「人としてどうなんだ」を問う映画

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コラム
佐藤健、阿部寛、清原果耶、物語の主要人物がスクリーンのなかでくすんでいた。

映画「護られなかった者たちへ」

エンターティメントというより、ドキュメンタリーに近い泥の匂いと鉛色の空を感じる映画だった。

餓死という不可解な連続殺人事件を追う、刑事役の阿部寛は、他作品で見せた歯切れのよさがない。常に顔色は悪く最後まで震災の影を引きずっている。佐藤健は画面のなかで静かに怒りを押し殺す目をしている。いつもなら一滴の清涼感となるであろう清原果耶も眩しい輝きを封じていた。三人とも尖った憤りを重く隠している。

唯一救いとなるのが、佐藤健、清原果耶が演じる利根と幹子が漁港を二人乗りの自転車で走るシーンだった。二人の破顔が見れたのはその場面だけだ。倍賞美津子の遠島けいに、笑顔でいなさいと言われて振りむく利根の笑顔はまだ慣れていなかった。笑うことに罪悪感を感じているようだった。


決して、後味のいい物語ではない。それは、観客だけでなく役者にも滲み出ているようだ。

それは、まだこの物語が終わっていないからだ。

続きは最後に伝えられた、円山幹子のSNSへの投稿に現れている。

生活保護行政の理不尽さ、所轄官庁である福祉保険事務所の対応など、一方方向に向ける怒りは、この物語を見れば誰もが持つ。それでも幹子は、「タスケテ」の声をあげ続けて欲しい、と訴えている。そして誰もが、その「タスケテ」の声に耳を澄まして欲しい、と訴えている。

その声を聞くのは誰でもいい。           
誰もが聞かなくちゃいけない。

立場もあることも知っている。           
自分の生活があるのも勿論分っている。
それでも、誰もが聞かなくちゃいけない。

それは、人としてどうなんだ? という話だ。

一人助けたところでどうなんだ?世の中変わるのか?という思いもある。

しかし、釈尊は言っている。

「お前たちのするべきことは、目の前の矢が刺さって苦しむ人の、その矢を抜いてあげることではないか。けっしてその矢が、どこから飛んできたかを詮索することではないのだ」

行政や制度を批判する、そういう役割を担う人も必要だ。でも、そのパワーや能力が無い自分でも出来ることはある。

「タスケテ」の声に耳を澄ますことだ。


「護られなかった者たち」は映画の中だけじゃない。
生活保護という貧困テーマだけじゃない。

感染者が減少して、自宅療養者が犠牲になったコロナ感染はもう過去の出来事にされつつある。経済、観光、飲食支援、そして新内閣の誕生と、世の中は前を向き始めた。そして一方では、SDGsを謳いあげ遠い国の取り組みを伝えている。まだそこに「護られていない感染者」がいるのに。SDGsは、「誰も置き去りにしない」と訴えているのに。

この先進国の日本で、救急車が瀕死の感染者を運べないとは想像していなかった。生活保護申請を却下され、餓死した困窮者とどこが違うのか?
ここにも、「護られなかった者たち」がいた。

護られた者たちは、「最悪は・・・」と軽快に言葉を吐いていた。「医療崩壊」という造語もつくられた。
でも、自宅療養者が犠牲になったころから、この「医療崩壊」という言葉が急に聞かれなくなった。空想が現実と重なると思考が止まってしまうのか。

そして新たな「最悪」を創り、最悪は来ない、と今でも寝ぼけている。発した「最悪」が来ても、その上がまだある、と密かに次の「最悪」を用意する。そして、最後は「神の見えざる手」を心の拠りどころとする。

さあ、これからどうするか

「成熟経済は、豊かさをうまく分かちあえていない」と叫ぶのか。

そういう役割を担う学者も必要だ。

そして、「護られなかった者たちへ」という映画作品という形で多くの人に知ってもらう、改めて考えてもらう、巻き込まれてもらうことも必要だ。
私は、この映画をそんな位置づけで捉えている。


根本には、「人としてどうなんだ?」がある。

私は、この言葉を忘れない。
訴えると同時に、自分にも言い聞かせている。


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