の前に立っていたのは、中学以来の付き合いである女子の、阿野琴音(あのことね)だった。同じ中学からの入学者の中で怜太以外の唯一の知り合いで、高校に進学する前から俺や怜太と、割と仲良くしていた。きっかけは中学二年の時、クラスメイトづてに、俺の親父が旅客機パイロットであると彼女が知った時だった。
 ――宗司くんのお父さん、航空会社のパイロットなんだって? いろいろ話を聞いてもいいかな。私、客室乗務員(パーサー)に憧れているんだ。
 純粋で清らかな笑顔を見せて俺に話しかけてきた琴音の、その時の無邪気な表情を俺は今でも覚えていた。
「おどかすなよ、琴音。いつの間に、ここにいたんだよ」
「今しがた。宗司くんと宇多(うた)くん、二人で何を話しているのかなって思って」
 琴音が水面から顔だけ覗かせている俺を見ながら、怜太と一緒になって、くすくす笑っていた。そんな琴音の白い花柄ビキニの水着姿は、普段はブレザー制服に隠れて見えない彼女のもち肌を露わにし、水に濡れたそのスレンダーな肢体はお世辞なしに美しく、水中の俺の胸の鼓動を速くさせた。
 と、その時、どこか遠くからゴオオーッという音が聞こえた。反射的に俺は立ち上がる。近くのホノルル国際空港から、ジェット機が飛び立っていくのが、よく晴れた青空に見えた。思わず三人、無言で飛行機を見送っていた。親父の影響により大の飛行機好きで、FSで旅客機の擬似操縦ばかりしていた俺、そんな俺と一緒にパソコンのディスプレイで空の旅を疑似体験していた怜太、パーサーに憧れ飛行機に興味を抱く琴音――。空を通りがかる旅客機を見つめるのは、俺たち飛行機によって繋がった三人の、無意識の癖だった。
 隣りの怜太が、俺の脇腹を肘でちょんちょん突きながら、小声で話しかける。
「悠、琴音へのラブレター、ちゃんと渡してくれたか?」
 それは修学旅行当日になって、いきなり怜太が俺に渡してきた手紙の事だった。もちろん、怜太から俺に宛てた手紙ではなく、琴音へ宛てた怜太のラブレターだった。怜太が琴音を好きだったという事実は、俺にとって衝撃であった。
「……ああ」
 俺は、耳を済ませていないと聞こえないほどの、小さな声で返事した。それを聞いて、怜太はにやりとした笑みを浮かべた。
 反対隣りの琴音を見てみる。飛行機を見つめるショートカットの琴音の襟足は少し長く、海から吹く心地の良い微風に浮いてなびく彼女の後ろ髪は、ちょっとした飛行機雲のように思えた。
 昨夜の就寝時間前、誰もいないホテルのリラクゼーションルームで彼女に告白された時、俺はその思いを断った。琴音は友達だ。だからこれからも怜太と、三人で友達でいよう、と俺は琴音に言った。琴音は眉根を寄せながら、精一杯の笑顔で、「友達なら、仕方ないね」と言った。
 俺は心苦しかった。どうすればよいのか、その時の俺には分からなかった。怜太の手紙を渡す事もできなかった。他人のラブレターを琴音に渡すなんて、俺にはとてもできなかったのだ。
 なぜなら、俺も琴音の事が好きだったからだ。


   1

 九月五日の帰国当日、蒼青高校の修学旅行の面々はホノルル国際空港でのセキュリティチェックの列に並んでいた。アメリカの空港のセキュリティは、二〇〇一年九月十一日の旅客機を使った同時多発テロ以降、かなり厳重なものとなっているらしい。当然、入国よりも、機内へ危険物を持ち込ませないようにする出国審査の方が厳しく、修学旅行の前から生徒たちは学校によって注意を受けていた。まず、金属類は当然ながらアウト。そして、鍵のかかるバッグは検査時はロックを外すよう言われていた。ロックを外しておかないと鍵を破壊されるらしい。また、空港預け荷物も、機内持ち込み荷物も、全てX線検査。機器類は凶器を機器の中に入れて偽装して機内に持ち込む可能性もある為、出国時にきちんと動作するかどうかのチェックも受けるので、携帯電話はおろか使い捨てカメラも学校側で禁止された。これには、さすがに生徒達から批判の声が多数あがっていたが、問答無用で抗議の声は一蹴された。
 列に並んでいる間、俺はセキュリティゲートの付近を見ていた。蒼青高校以外の一般客らがチェックを受けている。その中の一人、グレーの高価そうなスーツを着た日本人らしき若い男が係員のチェックを受けていた。手荷物から検査用のトレイの上に出された物は、ロボットのプラモデルの箱で、新品らしく、パック包装されていた。係員と男が英語で何か話していたが、所々の単語を拾ってみると、どうやら知人の子供へのプレゼント品らしい。パッキングされているので、プラモデルの箱はそのままX線検査の機械へと通された。気のせいか、チェックを終えてゲートの先へと進んだ男は、薄笑みを浮かべていたようにも見えた。が、特に気にしない事にした。
 生徒数が多い事もあって順番待ちに相当な時間がかかったが、ようやく出国審査が終わり、蒼青高校の生徒と教師たちは空港内で飛行機の搭乗を待っていた。搭乗開始時間までにボーディングブリッジに到着できないほど遠くまでうろうろしない条件で、三百人近い日本の高校生が空港内に溢れている。
 空港内の自販機で、怜太がコーラを買っているのを見つけた。側(そば)まで寄ると、怜太の財布には一セント玉や十セント玉、二十五セント玉など、様々な硬貨が沢山入っていた。その財布を上着の胸ポケットにしまった怜太に、俺は声をかけた。
「お前は、よっぽど買い物が下手なのか。なんで、そんなに硬貨が余っているんだよ」
「違うって。こいつらは旅の記念だよ。もう、二度と外国なんか来られないかもしれないだろ。だから、俺はなるべく全ての種類の硬貨が残るようにしてたんだぜ。ほらよ」
 そう言いながら、怜太は二つ買った缶コーラの一つを俺に手渡した。俺は缶を受け取って、プルトップを開ける。炭酸飲料独特の、プシッという音がした。
「悠」
 ふと、怜太が俺の名を呼ぶ。見ると、いつものおちゃらけた表情は消えていて、手に持つコーラをじっと見つめていた。
「なんだよ」
「いや、何って訳でもないんだけどさ。何ていうか……。俺、修学旅行来れて、良かったよ。サンキューな」
 怜太はそう言って、コーラに口をつけた。急ぐようなその飲み方は、照れ隠しのように見えた。怜太が真顔で真面目な事を言うと、俺まで調子が狂う。
「急に改まって、何を言っているんだか……。お、まずい、もうすぐ搭乗開始じゃないか。急いで飲まなきゃ」
 まるで独り言のようにつぶやき、慌ててコーラを飲む俺のその動作も照れ隠しだった。そして、炭酸飲料の速飲みが危険である事を実感したのは、その三秒後だった。

 ボーディングブリッジを渡り、ぞろぞろと生徒たちが席に座っていき、エコノミークラスの席はあっという間に日本人の黒や茶色の頭で埋まってゆく。右手に持つチケットを見ながら、俺と怜太は自分たちの座席を探す。出席番号で席は決められていたが、座席交換などで皆、各々の仲のよい者同士で自由に座っていた。教師陣もそれには気づいていたが、黙認していた。
 当然、俺も怜太も席交換によって隣り同士にしてあって、並ぶ三席のあと一つにも、割と仲の良いクラスの男子が座る事になっていた。俺と怜太がチケットに記されている場所へ行き、右列のその三席を見てみると、すでに窓際の一席に誰かが座っていた。見てみると、それは琴音だった。
「遅いね、お二人さん」
「琴音? なんで、ここにいるんだよ。この席じゃないだろう?」
「替わってもらったの。帰りは、二人と話しながら過ごそうかなって思って」
 一瞬、周りの目が気になったが、周囲の皆はそれぞれで会話しながら盛り上がっていた。
「おい、後ろがつかえるぜ、悠。いいじゃん、三人寄ればモーゼの十戒って言うだろ」
「言わないし、意味も分からないぞ、それ」
「まあまあ。重要なのは、男子より女子がいた方が万倍楽しいぜ、って事だ。よろしくな、琴音」
 そう言って怜太は俺の脇をすり抜け、座ったままの琴音とハイタッチした。そのまま琴音の横に座る。その様子は見ていて何だか胸が締めつけられた。
「早く座れよ、悠」
 怜太が俺の方を向いて、着席を促した。ああ、と返事して、俺は怜太の横の通路側の席へ座ろうとした。すると、急に怜太が立ち上がる。
「あ、悠。ここ座れよ。お前にはいろいろ解説をしてもらうから」
「解説?」
「いいから、いいから、ほら」
 怜太が席を立って通路に出てきたので、俺はよく分からないままに、真ん中の席に座った。すぐに怜太も通路側の席に座る。窓側に首を向けると、琴音が俺の顔を見て、にこりと微笑んだ。急に一昨日の夜の彼女の告白を思い出し、琴音は俺の言ったように元の友達の関係である事に努めようとしているのではないか、と俺は思い、申し訳ないという気持ちが頭の中によぎった。
 と、その時、反対隣りの怜太が俺の肩越しに窓の外を指差し、俺に話しかけてきた。
「なあ、悠。気になってたんだけど、あれって何だ?」
 怜太の質問の声に、俺も琴音も、怜太の指差す先を見る。窓の外には、飛行機の翼が伸びている。ここは、ちょうど翼のある辺りの席だったようだ。そして怜太が尋ねているのは、どうやら翼の先端で斜め上に向かって折れ曲がるように付いている、小さな羽の事らしかった。
「あれはウイングレットだよ。この機が国際線だから、付いているんだな。あれで、揚力(ようりょく)の低減を防いでいるんだ」
「揚力? ウイングレット? 何だ、それ」
「何って……それを説明する前に、そもそも飛行機がなぜ空を飛べるのか、その理屈を知らないだろう、お前は」
「さっぱり知らん。飛行機は飛んで当たり前と思っていたし」
 俺は脱力して、肩を落とした。
「ごめん、私も知らないや」
 琴音も俺を窺うように、そっと手を短く上げた。
「仕方ないな……。まあ、厳密には、飛行機の飛行原理はまだ、はっきりと解明されてはいないんだけど。とりあえず、一般的な説明で言うとだな……まず、飛行機の翼の上面っていうのは実は緩やかな弧を描くような輪郭をしていて、前縁部上の方は丸みを帯びた形状をしているんだ。そして、水や空気といった流体と呼ばれる物質には、物体の側を通過する時、その物体の表面に沿って流れる性質がある。飛行機がエンジンや車輪の推進力で高速で前進すると、当然、周りの空気は前から後ろに流れるよな? この時、翼の周囲の空気は、翼の表面に沿うように流れて後ろに過ぎる。ここまではいいよな?」
 琴音が頷いた。怜太は「分かったような、分からないような……」と、小声で言っていた。そんな怜太の声は無視して、俺は琴音に向かって説明を続けた。

飛ぶ原理.jpg

「翼の周囲の空気は、翼の上面と下面に分かれて、後ろに流れる。この時、上面の表面形状の為に、上面を流れる空気の速度は速くなるんだ。この速度差によって、翼の上と下で気圧の差が生まれ、上より気圧の高い下の空気は、上に向かって翼を押し上げようとする。この力が、浮き上がる力――揚力さ。飛行機は、揚力を生む事で初めて飛行できるんだ。まあ、この論法には矛盾点もあって、実際のところ正確な飛行理論ははっきりしていないんだけど、これが一般的な通説かな」 
「へえー、知らなかった。パーサーの仕事には関係ないかなあって、特に調べた事もなかったけど、そういう説明聞くと、なんだか面白いね」
 琴音が感心するように言った。反対の怜太の方からは、試験の難問を前にしたような、唸り声が聞こえていた。
「……で、まあ、話を元に戻すと。飛行中、実は翼の端の方では、下面から空気が上面に流れ込んでくるんだ。これは揚力の減少に繋がる。それを防ぐ為に翼の先端に付いているのが、あのウイングレットなんだ。小さく見えるけど、あれでも結構な大きさで重量もある。機体の重量は当然、揚力にも関わってくるから、飛行距離の短い国内線の旅客機とかには、付いていないんだ」
「なるほど、それがウイングレットってやつか」
 怜太が言った。
「怜太……お前、分かってないだろ」
「もちろん」
 当然のように怜太が頷き、俺は溜息をついた。が、怜太は反対に、にやにやして俺の顔を見る。
「なんだよ、その顔は。気持ち悪いな」
「いや、別に。ただ、やっぱりお前、飛行機が好きなんだなって思ってさ」
 怜太の魂胆が分かり、俺は心の中で舌打ちした。どうやら、俺は怜太に嵌(は)められてしまったようだ。少々、熱っぽく語りすぎたらしい。
「今は、好きじゃないさ」
 むすっとして俺は座席の背もたれに背を預けた。怜太と琴音が俺を挟んで顔を見合わせ、やはり、にやにやした笑みを浮かべていた。どうも嫌な感じだ。居心地が悪い。
 と、その時、左斜め前の中央列右通路側の席に、空港で見たスーツの男が座っているのが見えた。エコノミークラスはほとんど蒼青高校の生徒で埋まっていて、その前の方に他の一般客が座っていたが、俺たちは学校の人間達の中でも前の方だったので、一般客の席にかなり近かった。男は座席の肘掛けに肘を乗せ、頬杖をついている。目を細め、前の座席……いや、虚空を見つめていた。その表情が、俺はどこか気になった。
 乗客の搭乗も終わり、しばらくしてようやく飛行機が動き出した。管制から移動の許可が得られたのだ。旅客機は時間通りに自由に動けばいいというものでもなく、必ず管制側から毎回許可を得て移動をする事になっている。滑走路へ向かうのも、離陸するのも、全て管制からの許可が出てからなのだ。そうやって空港内外の多数の旅客機の動きを制御して、衝突事故などを防いでいる訳だ。
 鈍い速度で空港内を進む搭乗機は何度か方向転換と前進を繰り返し、やがて滑走路に辿り着いた。少し待機した後、両翼にそれぞれ二発ずつ付いたエンジンの音が激しくなり、機内にも響く。そして、機体は速度を上げながら、滑走路を走行し始めた。
「見て! 翼が動いてる!」
 琴音が窓の外を指差して興奮するように言った。俺と怜太も窓の外を見る。琴音が言ったのは、フラップの事だった。翼には、面積が広げられるように可動できる収納式のフラップという部分がある。日本を出発した時は翼周辺の席ではなかったので、琴音は翼の可動部分の事を知らなかったのだろう。
 車輪(ギア)の走行と四発エンジンの推力によって機体の速度は高まり、やがてV1(ブイワン)というスピードを超える。ここまで達すると、もう飛行機は離陸を中止する事はできない。この速度で走行を止めようとしても、滑走路を飛び出してしまうからだ。更にVR(ブイアール)に達した機体は機首を上げ、高い揚力によって宙を浮き始める。激しい揺れと共に、窓の外の風景は徐々に下へと流れていった。

 ハワイ時間午前九時、俺たちの乗る日本エアマネジメント航空402便のジャンボジェット・ボーイング747‐400は、日本の成田空港を目指して、約八時間半予定のフライトへと飛び立った。その先に悪夢が待っているとも知らずに――。


   2

 十分ほどして、ポーンという音と共に、機内のベルト着用サインの点灯が消えた。飛行機が水平飛行に入ったのだろう。機体の激しい揺れも収まった。
 いろいろ会話している間に、すぐに機内食が配膳される。少し遅めの昼食だ。店で売っている弁当を少し豪華にしたようなセットで、料理の器が次々と女性パーサー達によって配られた。
「いいなあ、私も通路側に座ればよかった」
 パーサーの仕事を間近で見られる怜太を羨ましそうに見ながら、琴音が後悔のつぶやきを一人もらしていた。そしてその怜太は、食事を配りに来た女性パーサーに、終始デレデレした表情を浮かべていた。
 昼食はビーフをメインにした洋食だった。白飯にビーフの乗った洋風牛丼のようなものをメインに、ナゲットやサラダ、フルーツの切り身がいくつかオマケ程度にあった。食事を摂っていると、がつがつ貪るように食べていた怜太が、何かに気づいたように俺に声をかける。
「悠、ケチャップかけないのか」
 怜太が言っていたのは、ナゲットにかける為のケチャップのミニパックだ。指で摘めるほどの小さいパックで、よく弁当屋の弁当などに付いていそうな、あれだ。
「俺がトマト嫌いなのは、知っているだろ」
「なんだよ、ケチャップも駄目なのかよ。仕方ない、俺がもらっといてやるよ」
 怜太はケチャップのパックを摘んで、上着の胸ポケットに入れた。今使うんじゃないのか、とツッコミを入れそうになったが、怜太の家庭の事を考えると、その貧乏性も笑う事はできないので、あえて俺は何も言わなかった。
 しばらく飛行して、パーサーによって窓のシェードが次々と閉められた。これから中央列の前の方にあるスクリーンで映画が始まるらしい。琴音は、周りが明るいと映画が観えにくいから暗くしていると思っていたようだが、ホノルルからの帰国便は違う。成田とホノルルの間は日付変更線を跨いでいる為に、時差十九時間分の時間の変化が訪れる。つまり九時ホノルルを出発して八時間半後、成田に着いたら明日の昼十二時半になっているという訳だ。だから、時差に慣れさせる為に、太陽の光を遮って機内に夜を作っている。太陽の光には覚醒の効果があるので、窓を閉め切る必要があるのだ。
 映画は最近のハリウッド映画をやっていた。日本の航空会社なので日本の映画もやるだろうが、この時はたまたまアメリカ映画だった。しかし、自分の趣味の映画ではなかったので、俺は観なかった。
 機内は静かになっていた。中が暗くて自然と静かな雰囲気になったというのもあるだろうが、修学旅行生たちは疲労感もあって、ほとんどが眠りへと誘(いざな)われていた。左に座る怜太も口を開けたまま熟睡していた。
「外の景色が見えないのって、なんだか寂しいね」
 琴音がつぶやくように小声で言った。
「どうせ、太平洋上は海しかないぜ?」
「でも私、飛行機乗るのって、子供の時以来だから。飛んでいる間の景色も見てみたかったな」
 琴音がシェードの閉められた窓の方を向いて言った。
「まあ、成田に到着する前には、また窓の外が見えるようになるさ。琴音は、パーサーになりたかったんじゃなかったっけ? 結構、飛行機に乗っていた訳じゃないのか」
「ううん、子供の時に一回きり。その時のパーサーの人が優しくて綺麗な人でね、その時に憧れを持ったのかな。宗司くんは知っているかもしれないけど、初めてのパーサー……というより、スチュワーデスっていった方がいいのかな、世界で初めてそういう職業が誕生した時は、みんな元看護士の人だったんだよね」
 そういえば、そんな話を親父に聞いた事があった。世界で最初に誕生したスチュワーデスは、アメリカの大学看護科卒の八人の女性達で、この八人は「オリジナルエイト」と呼ばれているという。
「初めて飛行機に乗った時にね、自分よりも小さい他の子が熱を出したみたいでね。その子の両親は動揺していたんだけど、パーサーの人がてきぱき応急処置して。その後も、ずっとその子に優しい声をかけてあげてて。その姿を見た時に私、ああ素敵だなって。空の上っていう環境の中で、整然として丁寧にお客さんに接して、あんな風に乗客の人たちに尽くせるのって、格好いいなって思ったの」
 琴音が昔を思い出すように、笑みを浮かべて話す。暗い静かな機内で、俺は黙って彼女の話を聞いていた。
「人って凄いよね。地上にしかいられない筈なのに、こんなに高い空まで上れるようになったんだから。昔の人も、空を地上から見上げる度に、遠いこの空に強い憧れを持ったのかもしれないね。そして、長い歴史の中でその憧れを実現させた……」
 琴音が、俺の方へ顔を向けた。
「きっと、宗司くんのお父さんも、空が好きだったのよね」
 俺は、その言葉には何も言えなかった。琴音の言わんとしている事は、なんとなく分かっていたからだ。少しの間、俺の事を見つめていたが、やがて、「ごめん、私も寝るね」と言って、俺から顔を逸らすようにして、背もたれに首を預け、目を閉じた。
 俺は急に子供の頃の記憶を思い出した。あれはまだ俺が九歳だった頃。世界がテロという言葉にまだそれほど敏感ではなかったあの時、俺は親父の操縦する旅客機にお袋と乗った。フライトを終えて空港に着陸した後、他の乗客がいなくなった後で、数分だけコクピットを見せてもらった事があった。まだハイテク化がされていない、ボーイング747‐300のコクピットは予想以上に狭かった。座席と計器の前には操縦輪があり、触る事は許されなかったが、半分ハンドルのような形をしたその操縦輪が子供の頃の俺の興味を強く掻きたてていた。
 眠る怜太と琴音に挟まれた俺は、思わず自分の両手を見つめた。あれから成長し、FSを始めた中学一年の時、FS用の操縦輪を初めて握った時の、あの何とも言えない興奮と、その操縦輪を引いて機体が浮き上がった時の高揚感を、俺は今でも覚えていた。
 空を飛ぶ感覚。自らの手で操る巨大な鉄の鳥。だが、どうしようもなく好きだったその鳥が、俺の親父をこの世から消し去った時、俺はFSの操縦輪を握る事をやめてしまった……。
 そんな過去の記憶を回想しているうちに、いつしか俺も眠りに誘(いざな)われていた。

 窓のシェードが開けられ、徐々に乗客たちが眠りから目を覚ました。日付変更線を超えて、現在はカレンダー上、九月六日という事になる。前座席の背中に付いた小さい個人用モニターの表示によると、成田まであと二時間半となっていた。
 ふいに、俺たちの左斜め前方に座っていたあのスーツの男が立ち上がり、頭上の棚から機内持ち込み荷物を取り出した。バッグにはほとんど物が入っていないようで、男は中からプラモデルの箱を取り出した。そしてバッグはそのままに、男はプラモの箱を手にして、通路を歩いてトイレの方へ消えていった。プレゼント品のプラモなど持って、一体何をするつもりなのだろうか。
 そんな事を考えていると、パーサー達によって、軽食が配られ始めた。パンとコーヒー、ティラミスのセットだった。乗客の皆が食事していると、男がプラモの箱を持って戻ってきた。席に座った男の持つプラモの箱は、パッキングが破られていた。プレゼント品だった筈のパック包装をなぜ破いたのだろう、と俺は訝んだ。男はさっと食事を済ませ、それから頬杖をついて、再びぼうっと虚空を見つめていた。
「もうすぐ、修学旅行も終わりか……」
 ふと、怜太が感慨深そうに、独りごちた。前のモニターの表示を見ると、到着予定までの時間があと一時間弱となっていた。
 パーサー達が食後の食器を片付けて回る。軽食の食器回収が全て終わり、あとは成田への着陸を待つばかり……というところで、左斜め前のスーツの男が、座席にある呼び出しボタンでパーサーを呼び出した。すぐに一人の女性パーサーが男のもとへやってくる。
 俺も怜太も、何気なく男の方を見ていた。琴音は窓際なので窓の外を見ている。
「いかがなさいましたか、お客様」
「ああ、ちょっと、これを見てくれませんか」
 男は、自分の両腿の上に乗せたプラモの箱の蓋(ふた)を取って開けた。その中身を見て、男の隣りの乗客も、俺も怜太も、一瞬ぎょっとした。
 箱の中には、黒光りする拳銃が入っていたのだ。だが、少しだけ息を呑んだ女性パーサーは、すぐに冷静さを取り戻した。それがプラモデルの箱に入っている事に気づいたのだ。
「お客様、ご冗談は――」
 そう言いかけたパーサーの言葉に反応するかのように、男は箱の中の拳銃を手に取った。
「そうか、やっぱりデモンストレーションがないと、信じるには足らないか」
 そうつぶやき、男は立ち上がって、銃身の上部を左手で手前にスライドし、座席列の前にあるスクリーンに銃口を向けた。その光景を目にした時、俺の体中に鳥肌が立ったのを感じた。
 次の瞬間、成田まであと一時間弱となったジャンボジェットの機内に、日本人には耳慣れない、乾いた音が鳴り響いていた。


   3

 機内は悲鳴で騒然となった。引き金を引いた男の拳銃の銃口がぱっと光り、乾いた音と共に、座席列前の大きなスクリーンが音をたてて割れたからだ。初めは皆、何が起きたのか分からず音に驚いていたようだが、その直後に音の元を見て、すぐに顔色を変え、再び悲鳴の連続となった。
「静かにしろ!」
 男がすぐに側の女性パーサーを捕まえて、こめかみに銃口を突きつけながら、周囲に向かって叫んだ。それによって乗客たちは、悲鳴をあげるのを、ぴたりとやめた。
 男は捕まえた女性パーサーの首を腕で挟んだまま、器用に銃身をスライドさせ、中から空になった薬莢(やっきょう)を吐き出させた。確か銃によっては、弾丸を撃つと同時に排莢と次弾の薬室装填、ハンマーコックまでを行う自動拳銃(オートマチック)の物もある……と、エアガンの雑誌で読んだ記憶があるが、どうやら男の持つ銃はシングルアクションのタイプらしかった。
 近くにいた男性パーサーを見て、男が強い語調で命令する。
「おい、機内アナウンスで全ての乗客に伝えろ。当機はただいまハイジャックされました、ってな。勝手に動いた人間が一人でもいれば、その度に一人ずつ撃ち殺すと言え。コクピットには一切、何も知らせるなよ。乗員も勝手に動けば、すぐに撃ち殺すからな」
 男性パーサーは躊躇(ためら)いながら頷き、スクリーンのそばの壁までゆっくりと近づいて、機内アナウンスのマイクを手に取った。
「お……お客様にご案内申し上げます……」
 機内アナウンスを通して男性パーサーの震える声が、男に言われるままの内容を機内の乗員乗客に伝えた。それを確認してから、男は男性パーサーに顎で通路の奥を指しながら、次の命令を飛ばした。
「二階席に行け。上のエグゼクティブクラスの連中はこの状況を見ていないから、すぐに信じられないだろうしな。いいか、機長には知らせるなよ。コクピットの連中には、俺が直に話をつけるからな」
 男性パーサーは頷き、重い足取りで、階段のある通路の奥へと消えていった。
 機内は途端に静かになり、外のエンジンの微かな音だけが聞こえていた。洟をすすって泣く声もちらほら聞こえていた。到着まであと一時間半という頃になって、突然にして機内はテロリストによる悪夢の現場へと化していた。
 隣りの琴音が、俺の右腕に手を添える。折り曲げた指にぎゅっと力がこもるのを感じた。彼女の体の震えが、腕を通して伝わってくる。
「悠……空港で、厳重にセキュリティチェックをやっていたよな?」
 女性パーサーに銃を突きつけたまま周囲の様子を見張るハイジャックの男の背中を見ながら、怜太が小声で俺に尋ねた。
「怜太……お前、何を考えているんだ?」
「金属探知のチェックはもちろん、X線で荷物の内部まで調べてたんだぜ。そんなセキュリティの中で、拳銃なんか持ち込めないんじゃないか。俺が考えるに、スクリーンをぶっ壊したのはこっそり取り付けていた簡単な爆弾みたいなもので、リモコン操作か何かで銃の発砲にタイミングを合わせてスクリーンを壊したんじゃないか。それで、俺たちに本物の銃だと思い込ませた、とか……」
「スクリーンのど真ん中に、そんな物を仕込めるか? それに、簡単な爆弾っていっても、それは空港で見つかる筈だろう」
「俺はよく知らないけど、確か金属じゃなくても化学変化で爆発とかは起こせるだろ。多分、そういうやつなんじゃないかな。ともかく、俺はあの拳銃が本物と思えないんだよ。金属チェックは、どうやったって抜けられないだろ。空薬莢を排莢させてたけど、それもフェイクなんじゃないかって俺は思う」
 怜太は、男がこちらに背を向けている背後で、ゆっくりと腰を浮かした。男より後ろにいる乗客は皆気づいたが、はっと息を呑んで、じっと見守っていた。声をあげると、男に気づかれるからだ。
「怜太、よせ……!」
「悠、俺はハイジャックは許せない。お前だって、そうだろ。俺はお前の痛みはよく分かってる。お前の痛みは、俺の痛みだ。だからハイジャックだけは、俺はどうしても我慢がならない……」
「よせ、怜太……!」
 俺の必死の小声での制止もきかず、怜太は音を立てないように、座席を立った。周りの乗客が、あっ、という表情をしたのが分かった。怜太はそろそろと、背を向けている男に近づいてゆく。足早に、しかし音を立てないように、怜太は背後から男に接近する。男より後ろに座る乗客の全員が、祈るように怜太の方を見ていた。
 すぐ後ろまで来たところで、怜太は思い切って、男の銃を持つ手に向かって、ぱっと手を伸ばした。その瞬間がスローモーションのように見え、俺にはゆっくりとしたやりとりに感じた。
 あと一センチと満たないところで、男の銃を持つ手が、怜太の手から距離を置いて離れてゆき、男が怜太の方を振り返りながら、人質を捕まえたまま自らの体を通路の奥へと引いた。その途端に、怜太の手は男まで届かなくなり、二人の間に間合いが生まれた。
 男の銃を持つ手が伸び、その先が怜太の心臓の前に据えられる。俺は即座に座席を立ち上がり、機内に響くほどの大きな声で叫んだ。
「やめろーっ!」
 ほぼ同時に、再び乾いた音が機内に響いた。
 俺のすぐ目の前に怜太が、糸の切れた操り人形のように、力なく倒れていく姿が見えた。その瞬間、俺の体中の産毛が逆立ったのが分かった。
 途端に、機内は騒然となり、悲鳴と泣き叫ぶ声が飛行機内を埋め尽くした。
「怜太! 怜太!」
 俺はすぐに倒れている怜太の側でしゃがみ込み、名前を叫びながら怜太の体をゆすった。
 怜太は目を閉じ、ぴくりともしなかった。それでも俺は、何度も名前を叫びながら、激しく怜太の体を揺さぶった。怜太が目を開けて起き上がる事を願っていた。だが、怜太の服の心臓辺りが赤く滲み出し、俺の中で絶望の色がじわじわと広がっていった。
「怜太……」
 震える声で名前を呼んでも、親友は動かなかった。その姿を見下ろす俺の体も、小刻みに震えていた。
 ――俺、修学旅行来れて、良かったよ。ありがとうな。
 ふいに、空港での怜太の言葉が、俺の脳裏に蘇った。目に涙が溜まる。
 側に革靴を履いた人間の足が近づき、立ち止まったのが見えた。ハイジャックの男が側まで来たのだ。そして俺の横顔に銃口を構え、撃鉄を起こしたのが分かった。
「勝手に動くな、と言ったよな」
 男が冷淡な声で言った。その声に、俺の中にふつふつと、怒りが湧き起こる。
「この野郎!」
 俺は男を殴りつけるつもりで拳を握り締め、男の方を向いた。その瞬間、三度目の発砲音が機内に響き、琴音を含む乗客たちの悲鳴がその場に溢れた。
 俺の左頬に、焼けるような痛みがじわりと広がった。鋭い刃物で切り裂かれたようだった。何が起きたかすぐに状況の把握ができなかった俺は、数秒の間、しゃがんだままで固まっていた。
「運が良かったな。今のは、お前の顔面にぶち込むつもりで撃ったからな。せっかく拾った命だ、もう少しだけ長く生きていた方がいいんじゃないか」
 男の嘲笑めいた声が聞こえた。男が撃った弾丸は俺の頭部に直撃せず、頬を掠めて通り過ぎていったらしい。俺は頬から流れる血を右手の甲で拭い、男の方を見上げて睨んだ。
「なぜ……。どうやって、こんな……。ホノルルの空港でセキュリティを敷いていた筈なのに……なんで、銃なんか持ち込めるんだ……!」
「普通だったら、まずは無理だろうな。この銃は俺の自作品で、世界でも未発表の新素材を使って鋳造した銃だ。金属として認識されない、言わば非金属製金属だ。俺が自分の会社で研究を行い、ついに完成した新しい技術による素材だった」
 男が銃を構えたまま、語りだした。
「だが上の連中は、こんな素材が世界にあると、テロ行為を増長させてしまう、と俺の研究データを抹消し、俺を危険人物として解雇した。馬鹿な連中だ。どんな技術だって、新しい技術は常に悪用されてきたっていうのに。俺が職を失ったと知ると、婚約していた恋人も、俺の元を去っていった。世の中に絶望したさ。会社の為にしてきた俺の仕事が、会社によって潰され、そして俺の人生までも奪い去っていったんだからな。だから復讐してやろうと思ったのさ。俺は勤めていた支社のあるマンハッタンから、別荘のあるオアフ島まで飛んだ。そこで念の為に、別荘のパソコンに保存してあった研究データを見てみたが、会社の奴らに抹消されていた。俺の怒りは更に大きなものとなったよ。だが、奴らも俺の頭の中のデータだけは消せないからな。俺は記憶にある研究データを元に、非金属製素材を使って、オリジナルの銃を製作したって訳さ」
「でも、X線は!? X線を遮断したとしても、検査エラーとなって、チェックを通過できない筈だ!」
「X線検査は所詮、立体化して判別するに過ぎない。中身まで見る訳じゃないからな。解体した状態の形状が、銃を組み立てられる物であると連想されない形をしていれば、ただのバラバラのパーツと思わせられるっていう寸法さ。あとは、プラモデルの箱に入れて、新品同様にパッキングすれば、X線検査をしても商品のプラモデルとしてしか判断されない」
 男がにやりと笑みを浮かべる。俺は銃口の先でしゃがんだまま、右手を握り締めて床についていた。思わず、歯を食いしばる。
「俺の親父は……旅客機のパイロットだった。社内でも優秀な腕のいい操縦士で、人望の厚い人間だった。でも、あの日……! お前のようなハイジャック犯が、俺の親父を殺したんだ! 俺は、お前たちハイジャック犯だけは、許せない。絶対に!」
 俺が握り締めた拳を床から離した時、座席から琴音が飛び出してきて、俺の拳を抑えた。
「やめて!」
 悲痛な叫びで、ぎゅっと俺の手を押さえつける。見ると、涙で頬を濡らした琴音が、眉根を寄せて必死に首を横に振っていた。
「もう、やめて……。宗司くんまで撃たれちゃう。宗司くんまで、死んじゃうよ……!」
 その顔を見た時、途端に俺の拳から力が抜けていった。そうだ、俺は冷静さを欠いていた。怜太が撃たれた事と、相手が親父を殺したのと同じハイジャック犯であるという事で、怒りに我を忘れていたのだ。だが当然、銃を持った相手に正面からぶつかっても、勝てる見込みなんてある訳がないのだ。今、琴音が飛び出さなかったら、俺は男に撃たれて、呆気なく終わっていた。
「なるほど、その女には弱いみたいだな」
 男はそう言って、琴音の方へ銃口を向けた。
「よせ、やめろ!」
「安心しろ、人質を交換するだけだ。おい女、この乗務員と替わって、こっちに来い」
 男が銃口を琴音のこめかみに押し当てた。琴音は瞠目し、肩をびくっとさせて、顔を強張らせた。
「早くしろ」
 男の声に、琴音がゆっくりと立ち上がろうとする。膝ががくがくして、倒れてしまうんじゃないかという程だった。
「琴音……!」
「大丈夫……。何もなければ、撃たれたりしないから……」
 琴音が震える声で言った。だが当然、そんな保証もない事は、彼女自身、分かっているのだ。それは、俺に無茶をさせない為の、精一杯の俺への説得だった。
 琴音が立ち上がると、男は捕まえていた女性パーサーを俺の方へ突き飛ばし、同時に琴音を引っ張り寄せて、再び彼女のこめかみに銃口を押し当てた。倒れてきたパーサーを受け止めて俺は叫んだ。
「琴音!」
「いいか、この女の頭が赤い噴水と化すところを見たくなければ、お前は席でじっとしている事だ」
 男は琴音に銃を突きつけたまま、俺を見据えながら通路を後退していく。
 琴音がこのまま無事であるという可能性が百パーセントでない事は、誰もが分かっている。それでも俺が今動けば、その方が琴音に危険が及ぶ確率が高い事も、俺は分かっていた。通路の奥に消えていく男と琴音を、俺は唇を噛んで、ただ見ているしかできなかった。

 しばらく、全員が固まっていた。周囲を見張る者は誰もいない。しかし、目の前で実際に人が撃たれた光景を目の当たりにした為か、誰も動く事が叶わなくなっていた。
 俺は床を拳で叩いた。目の前にいながら、何もできない自分の無力さが悔しかった。すぐ側の怜太を見る。人形のように目を閉じて、やはり床に倒れたままだった。その左胸が赤く染め上げられている痛々しい様に俺は怜太の決定的な死を実感し、顔を歪めて、押し殺すような声を震える口から漏らした。
 と、その時だった。
 ポーン、という音と共に、機内アナウンスが流れ始めた。しかし、マイクの向こうから聞こえてくる声は、とてもアナウンスと呼べるものではない、切迫した状況の様子だった。
<よせ、やめろ!>
 何人かがもみ合うような物音が聞こえ、そして、発砲音がマイクの向こうで鳴り響いた。続く琴音の悲鳴。
<お前ら……よくも……>
 ハイジャックの男の、苦しそうな声が聞こえ、今度は発砲音がたて続けに二回響いた。琴音の恐怖に包まれた悲鳴が機内に響く。俺の顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
 琴音……!? 琴音……!
 俺は最悪の想像をし、いてもたってもいられず、通路を駆け出した。
 調理室(ギャレー)を通り越し、一階エグゼクティブクラスの後ろにある階段を駆け上る。今のは、機内アナウンスだった。あれだけ会話がクリアにマイクに入るという事は、狭い空間――コクピットではないか、と俺は考えた。階上へ上がると、二階のエグゼクティブクラスの乗客たちも、恐怖に凍りついた顔で、互いに顔を見合わせていた。コクピットがすぐそこなので、二階の乗客たちにすれば恐怖は倍増された事だろう。突然階段を上がってきた俺に、後ろの乗客たちは短い悲鳴をあげた。
「あいつは……!? ハイジャックの男は、もしかして、そこですか!?」
 俺は最後部座席の乗客に、コクピットを目で示しながら尋ねた。乗客は俺の切迫した様子に動揺したのか、無言で頷いた。
 やはり、あれはコクピットの様子だったのか。男は、機長らとは自ら話すと言っていた。いずれコクピットに向かうつもりだったのだ。だが、あの機内アナウンスの様子では、ただ事ではない何かが起きたとしか思えない。
 コクピットのすぐ前にトイレの並んだ短い細い通路があり、その通路の前で、さっきの男性パーサーが壁のインターフォンの受話器を手にし、何事か悩んでいるのを見つけた。おそらく、今の機内アナウンスで聞こえた内容について確認する為に、コクピットの人間を呼び出そうかどうか迷っているのだろう。俺はすぐに男性パーサーの方へ駆ける。パーサーは決心したのか、本体のボタンをいくつか押し、コクピットを呼び出していた。俺はすかさず、受話器をひったくる。驚く男性パーサーをよそに、俺は受話器を耳に押し当てた。しばらくして、向こう側の誰かがインターフォンに出たのが聞こえた。
「琴音! 無事か!?」
「宗司くん……」
 琴音の、洟をすすって泣く声が受話器から聞こえ、俺は途端に安堵した。
「琴音、コクピットの扉を開けてくれ」
「……うん……」
 数秒して、コクピットの扉は開けられた。俺はすぐにインターフォンの受話器を本体に置き、扉の方へ近寄る。
 だが、中の光景を見て俺は足を止め、息を呑んだ。コクピットの中には、頬を涙で濡らした琴音が立っていた。


   4

「これは……」
 俺は思わず言葉を詰まらせた。後ろから中を覗いた男性パーサーも、息を呑む。
 コクピットの中には、琴音以外の三人の人間がいた。琴音の足元には銃を握り締めたまま倒れているハイジャックの男と副操縦士らしき若いパイロット、そしてその後ろに並ぶ操縦席の左側に、機長らしき中年のパイロットが座席の背もたれに首を預けて動かなくなっていた。三人とも目を開けたまま、ぴくりともしない。操縦士の二人を見ると、紺色の制服に黒いシミができているのが見えた。
「まさか、撃たれたのか!?」
 俺は琴音の方を向いて、叫ぶように尋ねた。琴音は泣きながら、無言で頷く。
 琴音の話によると、まずコクピット前まで来た男は、パーサーを脅してコクピットを呼び出させ、中から扉を開けるように言わせた。そして、何も知らない副操縦士がコクピットの扉を開けたらしい。そのまま琴音を捕まえたまま男は中に押し入り、扉を閉めた。機長に銃を突きつけ、成田を通り越して新宿の高層ビル郡まで飛べ、と命令したという。
 だが、副操縦士が隙を見て銃を奪おうと格闘し、もみ合いになった。この時に、機内アナウンスのスイッチにどちらかの体が触れたのだろう。もみ合いの末に銃は暴発し、男は自分自身を誤射、逆上した男は操縦士二人を射殺し、琴音にも銃を向けた。しかし撃鉄を起こす前に力尽きて、男は発砲せずに倒れてしまったのだそうだ。
 周囲を見てみる。チェックリストなどをしまうラックや、壁などに弾痕が見られる。
「操縦系統部分やウインドシールドなどに弾が当たらなかったのが、不幸中の幸いか……。とりあえず、キャビンからここの様子を見えなくした方がいいでしょうね」
 俺は男性パーサーに向かって言った。パーサーははっとして、慌ててコクピット内に入り、扉を閉めた。
 俺は倒れて動かなくなった男からおそるおそる銃を取り、微かに残っている拳銃についての雑誌の記憶をかき集め、グリップにあるマガジンキャッチを押して弾倉をグリップから抜き取った。シングルアクションの銃なので、銃身にも弾は残っていない筈だ。
「ああ……なんて事だ。なんて事だ……」
 男性パーサーは操縦席で動かなくなっている二人を見て、頭を抱えながらつぶやいていた。彼が何を絶望しているのかは、当然、俺も分かっていた。機長と副操縦士――。この便に乗っている二人きりの操縦士が、どちらも死亡してしまったのだ。高度三万五千フィートの上空で、このジャンボジェット機は操縦する人間を一人残らず失ってしまったという事になる。
 俺は操縦部に視線を下ろした。操縦輪の前の、計器類が敷き詰められている筈の部分には、五つのモニター画面が並んでいて、機長と副操縦士の席の間にあるセンターペデスタルにも更に一つ画面が存在している。そうだ、B747‐400の操縦席はハイテク旅客機として開発製造されたグラスコクピットだ。こいつの自動操縦(オートパイロット)によって、主のいなくなったこの機体は、今も空の上を飛んでいるのだ。だが、成田までもう、時間はあまり残っていない……。もうそろそろ、着陸へ向けての降下を開始する頃だ。
「くそっ」
 残された選択肢は、一つしか見当たらなかった。
 俺は機長席まで寄り、開いたままの機長の目を手で閉じた。心の中で手を合わせる。それから、機長の背中に手を回し、脇に自分の頭を入れて、機長の腕を支えながら、俺は機長の体を座席から引っ張り出す。
「何を……?」
 男性パーサーが我に帰って尋ねた。
「協力してください。機長(キャプテン)と副操縦士(コー・パイ)をコクピットから出します。……それと、その床で倒れている男も。目の前の作業に集中して座りたいんです」
 パーサーは初め、俺の言っている意味が理解できないようだった。とにかくコクピットから運び出してください、と俺は叫び、動揺していた男性パーサーは年下の高校生である俺の指示に従った。
 死んだ三人をコクピットから運び出すと、乗客が短い悲鳴をあげた。パーサーと協力して三人を二階の空席にベルトで固定したところで、コクピット内に残っていた琴音が声をかけてきた。ようやく少しだけ落ち着いたのか、頬を流れる涙は止まっていた。
「宗司くん、もしかして……」
 琴音は俺の考えている事に感づいているようだった。俺も無言で頷く。本当なら、俺だってもっと何か確実な方法をとりたい。しかし、他にこの局面を切り抜けられる手段がないのだ。
 と、その時、操縦席の方から声が聞こえた。皆、同時に気づいて、声の聞こえた方向を振り向く。
「……402. ……Air Management 402. This is Fukuoka control. OK?」
 航空交通管理(ATM)センターからの無線の呼びかけだ! 俺はすぐに、操縦士が誰もいなくなった機長席に置いてあったヘッドセットを身につけ、左席に座ってマイクを口元に寄せた。すぐに琴音や男性パーサーも座席の後ろに寄って来る。
「福岡コントロール、こちらエアマネジメント402」
「Ah……こちら、福岡コントロール。もしかして、操縦を交代されましたか」
「……いえ、オートパイロットで飛行しています」
 俺の言い方に、ATMセンターの管制官は違和感を覚えたようだった。首を傾げている姿が、目に映るようだった。
「エアマネジメント402、日本語で交信という事は、ひょっとして何らかの緊急事態が発生したのでしょうか」
「それは……どういう事ですか」
 俺の問いに、ATMセンターの管制官は一呼吸置き、躊躇うように言った。
「実はつい先程、新宿センタービルに入っているMTEエンタープライズ本社の郵便受付に、今日のホノルル発成田行のJAM402便をセンタービルに衝突させる、という脅迫文が時間指定で届いたようで……たった今、警視庁から連絡が入りまして、確認を取るべく、コールしました。何か、異常はありませんか」
 そういう事か……。男がこの402便を新宿へ飛ばそうとしていた理由が分かった。どうやら、自分の会社の本社ビルへジャンボジェット機を突っ込ませようとしていたらしい。ニューヨークの9・11テロを真似しようとしていたのだ。しかも、あの辺りは高層ビルが密集している地域だ。あんな所にジャンボ機を突っ込ませれば、あの一帯に甚大な被害が出る事は容易に予想がつく。
「福岡コントロール、こちらの現状を伝えます。まず、当機は先程、乗客(パックス)の一人に一時、ハイジャックされました」
 俺が言った途端に、えっ、と管制官が声をあげた。そのまま管制官に現在の状況を伝える。当然だが、管制官もやはり動揺していた。
「待ってください、 操縦士二人が死亡したというのですか!? あなたは誰なんですか!?  乗務員の一人ですか!?」 
「いえ……パックスの一人です。都内の私立蒼青高校の修学旅行で搭乗していた、宗司悠といいます」
「こ、高校生!?」
 管制官が素っ頓狂な声をあげた。
「……ああ……。ええと、近くに乗務員の誰か、いますか。もしいれば、交信を替わってください」
 俺は座席の後ろでやりとりを聞いていた男性パーサーを振り返った。パーサーはまだ動揺していて、普段話す事のない管制官との交信相手を言い渡された為か、緊張しているようだった。外したヘッドセットを俺が手渡すと、気が進まない様子でヘッドセットを身につけた。
「ええと……福岡コントロール、402便のアシスタントパーサー・須知井巌人(すちいいわと)です」
「ああ……あのですね、機内アナウンス(PA)を使って、個人用でも飛行機の操縦資格を持っているパックスがいないかどうか、すぐに当たってもらえませんか」
「了解しました。しかし、もし見つからなかった場合は、どうすればよろしいでしょうか」
「その場合は……追って指示します。とりあえず、操縦士を確保してください」
 そこで俺は、すかさずパーサーからヘッドセットを奪い取り、マイクに向かって叫んだ。
「俺が操縦します!」
「なんだって……!?」
「747のダッシュ400は、FSで何度も操縦しています。操縦方法は分かります。なんとかいけると思います」
「何を言っているんだ、これはシミュレーターじゃない。本物の旅客機なんだ。航空会社の操縦訓練用ならいざ知らず、市販のシミュレーターと一緒にしてもらっては困る」
「いえ、もし、たまたまこの機にダッシュ400を操縦できる操縦士がパックスとして乗っていたなら、すぐに操縦を譲ります。しかし、そんな偶然はほぼ期待できない。仮に飛行機操縦の資格を持っている人間がいたとしても、せいぜいセスナ機くらいです。ボーイングのジャンボジェット機を操縦できるとは思えない。確率で言えば、俺が操縦する方が、助かる確率はぐっと高い筈です」
「いや……でも、しかし……」
 管制官は迷っているようだった。確率の問題を出したのは、交渉として良い手だった、と俺は思った。ここで畳み掛けた方がいいかもしれない。
「それに、時間もありません。今は自動操縦で飛んでいますが、もうすぐ着陸進入の降下を始めなくてはならない。それには、自動操縦をマニュアルに切り替える必要がある。どのみち、誰かが操縦する事になります」
「君の言う事は分かる。……だが、君にそれができるのか?」
 俺はヘッドセットを再び装着した。マイクを口元に寄せる。
「俺は、命を諦めたくない。自分の命じゃなくて、乗客乗員、みんなの命を諦めたくないんです」
 俺は力を込めてそう言って、目の前の操縦輪を両手で握った。指が触れた瞬間、子供の頃から憧れていた本物の操縦輪から、目に見えないエネルギーが俺の体に流れ込んできた気がした。初めて握った筈のその操縦輪の感触が、ずっと以前から知っていたような感覚に感じた。まるで、B747‐400と自分の体が繋がったかのように――。
 管制官は無線の向こうで数秒、黙っていた。が、やがて、おもむろに口を開いた。
「そうか、聞いた名前だと思えば……。君はもしかしてあの、エアマネジメント657の宗司機長の……」
「そうです、息子です」
「やはりそうか。あの時の交信をしていたのも、私だった。宗司機長も、今の君と同じ言葉を、最後に口にしていた……」
 エアマネジメント657――。それは一年前の夏、羽田から関空(関西国際空港)へ向かって飛んだJAM657の事だ。その657便のボーイング747‐300に、副操縦士の飛高さんと、機長である俺の親父が搭乗していた。そして657便が富士山を越えた辺りで、乗客の一人の男が機内持ち込み荷物から包丁を取り出し、女性のパーサーに突きつけた。空港の出発ロビーと到着ロビーの、警備の穴を突いて持ち込まれた凶器だった。
 男はコクピットを開けさせ、副操縦士を締め出した。対する相手は一人がよいと考えたのだろう。親父に包丁を突きつけ、北朝鮮へ行くよう命じた。男は北朝鮮へ強い憧れを持っていて、日本に北朝鮮へ向かう便がなかったのでハイジャックして行こうとしたらしい。後に解析されたフライトレコーダーの記録によると、北京などの幾つかの外国の空港から平壌に路線が伸びているんだからこんな事をするもんじゃない、と親父は説得していたが、北朝鮮へ行く旅行代金は高すぎて無理だからこの飛行機で行く、とまるできかなかった。
 親父は、無断で北朝鮮の領空を侵犯すれば攻撃される恐れもある、と説得を試みた。しかし業を煮やした犯人に、親父は腹を刺されてしまった。親父の悲鳴を聞いて扉を蹴破った飛高さんが犯人の男と格闘し、飛高さんも右腕を負傷した。乗客たちの協力を得て、ようやく犯人の男は取り押さえられたが、二人の操縦士は怪我を負っていた……。
「怪我が酷かったのは宗司機長だった。しかし、副操縦士は利き腕を動かせず、操縦輪を握れるのは宗司機長しかいなかった。あの時657便を操縦し、三百人余りの乗員乗客の命を救ったのは、君の父上だ。あの人がいなければ、657便は間違いなく墜落していた」
 ATMセンターの管制官が言った。
 俺もお袋も防犯上の理由の為、フライトレコーダーに記録されていたコクピット内の会話は聞かせてもらえなかった。どのみち、俺たち家族には辛くて聞く事ができなかったかもしれない。その親父と、息絶える前に無線交信した相手が今、衛星通信の向こうにいた。俺は奇妙な巡り合わせを感じていた。
 イヤホンから、数人の話し合う声が微かに聞こえる。そして、管制官が口を開いた。
「エアマネジメント402、検討の結果、君を緊急の代理操縦士として現状を託す事で決定しました。ただし、これは可能性を重視した懸けですので、それを忘れないように。念の為にパックスの方も当たってください」
「エアマネジメント402、了解(ラジャー)! ありがとうございます」
「それでは、もし他に代理操縦士がいなかった場合はオートパイロットを解除し、周波数125・8で成田アプローチに通信してください。すでに成田には現状を報告していますので、管制の指示に従って進入してください。本当に、任せて大丈夫なんですね?」
「はい、進入の流れも知っています。大丈夫です、福岡コントロール」
 ATMセンターの管制官は一呼吸ついてから続ける。
「私達は君を信じる事にする。頑張ってくれ。グッドラック!」
 交信が切れた。俺はすぐにベルトで自らを座席に固定し、背後のパーサーに叫ぶ。
「須知井さん、PAでダッシュ400を操縦できる操縦士の有無を、一分ほど確認してください。一分経っても誰も名乗り出なかった場合は、俺が着陸進入に臨みます」
「わ、分かった!」
 須知井さんは慌ててコクピットを出て行った。すぐに、琴音の方にも呼びかける。
「琴音も……席に戻ってくれ。訓練なしの素人パイロットだから、何があるか分からない」
 しかし予想に反して、琴音は首を振った。ゆっくりと、右隣りの副操縦士席に座る。そして、ベルトを締める。
「琴音!」
「私は、ここにいる。ただ横にいる事しかできないけれど、宗司くん一人残してただ祈るだけなんて、私にはできない」
 俺の方を見つめる。
「頑張って、宗司くん。必ずみんなで無事に、日本に帰ろ」
 不安を押し殺して現状に精一杯堪(た)えている、その琴音の表情が愛おしくてたまらなかった。思わず、抱きしめてやりたかった。だが、今の俺は操縦輪から手を放す事はできない。
 ふいに、怜太の顔が頭に浮かぶ。俺は、琴音に怜太の手紙を渡す事ができなかった。今の三人の関係が崩れていくのが、俺は怖かったんだ。だが、俺に手紙を止められ、気持ちの伝わる事もないまま、怜太は――。
 目に涙が溜まる。俺は片手でそれを拭い、上着の内ポケットに入れてあった怜太のラブレターを琴音に差し出した。琴音は目で疑問を投げかける。
「怜太から……琴音へ。俺、渡せなかった……。読んでやってくれ」
 俺がそう言うと、琴音は頷いて、俺の手から手紙を受け取った。封筒から中身を取り出し、二枚ほどの便箋に目を通す琴音。やがて彼女の目に涙が溢れ、ぽろぽろと膝の上に落ちていくのが見えた。それは、もう今はいない、友の気持ちを初めて知った涙だった。
 キャビンからコールが入る。インターフォンの受話器を取ると、須知井さんが出た。
「PAで確認したが、やはり操縦できそうなパックスはいないようだ」
「分かりました。須知井さんも着席してください。これから管制と通信して、アプローチに入ります」
「了解」
 受話器を置くと、その手が琴音にそっと握られた。思わず、彼女の方を振り向く。
 琴音は何も言わず、濡れた瞳を俺に向けていた。俺は琴音の手をそっと離し、彼女に向かって無言で頷く。
「必ず、着陸させてみせる」
 俺はスピードブレーキレバーの下にある無線操作部の周波数を成田空港のATIS(エイティス)に合わせ、三十分ごとに更新して放送されている空港周辺の気象情報をキャッチする。主要空港の様々な無線周波数を暗記していたのが、思わぬところで役に立った。ATISによると、空港周辺は横風もなく、他にも問題になりそうな点は見当たらない。着陸には理想的な環境のようだ。
 そのまま、ATMセンターの管制官に言われた成田APP(アプローチ)の周波数に切り替え、管制室へ呼びかけた。
「成田アプローチ、こちらエアマネジメント402――」


   5

 成田APP管制室を呼び出す俺の声が、狭いB747‐400のコクピットに響く。
「フライトレベル350、ATISインフォメーション・W(ウィスキー)受信済み」
 すると、成田APPの管制官が通信に応答する。
「エアマネジメント402、こちら成田アプローチ、了解です。貴機の現状は承知済みですので、交信は全て日本語で行います。着陸(ランディング)の予定滑走路は、A滑走路の34Lを用意しているそうです。トラフィックがかなり混雑していますが、現在、貴機が着陸するまでの間のみ、A滑走路への離着陸の便は遅らせています。滑走路(ランウェイ)まで誘導しますので、指示に従って降下してください」
「エアマネジメント402、了解しました」
「それでは、機首方位290度へ左旋回、フライトレベル280まで降下(ディセント)してください」
「機首方位290度へ左旋回、フライトレベル280まで降下、了解」
 管制との交信は伝達ミスがないように復唱が義務づけられているので、俺は指示内容を繰り返した。
 オートパイロットパネルを操作して、マニュアル操作に切り替える。右手でセンターペデスタルにある四本のスラストレバーを握り、手前にゆっくり引きつつ、左手の操縦輪を左へ少しずつ傾けた。両翼それぞれに二発ずつ付いたジェットエンジンの出力が弱まり、速度の落ちた機体は徐々に高度を下げていく。
「エアマネジメント402、機首方位50度へ右旋回、フライトレベル110まで降下してください」
 APP管制官の指示を復唱し、右旋回して更に高度を下げる。
 いい。今のところ、順調だ。本物の巨体を操縦しているという緊張感で、体中から汗が噴き出ているのを俺は感じた。操縦に神経を集中させる。
「エアマネジメント402、機首方位10度へ右旋回、フライトレベル70まで降下してください」
 復唱し、更に機体を降下させる。747‐400は雲中にゆっくりと沈んでゆく。目の前の視界が白む。レーダー誘導があるとはいえ、視界の効かない中を進むのは、やはり極度の不安を伴った。
「エアマネジメント402、進入コースまで誘導します。フライトレベル50まで降下して、そのまま高度を維持してください」
「フライトレベル50まで降下、そのまま高度を維持、了解」
 手に汗が滲んでいた。素手で操縦輪を握っているので、汗で滑らないようにしっかりと握る。
 そろそろ雲の中を抜けられる頃合いだろうか。しかし、まだ少し雲の中を進むとしても、とりあえず着陸時にランウェイさえ視認できるのであれば、計器着陸装置(ILS)を使えば問題はない筈だ。ILSは地上に設置されたアンテナで、三種類の誘導電波を空に発射して、着陸機を滑走路まで導いてくれる装置だ。方向、進入角、空港までの距離を地上から電波でキャッチしたパイロットは、その情報を元に主要飛行姿勢ディスプレイ(PFD)に映し出された正確な高度と方向のズレを絶えず修正しながら降下していくのだ。これならば、空港が見えない状況からも進入を進める事ができる筈……。
 そんな事を考えている時だった。
「何だこれは! どういう事だ!」
 APP管制官が叫んだ。
「エアマネジメント402、ランウェイ34L方向から離陸機が接近中! 接近機はエアマネジメント412!」
 信じられない言葉が、無線の向こうから聞こえてきた。今、降りようとしている滑走路から飛行機が離陸しただと!?
 すぐに、空中衝突防止装置(TCAS)が検知し、「Traffic」という装置の警告音声が聞こえる。航法ディスプレイ(ND)に、接近機を表すダイヤ型の菱形のマークと、下方にいる事を示す下向きの矢印、相手との距離を示す数値が表示されている。数値を減らしながら、徐々にこちらに近づいている。
「34Lは402便の着陸まで空けているんじゃなかったんですか!」
 俺は思わずマイクに叫んだ。
「分からない、こちらでは34Lと聞いている。タワーの管制ミスなのか……!? くそっ」
 ポーッという音と共に、NDの接近機の表示が黄色の丸へと変わった。
<Traffic,Traffic>
 TCAS(ティーキャス)の再度警告音声が告げられる。俺の額を汗が滑り落ちていた。原因を考えていても仕方ない。今重要なのは、途轍もない速度で巨大な鉄の塊が402便に接近しているという事だ。早急に回避しなければ衝突は避けられない。
「成田アプローチ! 回避指示を!」
「ああ……エアマネジメント402便! ディセント! ディセント!」
 降下!? すでに降下中だったというのに!? 俺の頭の中に疑問がよぎる。APP管制官も不測の事態に動揺している。その指示は本当に正確なのだろうか――!?
 再びポーッという音が二回鳴り、NDの円周輪郭が赤く染まった。俺ははっとしてNDに目を向ける。接近機の表示が赤い正方形に変わり、距離を詰めていた。
<Traffic,Climb,Climb>
 TCASが上昇の警告音声を告げている。管制官とは逆を指示しているのだ。俺は接近機の便名を瞬時に思い出した。確か離陸上昇しているのは、この機と同じエアマネジメントの412便だと言っていた。おそらく、便名を取り違えているのではないか!?
 二〇〇一年にも、管制指示とTCASの回避指示の違いによる日本航空機同士のニアミス事故があったらしい事を俺は思い出した。管制官は907便と958便の両機への指示を、便名を間違えて指示した為に、TCASの回避指示と食い違う状況が起こった。この時、一方はTCASの指示に従って上昇し、もう一方は管制指示に従って降下した為に、あやうく両機は衝突しかけたのだ。このニアミス事故以降、TCASが管制と違う回避指示を出した場合は、パイロットはTCASに従うというルールが定められた。
 管制官は指示する便名を間違えている。そう直感した俺はTCASの指示に従って、急いで操縦輪を手前に引き、402便を上昇させる。急激な動作に機体が、がくんと揺れた。
 俺は上昇を続けながら、NDの表示に目を向ける。赤い正方形が依然、距離を詰めている。……どういう事だ!? TCASの指示に従っているというのに、412便は接近を続けている。この機は未だ雲中を飛行していて相手を視認する事もできないが、確実に向こうはこちらに迫っている。TCASに従えば、距離は離れてゆく筈なのに……!
「成田アプローチ、こちら402便! TCASに従い上昇中! 接近機との距離が縮まっている! このままでは衝突する!」
「TCASの指示で上昇!? まさか……!」
 管制官の言葉に嫌な推測が俺の頭に浮かんだ。ひょっとして、412便はTCASではなく、管制官の間違った指示に従っているのでは……!? 機首を上げると、揚力は増大するが、飛行速度は減速する。もし、412便が上昇を続けていれば、速度を下げて上昇するこの402便は、412便の上昇ルート上にいるのではないか。
 NDの接近機との距離数値が1を切った。もう衝突まで時間がない!
 機首を急角度に下げて降下させるか!? いや、この高度で機首を大きく下げれば、加速速度で海に墜落する危険性が高い!
「宗司くん……!」
 琴音が目を瞑って両手を握り締め、俺の名を叫んだ。
「くそっ、諦めてたまるか!」
 俺はスラストレバーとスピードブレーキレバーを手前に引いた。エンジンの出力が更に落ちると同時に、空気の流れを抑えて揚力を低減させる翼の可動部分の一部・スポイラーを起こす。一か八か、緊急降下するしかない。
 揚力を減殺された機体はそのままの姿勢で、更に急な角度で降下してゆく。それは、ほとんど落下に近いもので、浮力を保ちながら海に向かって落ちているような物だ。当然、その感覚は機内にいても感じられる。隣りでも、琴音が悲鳴をあげている。
 突如、目の前のウインドシールドのすぐ外を、巨大な塊が高速で下から通り過ぎるのが白んだ景色の中で見えた。一瞬だけ捉えられた、まるで大きな鳥のようなそれは、まさしく離陸機であるエアマネジメント412だった。ぎりぎりで衝突を避ける事ができたのだ。
 しかし、402便の危機はまだ去っていなかった。フゥープ、フゥープという警報音が鳴る。
<Terrain,Don't sink,Don't sink>
 急激な降下率と高度に、対地接近警報装置(GPWS)が警告を告げている。俺は急いでスピードブレーキレバーを戻し、フラップレバーを手前に引いて、スラストレバーを目いっぱい押し上げる。操縦輪を手前に引いて揚力を稼ぐ。
 間に合え! 間に合ってくれ!
 だが、俺の祈るような思いとは逆に、操縦輪がカタカタと震え出す。失速の危険性を警告しているのだ。B747‐400の機体も、ガタガタと激しく振動する。
<Pull up,Pull up>
 GPWSが操縦輪を引けと言っている。もう既にやっている。駄目だ、降下速度が速すぎる。低速に抑えていたエンジンの出力が回復して、降下を抑えるまでに加速するには時間が足りない。高度が低すぎたのだ。コンマ数秒の単位で俺の脳内は必死に墜落回避の方法を模索する。とにかくエンジン出力による速度が回復するまでの時間を稼ぐ。それには降下速度を抑えるしかない。つまり、揚力を稼ぐ。イコール、機体の重量を減らす――。
 その時、一つの可能性を浮かべた。ヘタすれば、やり直しも効かないが、もうこれに懸けるしかない。すぐに俺は右腕を上に伸ばし、オーバーヘッドパネルの中央右にあるフューエルジェッチソンのセレクターのツマミを回して、左右を表すLとRのスイッチを押してONにする。前のモニター類の中央、縦に二つ並んだEICAS(アイキャス)の画面に目をやると、みるみる残燃料の数値が減っていた。燃料投棄(フューエルダンプ)をしているのだ。これで機体重量を減らして揚力が稼げれば……!
「宗司……くん……!」
 琴音の声が途切れ途切れに聞こえる。コクピット内は激しい振動とGPWSの警報、警告音声ばかりで、人の声などまともに聞き取れない。俺はフューエル・トゥ・リメインのツマミを持ち、燃料の投棄速度を微調整する。
 持て……持ってくれ……!
 揚力が稼げなければ海に墜落する。だが、ランウェイまでの燃料が不足しても墜落する。
 早く。早く、浮いてくれ……!
 雲を抜けると、目の前に九十九里の海岸が迫っていた。と、その時、機体にふわりと浮き上がるような感触があった。徐々にだが、機体の振動が収まってきている。降下率が下がってきているのだ。重量の減少と機体スピードの加速で揚力が増えている。
 もう安心だというタイミングを狙い、俺は九十九里浜上空に差し掛かる手前でフューエルジェッチソンのを操作を戻し、燃料投棄を中止した。ジャンボジェット機は超低空を飛行してゆく。PFDに目をやると、高度が200フィートを切っていた。こんなに恐ろしく低い高度でジェット機が飛行するなんて、危険極まりない事だ。すぐ下に町並みが広がっている。おそらく地上の人々はパニックになった事だろう。
 それにしても、なんとか墜落は免れたが、燃料がもうほとんどない。着陸復行(ゴーアラウンド)のチャンスも失われてしまった。このまま空港を目指して、一発成功で着陸するしかない。
 そう考えた時、無線の通信が入った。
「エアマネジメント402、こちら成田タワー。さっきはうちの新人が34Lと34Rを取り違えていた為に412便を34Lから離陸させてしまった。申し訳ない。高度がかなり低いが、無事だろうか」
 成田の管制塔からだ。声の感じからして薹(とう)が立っているので、タワー管制室の「上」の人間かもしれない。
「こちらエアマネジメント402、際どいところでしたが、ぎりぎり持ち直しました。これから高度を上げます」
 俺は無線にそう答えて、操縦輪を手前に引いた。途端に機体が激しい振動を起こし、俺は慌てて操縦輪を戻した。なんだ、今のは!?
 ……そうか、燃料タンクの残量が少なすぎて、機首を上げると燃料を吸入口から吸い出せなくなるのか! 燃料が供給できないとエンジンが止まってしまう。だから今、エンジンが悲鳴をあげたのだ。
「駄目だ、上昇できない! このまま行くしかない!」
「何だって!?」
 タワー管制官が声をあげた。
 俺はPFDに目を配りながらランウェイ34Lを目指す。ILS進入に入るまでに衝突危機のトラブルがあった為、正しい進入方向から飛行できていない。滑走路に辿り着くまでに誤差を修正しなくてはならない。間に合うか!?
<Pull up,Pull up>
 GPWSが相変わらず警告を続けていた。正しい降下進入角(グライドスロープ)を大幅に下回る高度で飛んでいる為に、ずっと言い続けているのだ。止まる事はないだろう。
 ゴルフ場のコースが見えてきた辺りで、下のEICAS画面の右隣りにある、車輪の形をしたレバーを引き下ろす。着陸装置(ランディング・ギア)を下ろしているのだ。成田空港周辺はゴルフコースが多い。空港が近い証拠でもある。
 操縦輪を握る左手と、スラストレバーを握る右手に、嫌でも力がこもった。今の俺はよそ見をする余裕も全くないが、おそらく琴音も祈る気持ちで構えているに違いない。
 いよいよ先の方に、新東京国際空港――通称、成田空港が目の前に見えてきた。機体は進入方向から少し斜め右から滑走路に向かって飛行していた。インナーマーカーよりも外側から滑走路に入らざるを得ないようだ。だがここまで来れば、目視も合わせて方向修正ができる。
 目的地が見えた事で、俺は安堵しかけた。だが突然、機体が激しい振動を起こし始めた。
「くそっ、今度は何だ!」
 原因を探ろうと、操縦輪の目の前のディスプレイ郡に目をやる。EICASの表示を見ると、翼の中にある第一と第四の燃料タンクが空になっていた。四発あるエンジンの二発が動かせなくなったのだ。内側の第二、第三の燃料タンクから供給するか!? ……いや、駄目だ。そんな事をすれば燃料が不足して全てのエンジンが止まってしまう。
 二発きりのエンジンによる飛行で速度が落ち、ただでさえ超低空の高度も更に下がってゆく。顔から血の気が引いていきそうだ。
 畜生、持ってくれ。滑走路まで持ってくれ……!
 ウインドシールドの向こうは、すぐ下に地上があるような視界だった。実際は十何メートルはあるかもしれないが、高速で飛行するジャンボ機のコクピットから見る二十メートル以下の高度はそれくらいに感じてしまう。そんな高度で、目の前の景色が凄いスピードで迫ってきて、後ろに駆け抜けてゆくのだ。少しでも気を緩めれば、失神してしまいそうだ。
 そんな時だった。成田空港に隣接するように手前に建っている航空科学博物館が目の前に接近していた。小さな博物館だが、滑走路の離着陸が見られるように展望台が建物から頭を突き出している。駄目だ、思ったよりも高度が低い! 通過できるか――!?
 博物館の展望台頂上がウインドシールドの下にすり抜けていった時、機体に衝撃が走った。俺も琴音も、短い悲鳴をあげる。
「何だ!? 通り抜けられたんじゃないのか!?」
 そんな事をつぶやいている間に、いよいよB747‐400は空港の敷地内に突入した。整備場脇の誘導路の上を通り過ぎてゆく。俺は気を取り直して目の前の景色に集中し、スラストレバーと操縦輪をしっかりと握る。ラダーペダルで垂直尾翼の方向舵を動かして滑走路中心に真っ直ぐになるように機体の向きを修正してゆく。
 揚力を殺さないように通常よりもかなりスピードのある状態で滑走路へと入ったが、いよいよ減速し、車輪(ギア)を接地させる。そうすれば、あとは加速を殺して着陸終了だ。
<フォーティ……サーティ……>
 GPWSが高度を知らせてくれる。これから、フレアと呼ばれる機首上げを行いながら減速させて、ゆっくりと着陸する。フレアを行う事で揚力を保ちつつ速度を減らすのだ。そうして後ろにある主脚を接地させてから、機首を下ろして前脚を接地させる流れだ。
 よし、行くぞ……。
「エアマネジメント402、ギアをしまえ! 前脚がない!」
 タワーの管制官が叫んだ。何だって!?
「展望台に衝突して前脚が吹っ飛んだ! 博物館は休館日で良かったが……とにかくそのまま着陸すれば、機首を滑走路に擦りつけて、負荷で機体が分解する! ギアをしまって、水平姿勢で着陸するんだ!」
 一難去ってまた一難、それも去ったらまた一難……一体、いくつ難が続くんだ!?
 滑走路の34Lと書かれた表記が下に通り過ぎていった。俺は素早く着陸装置レバーを引き上げる。動作音と共に、ギアが機体内部に再び格納された。
 管制官が叫んでいた着陸の意味は、一つしかなかった。ギアのない状態で水平に着陸せよ――それはつまり胴体着陸せよ、という事だ。
 機体の下を、滑走路の中央を示す線が通り抜けてゆく。もう、半分の距離を使い切ってしまった。A滑走路は全長四千メートル。残り二千メートル以内に着陸、停止しなければ、もうこの機はアウトだ。ゴーアラウンドする燃料もない。
 俺はスラストレバーを握りしめ、ゆっくり、ゆっくり、手前に引く。突然スポイラーを立たせたりエンジン逆噴射などすれば、まだ速度の減殺しきれていない状態で胴体が接地し、摩擦熱でタンクの燃料に引火して機体炎上する可能性がある。ギアがないので、当然フレアも行えない。徐々に徐々に、速度と高度を両方減らして、抜群の接地タイミングで機体を下ろさなければならない。それも前後左右、完全に傾き無しの水平姿勢で。
<トゥウェンティ……テン……>
 GPWSが高度をカウントダウンしてゆく。十フィートは約三メートル。もうこれ以下の高度は音声では伝えられない。通常なら、ここまでくればすぐ、ギアが接地しているタイミングだからだ。だが今回のランディングは進入速度が速すぎた為、まだ減速させなければならない。つまり、更に低い高度までの、ぎりぎりの駆け引きが要される。
 手が震えそうだった。必死に震えを抑えてはいたが、極度の緊張感に集中力が続きそうになかった。だが、手が少しでも震えれば、機体の姿勢は傾き、その途端に機首や機尾、左右のエンジンなどを滑走路に擦りつけてしまう。汗という汗が、額から顔を流れ落ちる。呼吸が荒くなる。ああ、意識が遠のきそうだ……。
 駄目だ、本職のパイロットでもできるかどうか分からない、こんな超高難度の技を、初飛行の俺がこなせる訳がない。俺は理性に逆らって、スラストレバーを押し出そうとした。
 ――その時だった。
 スラストレバーを握る俺の右手を、他の誰かの手が覆った。隣りの琴音の手ではない。白い手袋をした手に、紺色の袖が、俺の背後から伸びてスラストレバーを抑えたのだ。
 誰だ……? 須知井さんか? こんな状況で席を立ったというのか……?
「大丈夫だ、悠」
 ふいに後ろから聞こえたその声に、俺は耳を疑った。思わず瞠目する。
「冷静に、落ち着いて神経を集中させるんだ。不安になる事はない。お前なら、きっとできる」
 よく知った声が、俺の背後から聞こえてくる。
「お前しかこの機を、乗っている皆を救う事はできない。だが、お前ならできる。俺はそれを確信している。悠……」
 後ろを振り向く事ができなかった。振り向けば、確実に操縦を誤って滑走路を外れてしまうからだ。目が滲んで、視界が歪みそうだった。
「悠、諦めるな。最後まで――」
 手袋をした手が離れ、俺の背後へとすり抜けていった。
「ああ……。ああ、諦めない。俺は諦めない! 必ず着陸させる!」
 スラストレバーを再び、手前にじりじりと引き寄せる。操縦輪を持つ手はもう、石のようにぴたりと固まっていた。一ミリもぶれる事もない。何故だか自信が持てた。
 NDの高度数値が次々と下がってゆく。五フィート……四フィート……三フィート……ニフィート……。B747‐400の機体は完全な水平姿勢のまま、とうとう一フィート(三十・五センチメートル)高度まで下がった。
 今だ! そう判断した俺は、スラストレバーをアイドル位置まで下げ、その奥のエンジンリバーサーのレバーを引いた。その瞬間に、ゴオオーッという激しいエンジンの音が機内に響く。スポイラーが立ち、エンジンを逆噴射してスピードを減殺する。
 どすん、という音をたて、ダッシュ400の機体は激しい振動と共に滑走路を滑ってゆく。だが、地面との摩擦抵抗がブレーキの役目も担い、徐々に機体の速度は落ちてゆく。
 目の前に、16Rという路面表示がある滑走路の末端が迫っていた。その先はもう、草地とインナーマーカーのアンテナしかない。
 琴音が、リバースレバーを握ったままの俺の手を、上から重ねて握る。祈るようなその手は、今度は間違いなく琴音のものだった。俺もレバーから手を離し、琴音の手をぎゅっと握った。
 やがて、機体の振動が小さくなり、路面の16Rの表示がゆっくりと近づいてきた。タイミングを見計らい、俺はリバースレバーもアイドルの位置まで戻した。機外の激しいエンジン音もしぼむように小さくなり、そして――。

 機械の動作音が、完全に停止した。

 周囲の音が消え失せていた。しばらく固まったまま、俺も琴音も、正面を見たままで止まっていた。目の前には、滑走路の最末端だけがコクピットからわずかに見える。その先は草地が広がっていた。
 俺も琴音も、しばらく状況が掴めないままでいた。ゆっくりと、互いに顔を見合わせる。
「402便、聞こえるか?」
 タワー管制官からの通信が入った。思わず二人して、はっとする。
「無事だろうか。もし、怪我もないようであれば、喜んでいい」
 そう言って、管制官は間を溜めるようにしてから、嬉しそうに言葉を続けた。
「着陸成功だ。おめでとう、よく頑張ってくれた!」
 その言葉を聞いた瞬間、ずっと必死だった俺達は、ようやく自分たちの今の状況を把握する事ができた。琴音が目に涙を溜めて顔を歪める。それは当然、悲しさからのものではなかった。もしかしたら、俺も同じような顔をしていたかもしれない。
「やったあ!」
 躊躇いも、恥じらいもなく、俺達は自然に抱き合っていた。地上に無事に生還できた事、隣りに大切な人が今もこうして残っている事を、実感していた。
 そうして歓喜の瞬間を噛みしめている中、機外では消防車が747‐400の機体に近づいていた。
 日本エアマネジメント航空402便の大活劇に幕を下ろすために――。


   ‐Epilogue‐

「まず初めに断っておくが、この手紙は悠の気持ちを俺が勝手に代弁した物であるという事を理解しておいて欲しい。あいつの気持ちは俺には丸分かりなんだけど、悠の奴、ずーっと何も言わないままで、俺の方がヤキモキして気持ち悪くなったんだよな。ここは俺が一肌脱いでやろうと思った訳さ。別に、素っ裸になるっていう意味じゃないぜ。力を貸してやろうと思った、って意味だぜ。
 そこで、あいつがいい奴だっていう事を示すエピソードをいくつか紹介しよう。俺の家の会社が倒産したっていう話は、琴音も知っているだろ? それで俺の家は、学費だけで手一杯で、修学旅行費が払えなくなったんだよな。でも、修学旅行はやっぱり行きたいだろ。自分でバイトして旅行費を貯めてたんだけど、これが全然、目標額に貯まらない訳さ。そしたらなんと、悠も一緒にバイトしてくれてさ。そして自分の給料を全額、俺の旅行費にあててくれたんだぜ! いい奴だろ!
 他にもエピソードがあってな、あれは一年の時だったな、悠の奴が……」
 俺はそこまで読んで、手紙を破り捨てたくなったが、寸前で抑え、腰を曲げて溜息をついた。そして、病室のベッドで横になっている怜太に抗議した。
「何だよ、これは! ラブレターじゃないじゃないか! しかも、俺の暴露話をつらつらと……!」
「別に、俺の気持ちを書いたラブレターとは、言ってないだろ。俺が代筆したお前のラブレターだよ」
 頭の後ろに両手をやりながら、怜太はにやにやとした表情で平然と言った。その反応に、俺は再び溜息をつく。隣りに立つ琴音にも抗議の目を向ける。
「琴音もあの時、泣いていたじゃないか」
「だって……あの時は宇多くん死んじゃったと思っていたから……」
 琴音も苦笑しながらごまかす。確かに、怜太が死んだと思って読むと、感じるものは違うかもしれないが。
「まったく、これじゃ詐欺だ。大体、銃で撃たれて生きているって、完全に騙しだ。俺の涙を返せよ」
「いや、俺も撃たれたと思って気絶してたしさ。いやあ、アメリカ硬貨を溜めといて良かったぜ。まさか弾の貫通を防いでくれるとはさ。命拾いしたよ」
 怜太を撃った弾丸は、上着の胸ポケットに入れていた財布の中で発見された。何重にもなった硬貨が壁の役割をし、弾丸の回転を殺して、体までの到達を防いだのだ。犯人の自作銃という事もあり、威力が弱めだったというのも、怜太が命を拾った要因の一つでもある。ちなみに、上着を染めた赤い「血糊」の正体は、機内食のケチャップだった。
 病室のドアをノックする音が聞こえた。俺が「どうぞ」と答えると、ドアが横にスライドして開けられた。三十代、四十代ほどのスーツの男が二人立っていた。上着の内ポケットから黒い手帳を出し、中を開いて見せる。二人は警察の人間で、ハイジャック事件の事情聴取で訪れたのだと説明した。俺と琴音は、402便の着陸翌日に既に事情聴取を済ませていたので、この場は退散する事にした。
「じゃあまたな、怜太」
「おう。お前ら、早く付き合えよ」
 人前で余計な事を言うな、と俺は怜太に言って、琴音と病院を出た。

 九月の上旬、外はまだ少し夏の暑さを残していた。俺と琴音は、しばらく何も話さないまま、並んで歩いていた。俺も、おそらく琴音も、何か話そうとはしていたが、どうにも話題のきっかけが掴めなかった。怜太が余計な事をした為に、妙に意識してしまうのだろう。
 が、ふいに、琴音が俺の手を握ってきたので、俺はどきりとして、思わず足を止めた。
「あ、ごめん……。駄目……かな?」
 琴音が、俺の顔を見て、恥ずかしそうに尋ねた。
「いや……駄目じゃ……ない。このままでいい」
「じゃあ……このままで」
 琴音が照れるように笑みを見せた。そして再び、手を繋いで歩道を歩く。何故だか、急に俺は話したくなって、つぶやくように琴音に語りかけた。
「俺、親父に会ったよ。あの胴体着陸の時、一瞬だけ諦めかけた俺を、親父が励ましてくれた」
 琴音が、静かに話す俺の顔を隣りで窺っていた。
「初めて握った本物の操縦輪とスラストレバーの感触は、やっぱり違ったよ。俺、やっぱり飛行機が好きだ。あの時はそんな興奮を感じる余裕もなかったけど、やっぱり飛行機と、空への想いは忘れられない。これからはもっと自分の気持ちに正直になろうと思う。親父のいる、あの空に近づきたいんだ」
「そう言うと思った。私も、パーサーになりたい気持ちは変わっていないもの。宗司くんなら、きっと――」
 琴音が言いかけた時、頭上の空を一機の旅客機が飛んでいるのを見つけ、俺も琴音も空を見上げた。
 今も昔も、これからも。この空ではいつも誰かが飛んでいる。俺も、もう一度空を飛びたい。自分の背にたくさんの人々を乗せて、大空に羽ばたきたいんだ。親父のような操縦士を目指して――。
 澄み渡る空の青を目に湛え、俺はその時、そう、思っていた。
                                   <了>


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 本作品に登場する地名、空港名、会社名、航空機材名などは実在のものを使用していますが、例外として「日本エアマネジメント航空」「MTEエンタープライズ」のみ、創造の産物になります。また、本作品はフィクションです。実在の国家、空港、団体などは、フィクションのストーリーにおける材料として扱わせていただいていますので、本物と混同なさらないよう御注意ください。
 なお、劇中の日本航空機同士のニアミス事故は、2001年に実際にあった静岡県沖上空の日航機907便、958便のニアミス事故を引用。劇中のJAM657便のハイジャック事件は、1999年に起きた羽田空港発・新千歳空港行きの、全日本空輸61便の離陸後に起きたハイジャック事件をモチーフにしていますが、亡くなられた当時の機長の御遺族、関係者等の心情を考慮して、多少のアレンジを加えています。また、実際の羽田空港のセキュリティはこのハイジャック事件を機に、1999年時点で改められています。


執筆 2008年

   <参考資料>

 参考書籍
「カラー版徹底図解 飛行機のしくみ」
     二〇〇八年三月十五日 発行 新星出版社

 参考サイト(2008年当時)
・「飛行機カフェネット」
・「新千歳空港デジタル博物館」
・「クルーズ&航空&趣味のページ」
・「Over G 攻略Wiki」→「飛行の原理」
・「ハワイ123.com」
・「神奈川県立○○○高等学校 修学旅行 in Hawaii」(校名は伏字)
・「Michael's Flight Report」→「家族旅行で行くハワイ」
・「海外も国内も!初心者のための自由旅行への道」
・「ハワイ ガイドブックに載らない情報」
・「電磁波解析・流体解析ソフト開発‐科学技術研究所」
・「マウイノカオイ」
・「お星様とコンピュータ」
・「高積度計算サイト」→「太陽高度(一日の変化)」
・「JAL 日本航空」
・「JALカード 航空豆知識」
・「JAL 航空用語辞典」
・「朝鮮日報」
・「旅スタ」
・「United Airlines Flight attendant history」
・「Welcome to SKY WORLD!」
・「雑学の箱」
・「飛行機を楽しもう!」
・「Boise on the Web アイダホ州ボイジー地域情報」
・「YOMIURI ONLINE」/「空の安全 翼を支える人と技術」
・「Jetliners」/「『GOOD LUCK!』ロケ地アルバム」
・「Project J」
・「Zen's JZX90 REGALIA Homepage」
・「OLD OVAL OFFICE」/「B747-400のコックピット」
・「平松皮膚科医院&音訳」/「音訳の部屋」/「等別な数字の読み方」
・「敦虎瀬の館 Flight Simulator」
・「MARU's Blog」/「【見学】【動画】航空交通管理センター(ATMセンター)
~航空交通気象センター(ATMetC)~福岡で動き出した航空プロジェクト」
・「Googleマップ」
・「パソコン超初心者のためのフライトシミュレーター入門」
・「成田国際空港」
・「Cassiopeia Sweet Days」
・「オワリナキアクム」/「事件録」
・「平和と歴史の旅」/「未知の国北朝鮮・平壌・板門店の旅」
・「KALEIDOSCOPE WORLD」/「韓国・北朝鮮」
・「日本航空機長組合」

 その他、様々なサイト、ブログ参照

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