二度の大病をしても生きている。
世間でいわれる闘病生活をしても生き残っている。 しかし、その闘病も自分では闘った、勝ったという意識は希薄で淡々としていた。
思いだされるのは、病院の廊下の端を手すりを頼りに歩いている自分の姿だ。 絶対に直してやるぞという決意があるわけでもなく淡々と毎日を過ごしていた。
不思議なのは、おなかがむうっとして気持ち悪いのに、何か食べれるものはないか、
これはどうかと探し続けていたことだ。
うなだれた心を励ます訳でもなく、身体は生き抜く準備を黙々と進めていた。
奇跡かどうかわからないが、今こうして生きていることは運がいいとしか言いようがない。
病気をして急に死という文字が近づいてきた。
でも、自分は死なないと頭のどこかでずっと思っていた。
私にとって、「私の身体」は特別なんだと思う。
その気持ちは今でも続いている。
自分は死ないと思っているから、簡単に「死を意識したから死ぬことは怖くない」と
自分にも他人にも言い聞かせている。
でもここでいう「怖さ」の意味はあいまいになっている。
怖くはないが、死にたくないと思っている。
でも死ぬことがどんなことか、実は全然わかっていない。
死んだらどこに行くのか、死ぬときに痛みはあるのか、「あの世」はあるのか 死を想像しても確証は持てない。
書籍を通じた知識はある。人のいう死の知識も随分あるつもりだ。
でも今だに明確に死を頭の中に絵にすることはできないでいる。
見えた時が「死の世界」への門が開いた瞬間かもしれない。
希望をもたずに淡々と生きて欲しい。
希望は希な望みと書く。希はのぞみと読まれ、望ものぞみと発音される。
のぞみを二重に積んだ希望は自分の都合だ。自分の思い込みだ。
それよりも起きた出来事に対し淡々と過ごしていきたい。
自分が考える今一番いい方法で、今一番したいことを自分の居場所で起こしていきたい。
一隅を照らすという意味は、いわゆる世の中のひとつの隅っこの、
日の当たりにくい暗いところを照らし出すというようなことではない。
もちろん、ローソクや懐中電灯やらで照らすということではない。
一隅は、片隅ではなくて「居るところ」という意味だ。
だから、その場において必要な光を自ら発するようになれというのが
一隅を照らすということの本当に意味になる。
つまりその場、その状況において役立つ人間、欠くことのできない人間であれということになる。
( 比叡山第二五三世天台座王 山田恵諦著「一隅を照らす」から )
自分の居場所は自分でつくる
その場において必要な光を自ら発するようになりたい。