経歴

経歴

  • 幼少期 / ~保育園 1990年5月 1997年3月

    九州の田舎で次男として生まれました。 3200gと、兄弟の中で1番大きく生まれたそうです。 人見知りで母親の元から離れない大人しい子だったとのことで、当時母は苦労したそうです。 ある程度大きくなってからは、兄と共に屋外で遊びまわり、生傷の絶えない子だったとか。当時の傷の跡がいまでも残っている部位もあります。 もしかすると、幼少期から痛みを我慢して無茶をする子だったのかもしれません。 実家周りは自然で溢れていたので、常に短パンで走り回っていたのを覚えています。 活発なのにどこか引っ込み思案。私にはいまでもそういったところがあるので、きっと生まれつきそのような性格なのかもしれません。

  • 小学校時代 / ミニバスケットボールチーム 1997年4月 2003年3月

    小学生時代は人見知りの幼少期とは打って変わり、明るく活発になりました。 きっかけは兄の影響で、小1からバスケットを始めたから。 たくさんのチームメイトに囲まれ、協調性が育まれたおかげです。 高学年の頃には身長も小学生のわりに大きく、自己主張もできるようになっていたので、何かと物事の中心にいたような気がします。 小学生時代は本当にバスケットしかやっていませんでした。 それなりに強いクラブだったので、地獄のような走り込みから戦術的な練習まで、みっちりと叩き込まれたのですが、思い返すと私の人格形成に大きな影響を与えていたのが、小学校時代のバスケット経験だと感じます。 まだ根性論がギリギリ残っていた時代だったでしょうか。全ては勝つため、弱音を吐くことは許されず弱音を吐こうものならペナルティ(走り込みの追加など)が課されるようなことが日常的でした。 また、私はセンターポジション(スラムダンクでいうところの赤木)についており、攻守ともに要の部分を担っていたので、特に私の弱気な発言に対しては許されませんでした。 弱気になってはいけない。 負けてはならない。 自分より大きな相手でも怯んではいけない。 そう教えられたおかげで、「弱音を吐く=いけないこと」ということを体の芯まで叩き込まれました。 その経験が大人になっても無意識に働いていたのでしょう。 社会人になって、自分のストレスや不安をなかなか吐き出せなかったのも、この思い込みが深く根差していたからだと、生涯を振り返っていて感じました。 ただ、私はこの頃のことを後悔はしていません。 忍耐力や負けん気などは身についたと思いますし、奇跡的な逆転勝利やたくさんの優勝経験など得たものもたくさんあるからです。 私自身に根差してしまっているものはもう仕方ないので、いまではそれを受け入れ、ストレスがたまらないように小さくこまめにガス抜きするということを大切にしています。

  • 中学校時代 / バスケット部 2003年4月 2006年3月

    中学生時代も、変わらずバスケ漬けの毎日でした。 小学生にしては大きかった体も、中学となると周りもぐんと大きくなります。 これまで高さとパワーで勝負していたやり方では通じにくくなる場面が増えてきました。 センターポジションは特に体の接触が激しいポジションなので、接触することのハードさが小学生時代より各段に上がります。 そのため、中学時代では「我慢強さ」を叩き込まれました。特に身体的な痛みに対してですね。 多少の怪我でも「そのくらいで休むな」と休ませてもらえなかったため(いまなら大問題ですが)、 痛くてもこらえなければならない。 怪我をしていても休んではならない。 つらいことから逃げてはいけない。 など、身体からのSOSを外に出すことができなくなっていました。 「もっと要領よくやれば良かったな」といまなら思えるのですが、当時は手を抜けばすぐに怒号が飛んでくる環境だったため、痛みやつらさを耐えながらバスケットに全力で向き合っていました。 「何事も全力でやりすぎる」という癖がついていたんですね。 0か100の白黒思考もこの頃に身についたのだと思います。 この癖も、ずっと後まで無意識に影響していたのでしょう。 社会人になり、鬱症状が現れながらも「こんなことで折れてはいけない」と無理をしてしまったのも、きっとこうした経験が尾を引いているのだと思います。 いまでは、「程々に」ということを覚え、無理しないことの重要さを実感しています。 バスケット以外では、高校進学を意識し始める中学2年くらいから勉強も両立しようと力を入れていました。 小学生時代を含めて、正直それまで全く勉強をしてこなかったので、夏の模試で「いよいよ本格的にマズい」と思ったことがきっかけでした。 そこから塾通いを始め、高校受験まで頑張りました。 上位の高校には届きませんでしたが、第一志望の高校へ無事合格。 当時の私にはかなり高い目標でしたが、「絶対に受かりたい!」と強い想いが勉強へと向かわせ、「突き動かしていた」という表現のほうが近いようにも思います。 やはり努力が実ったときの喜びは格別でした。 「嬉しくて震える」とはこういうことを言うのか、と思うほど。 バスケット以外で初めて、「やればできる」と実感できた出来事でした。

  • 高校生時代 / バイトに明け暮れる日々 2006年4月 2009年3月

    高校時代は、実はバスケットをしませんでした。 原因は腰痛の悪化。もともと腰痛持ちの家系で、私にも見事に遺伝していました。 腰痛自体は小学生時代から付き合っていたのですが、成長期真っ只中の腰痛は本当に辛いものがありました。中学時代は多少の痛みでは休めなかったので、そこでの無理が祟ったこともあったのでしょう。「その痛みを押してまで続けたい」とどうしても思えませんでした。 それまで生活のほとんどがバスケットだったので「普通の高校生活を送りたい」とも思いました。「バイトをしながら、もっと遊びたい」と。 ここで私の9年に及ぶバスケット生活は一旦幕を閉じることになります。 その代わりに、早速バイトも始めました。いくつかのバイトをしましたが、一番学びになったのがピザデリバリーの仕事でした。 というのも、ピザのデリバリーとは実は流れ作業のようなもので、 ①注文を受ける ②ピザを作る ③ピザをカット・仕上げる ④ピザをバッグに詰める ⑤配達者が配達先までの道を暗記し、届ける といった工程があり、この各工程を全て別の人が行います。 ミスなく遂行するための仕組みも整ってはいましたが、やはり間違いは起きるもので、デリバリーの場合、ミスのリカバリーは「作り直して再配達」という形になることがほどんどです。 ミスにより起こる時間や人員などのロスが、店舗型のサービス提供よりも大きいと感じていました。 特に雨の日や祭事の日など忙しい日に限って起こるので、ミスを無くすための取り組みを通して、正確な連携や情報の即時共有、忙しくても一言を添えることの重要性などを学ぶことができました。 これは社会人になっても生きているなと思います。 そして、高校時代には他にダンスを始めました。 俗にいうヒップホップダンスというものです。 入学してからはバイトばかりしていたので、「何か打ち込めるモノが欲しい」と自然に思うようになりました。当時は気付きませんでしたが、やはり私は昔から「新しいことに打ち込むことで充実感を感じるタイプ」だったようです。 そんな中、友達が踊っているのを見て自分もやりたくなり、スクールに通い始めてみたことがきっかけです。腰痛の心配もあったので、最初は少しずつ。 でもその後どっぷりとハマることになります。

  • 大学生時代 / ダンスサークル 2009年4月 2013年3月

    大学は実家からほど近い、地元では中堅どころの大学に進みました。 高校受験と同様、どの大学に行きたいかの目標が定まるまで全く勉強はしておらずバイトに明け暮れていたため、高3夏からの追い込みでなんとか合格することができました。 大学での4年間は「ダンス」一辺倒でした。 受験を終え、時間ができたことでより多くダンスに打ち込むうちに本気でハマってしまいました。 ダンスサークルにも入り、そこで出会う仲間やさらにその仲間を通じて人間関係が広がっていくことが嬉しかった。 部活でも仕事でもそうですが、同じ志を持って同じ目標に向かって打ち込んだ仲間というのは、やはり特別な絆が生まれるように思います。 昼は学校、夕方からバイト、夜中から練習ということをほぼ毎日続けていました。 寝るのは毎日明け方でしたが、それでも楽しかった。 ビートの大小、質感、うねり感など、音に合わせてどう体を使うのか。 そして動きと音がうまくハマったときの快感。いつまでも踊っていたいと思わせる魅力がダンスにはありました。 でもいつまでも踊ってばかりはいられず、あっという間に就活の時期。 私は、20数年九州で育ったので、就職のタイミングで地元を出たいと思っていました。 上京し、もっと大きな世界で生きてみたかったのです。 そして東京で勤めることを前提に就職活動。 無事に内定先も決まり、卒業後はとある食品会社へ営業として入社する予定でした。 しかし、入社も数か月後に控えたある日、初日の出社の際に提出してほしいと内定先より雇用契約書が届きました。 その雇用条件をみて愕然としました。 もともと知らされていた初任給額と金額が違うのです。 募集時にでていた金額を改めて確認しましたが、違う。 金額としてはそこまで大きなものではありませんでしたが、一番重要な給与面がしっかり表記されず、おざなりになっていることに強い不信感を覚えました。 結果、その会社への入社は辞退しました。 どうしてもその不信感を払拭できず、働く姿をイメージできなくなったためです。 就職先がないまま卒業することになったうえ、就職市場は買い手市場。 多少の不安はありましたが「自分が納得した道に進む」と決意。 卒業してすぐ、九州を出て上京しました。

  • 上京/進路を見つめる / アルバイト 2013年4月 2014年10月

    上京したのはいいものの、東京では人脈もなく、とりあえずアルバイトをするしかなかったので週5‐6で飲食店でアルバイトをしていました。 東京での新生活は毎日が新鮮で、最初の半年は本当にあっという間に過ぎていきました。 アルバイトをしながらも再度自分の進みたい道をじっくりと考える日々。 とはいえ、最初は自分のやりたいことが見つからず良く分からないまま模索していました。 自分が楽しいと思うこと、嬉しいと感じることを軸として定めていきたい。 そう考えていた中でヒントになったのはやはりダンスでした。 初めはかっこよく踊れるようになりたい。と思って始めたダンスでしたが、ダンスを続ける中で、自分は音に合わせて振付を作ったり、構成を考えることも好きなのだと気が付きました。 そういったことを振り返っているうち、「アイデアを形にする仕事」に就きたいと思うように。 しかし、現時点で特別なスキルは無し。いくら振付を作れてもデザインや設計ができるわけではないため、職種は自然と営業職に絞られました。 しかも「アイデアを形にする」という仕事は世の中にたくさんあり、最初のうちはどの業界がいいのだろうかと、とにかく広く業界を見ていたことを覚えています。 そうして「営業しながら、クリエイティブも担える仕事」の観点で見ているうちに直感したのが広告業界でした。 音に合わせて自由に考え、形作っていけるダンスと、 「クライアントの課題に自由な発想で提案し、固めていく」という広告の仕事は共通点が多いのではないか。それならば自分の感覚も活かせるのではないか、と感じ、考えれば考えるほどワクワクする自分がいました。 そうして、就職活動をスタート。 最終的には3社の内定をいただくことができ、「自分が携わったモノを手元で感じたい」と思ったことが決め手になり、当時広告の中心になりつつあったWEB広告ではなく、紙媒体に特化した広告代理店に入社することに。 ちなみに、就活前に感じていたワクワク感に間違いはありませんでした。 イメージと実務に大きな相違はなく、やりがいをもって取り組むことができたと思います。 「産みの苦しみ」も感じることがありましたが、ダンスの振付が浮かばずもがいた経験が大きく活きた場面もあります。自分の直観を信じてよかったと思っています。

  • 社会人デビュー 広告代理店に入社 / 営業部 課長 2014年10月 2019年2月

    初めての社会人。同級生とは1年半遅れてのスタートでした。 販促の企画提案や、制作物のディレクションなどがメイン業務。取り扱う商材は主にチラシやパンフレット、POPや看板などです。 ありがたいことに不動産、食品、日用品、アルコール、飲料、スポーツクラブなど本当に様々な業界を担当・経験させていただきました。 入社一年目は電話営業による新規顧客開拓がメインで、月に1000件ほど電話をかけていました。 電話営業というのはある意味単純作業なのでやる気を失いがちなのですが、当時の私は早く制作の仕事がしたくて、ガムシャラに頑張ることができました。 おかげで1年目から多数の案件に携わらせていただくことができました。 当時の会社は、クライアントとデザイナーの間に入り、広告物の進行管理をするディレクション業務を営業が担当するスタイルでした。 一年目はわからないことや失敗も多く、落ち込むこともありましたが、楽しかった。 できることが増えていく喜びを感じることができていたと思います。 初めて自分が手がけた広告物が手元に届いたときには、やはりこみ上げるものがありました。 これが世の中に出回るのかと思うと少し恐ろしさもありましたが、同時に「もっと多くの人の心を動かすものを作りたい」とやる気がでたことを覚えています。 2年目はより大きな案件や新卒採用のサポートも任せていただけるようになったり、3年目には課長として自分のチームも持たせていただきました。 若いうちから様々な経験をさせていただき、恵まれたキャリアを積むことができたなと思います。 ただ気付けば30歳も目前。 仕事にやりがいもあり、良い方々に恵まれている実感もありましたが、1年目のときに感じた「もっと多くの人の心を動かすものを作りたい」という気持ちがずっと心の隅に残っていました。 「当時は小さな会社だったので、全国的に展開されるような案件はまず入ってこない」 「このままこの会社にいていいのだろうか?」 と、いただいている立場のありがたさと、新しい環境へ挑戦したい気持ちとの狭間で揺れていました。 しかし最終的には 「もっとキャリアアップして、大きな案件を手掛けたい」 「もっと良い待遇を目指したい」 と思い至り、5年目の春に転職を決意。

  • 2社目 広告代理店 / アカウントプランナー 主任 2019年3月 2020年6月

    2社目は経験を活かして、より大きなクライアントを担当できる広告代理店に営業として入社しました。 「よし、ここで実績作ってさらに良い会社に転職するぞ!」 そんな意気込みを持って入社しましたが、自分の得意不得意を理解できておらず、日に日に病んで体調を崩していきました。 入社3か月後、めちゃくちゃ忙しい部署に異動になりました。 社内でトップクラスの数字出してるチームだしクライアントも大きなところだったので、最初は「期待されてるんだ…!」と少し嬉しかったことを覚えています。 ただ、本当に忙しかった。チーム全員、こなすタスク量が半端なかった。 それゆえに、余裕がない人たちばかりでした。 いかに人に業務をパスするかに躍起になっていたり、無茶なパス受けた人がキレていたりが日常茶飯事でした。 少しでも非効率なMTGやろうものなら罵声飛んでくることも。上司が特にそんな人でした。 そんなことがあるたび、「しっかり進められない自分の実力不足だ」と必要以上に自分を卑下してしまっていました。 そんなメンタルだと、仕事が前向きに進むわけもなく…負の連鎖ですね。 悪いループにはまってしまっていたと思います。 また、ほぼ毎日朝の9時から終電近くまで働いていたので、日に日に精神が摩耗していくのを感じていました。 こなしてもこなしても終わりがみえない毎日の連続で、「なんのために働いてるんだっけ?」「生きるとは」とか無意識に考えるようになってきて、無力感だけが募っていきました。 そうしたことが続くと、夜に寝付けなくなってきました。 また明日も何か言われるんじゃないだろうか。周りがギスギスしだすんじゃないか。 そう思うたびにどんどん眠れなくなり、睡眠薬を処方してもらう時期もありました。いわゆるうつ症状ですね。 それでも当時は「こんなことで折れてはいけない」と頑張ろうとしていました。 心のSOSに気付いてあげられなかったんです。 ついには休みの日なのに無気力でなにもできないまま土日が終わる、なんてことも頻出し始めました。好きだったジム通いや恋人と会う事も楽しめなくなった。 人生の楽しみが少しずつ剥がれていくのを感じました。 「このままだと壊れてしまう」 やっと気付くことができたのは1年以上経ってからでした。

  • 退職を決意!コロナ禍での転職 / 無所属 2020年7月 2020年12月

    聞いたところによると、このチームは人の入れ替わりがとにかく激しくて、みな激務でメンタルやられてやめていくのだとか。 当時の上司はもう10年近くこのチームを担当しているらしく、10年の間に病んで辞めていった人たちが相当数いるのに、僕たちが声を上げても現状を変えようとしない態度に絶望しました。 「いまが大変なだけじゃなくて、この先もずっとこうなんだ。」 そう気づいてから「まだギリギリ20代のうちにこんな会社逃げ出すべきなんじゃないか」と考えるようになりました。 「仕事って、もっと良いサイクルの中でするんじゃなかったっけ」 そう気付いてからの決断は早かった。 「いま抱えている案件がひと段落する2か月後の月末で退職します」と翌日に伝えました。 どこか後ろめたさがあったのでしょうか。すごく緊張したし、怖かった。 伝えたあと、「やっと言えた…」と心がすごく楽になったことを覚えています。 次の仕事も決まっていないうえ、当時はコロナ流行が始まり初めての緊急事態宣言が出された頃。 先行きの不安ももちろんありましたが、それよりも大きかったのは「あと少しで解放されるんだ」という気持ち。 そこから退職日までは本当に淡々と無難にこなし、無事に退職することができました。 メンタル上、すぐに転職活動をできる状態ではなかったので、しばらく自分のペースで生活することを大切にしていました。 日付が変わる前に寝る。 朝はゆっくり起きて朝日を浴びる。 しっかりご飯を食べて、散歩をしてみる。 季節の移ろいを感じてみる。 少し遠出してみる。 しばらくできなかった筋トレを再開してみる。 当たり前のことを噛み締めるようにして、少しずつ自分を取り戻していくことができました。 「この当たり前を、日常的に大切にしたい」 素直にそう思えたとき、次の仕事では絶対に激務になってはいけない。 それが二度目の転職における最重要事項でした。 いわゆる「ライフワークバランスを重視したい」ということなのですが、転職面接の場面でそのワードを出すのはあまり良くないのだそう。 そのためスキルアップを軸に、「別分野の広告を学びたい」という志望動機をベースに転職理由を整理し、現職に内定をいただくことができました。

  • 再就職までの経済事情 / ウーバーイーツ 2020年2月 2020年12月

    退職から再就職までは約半年間。 当時はコロナ禍真っ只中で実際に金銭面の不安は大きかったですが、しばらく休むつもりでいたので、退職してすぐにハローワークへ失業給付金の申請に行きました。 自己都合の退職だったので、通常なら支給開始まで3か月ほどかかる(給付制限)のですが、病院の先生からの診断書を提出することで、即時の支給にしていただきました。 支給は半年間受けられるので、その期間は大きな不安なく生活することができました。 日本はこのあたりの制度がしっかりしているので、いよいよ限界で退職を選んだとしても何とかなるのだなと身をもって実感しました。 知っておくという事が重要。いざという時に踏み出す勇気になりますからね。 2か月ほどゆっくり休息し、少しずつ回復して外出もできるようになってきた頃に、働くことへのリハビリも兼ねてウーバーイーツの配達の仕事を始めました。 これが意外に楽しく、稼働時間は自分の都合に合わせて決められるのでしっかり睡眠をとることができていましたし、ゲーム的要素(〇件配達すると●●円給与アップ!など)もあったため、自然と達成に向けたモチベーションも形成されていきました。 しかも、自転車も漕ぎまくるのでいい運動になり、セロトニン効果で気持ちもどんどん前向きになっていったように思います。 やはり睡眠と運動と太陽の光は最強。メンタル維持のコツも体で実感することができていました。 また、当時はコロナ流行当初のデリバリー需要が高い時期であり、思っていたよりも稼ぐことができました。これにより助かったのが税金関係。 これまで社会保険により会社が半分負担してくれていた健康保険や年金などが、全額自己負担になり重くのしかかっていました。(届いた振込用紙を初めて見たときは愕然としました) できるだけ貯金は崩したくなかったので、ウーバーイーツの収入には助けられましたね。 本当にありがたかった。 と、こんな感じで休職期間中を乗り越えることができたのですが、コロナ禍でいつどうなるか分からないという世界情勢もあり、正直常に不安は拭えませんでした。 ただ、そんな中でも感じていたのは「あの頃よりマシ」。 「辞めなければよかった」とは一度も思いませんでした。 辞めて正解だったといまでもつくづく感じています。

  • 現在 不動産業界(3社目) / マーケティング課 主任 2021年1月 現在

    そういったことを経て、現在は不動産関連の会社でマーケティングの仕事をしています。 不動産というこれまでの業種とは異なる会社ですが、これまでの広告の経験を活かし、事業者側として広告の依頼をする立場へのキャリアチェンジをしました。 メイン業務は、WEB広告を通じ集客・問い合わせの獲得をすること。 限られた広告予算をいかに有効に使い、効果を最大化させるかということに注力しています。 その他、PRの領域も一部担当しております。 PRでは、メディアに自社やサービスの事を取り上げてもらうためのネタ作りが主な内容で、「どうしたらニュースやWEBメディアに載るような話題性・報道価値を作れるか」という観点で取り組んでいます。 まだ小さな会社ですが、少しずつメディアに取り上げられる機会も増え、先日はビジネス・経済の某有名報道番組でもニュースとして取り上げていただきました。 また、社内制作物(サイト、会社案内などの制作)も担当しています。 これまで紙・WEB問わず制作物を手がけることが多かったので、いまの会社でもそのスキルを活かすことができていると思います。 そして、最も重要視していた「ワークライフバランス」の部分。 結論、毎月の残業時間は10時間以下に抑えられています。 メンタルブレイクして、時間の価値を再認識しました。 自分にはやりたいことがたくさんある。無駄な時間なんて1秒も無い。 そう意識し始めると、不必要な会議には出ない、無理なスケジュールで引き受けないなどを自然と徹底できるようになり、残業をしない働き方ができるようになっていきました。 「自分軸を大切にする」ということですね。 昔の自分にはできなかったことが徹底できるようになったのは進歩だと自分でも感じます。 こうして捻出できた時間はメンタルの勉強や資格取得に充てたり、ココナラでのお仕事に充てることができるようになりました。 悩み相談もやりたかったことのひとつ。自分の経験を生かして、私だから寄り添えることがきっとあると思うのです。 仕事で病む人が一人でも減ることを願ってこれからも活動していきたいと思っています。

受賞歴・執筆歴・講演歴

  • 受賞

    よく食べ、よく動き、よく寝る!最高のライフハック! 2020年6月

  • 受賞

    日光浴は好循環の入り口!セロトニンを実感する 2020年6月

  • 受賞

    幸せホルモン分泌にスクワットがおすすめ!意外と縄跳びも◎ 2020年6月

  • 受賞

    どんな人ともうまくやらなきゃ という考えを手放す事で楽になる 2020年6月

  • 受賞

    合わない人には「こんだけ失礼だと病むことなさそう」と思おう。 2022年3月

  • 受賞

    睡眠だけは怠ったらダメ。眠れないのは危険信号。 2019年10月

  • 受賞

    毎日、ボーっとする時間も必要。頭の雑音が減ります。 2021年3月

  • 受賞

    1日の終わりに3goodthings。良いマインドで寝よう。 2022年5月

  • 受賞

    小さな楽しみをできるだけたくさん作ろう。病みにくくなります。 2020年6月

  • 受賞

    ツラい時は五感を刺激しよう。全身マッサージは特におすすめ! 2021年3月

  • 受賞

    心と体は繋がっている。どちらかが壊れるともう片方も壊れる。 2020年1月

  • 受賞

    手放す力。ま、いっかと思えるだけでグンと楽になる。 2021年6月

  • 受賞

    仕事は手段。健康より大切にする価値があるか見極めよう。 2020年1月

  • 受賞

    どうなりたいか も大事ですが、どう生きたいか にも焦点を。 2021年6月

  • 受賞

    読書は大事。知識が増える→試したくなる の作用でメンタル安定 2020年3月

  • 受賞

    運動は絶大な効果!散歩や自転車でもOK。少しずつでも習慣を。 2022年1月

  • 受賞

    悩みは書き出して整理しよう!可視化することが大事。 2023年3月

  • 受賞

    余裕があれば、寝具に拘ろう。良い睡眠は良いメンタルに直結。 2021年1月

  • 受賞

    サウナは悩む思考を緩和させ、入眠効果も!思い詰めてる時に良い 2023年3月

  • 受賞

    朝の日光の効果を侮るなかれ。毎朝カーテンを開ける習慣を。 2020年6月