地理風水 春日山城

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 上杉謙信が城を築いた春日山城。まさにここも風水の地であった。しかし今に至ってはトンネルに河川改修・港湾改修しすぎて風水の効果は移動したほか、トンネルは伊達家で開設した通りどてっばらに穴空く兆し、ま、よしたほうがいいだろう。その証拠に上越には上杉謙信ゆかりの遺品はろくなものがない。岡山の方から謙信の刀を買おうとしたが市民の反対で買えなかった。民度が熟さなくなった。土木改修工事が民心に与える効果として、韓国などは陰謀論にもつながる効果だ。韓国の日本軍による風水の妨害如何についてはまた後で述べていく。当時を推定してみれば、金局、風地観になる。
 ところで上杉謙信にはいろいろと謎が多い。もっともすべての謎を解く簡単な説明が上杉謙信女説だ。大河ドラマでも知れた井伊直虎、岩村城のおつやの方、二階堂阿南、立花誾千代、足利氏姫、妙印尼など女性の城主は存在していた。ぜひ、上杉謙信をムーラン、ジャンヌガルクよりぷりっぷりな大名としてドラマを作り直してほしい。
 結局、上杉謙信はこの風水に従い、社会正義を貫き私利私欲で領地拡大はしなかった。しかしその徳によって景勝は会津を得て北の防護を鉄壁に固めたほか、関ヶ原では石田三成と組んで徳川軍を二つに分けた。関ヶ原で敗北して30万石の小大名と化したが、戊辰戦争では官軍として返り咲くことになる。八卦はすべてを語る、歴史のわき役として「風地観」である。戦も備えて後にあるものとして、戦争前には紳士的に交渉を重ねることを旨としていた。戦場においても至って紳士的で軍が対峙していくさをしていた。
 伊達政宗のように泉の城の婚礼の時に攻め入って皆殺しにしたㇼ、武田信玄の諏訪攻略のような、だましの戦法をしなかった。
 直江や景勝に謙信の理念が十分に伝わっていたこと、そして風水もいくばくか貢献したかと推測する。なお景勝・直江兼続の生まれは坂戸城・長岡市であり、長岡市は山本五十六の生誕地、米百俵の地でもある。近隣には柏崎市に田中角栄氏がおられた。(田布施地区も昔、陶氏が朝鮮から渡来して入植した土地と聞いたが、近隣光市と、伊藤博文氏、佐藤栄作氏、岸信介氏などの総理や著名政治家を輩出している。外国から移民するほど意を決してくるものはまた先端の風水の知識を持っていたというべきだろう。しかし、陶氏の風水も、毛利氏にはかなわなかった。)
 以後、上杉家にはケネディーが引用したなせばなるの上杉鷹山(宮崎県出身)などの英才をを輩出しながら家を続けていくことになる。しかし幕末に続く英才の風水は米沢にあるので、ここはまた後程解題する。

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