私:2010年製作の中国ドラマ『孔子(邦題:恕の人 -孔子伝-)』を簡単に紹介してくれる?
ChatGPT:2010年に製作された中国ドラマ『孔子(邦題:恕の人 -孔子伝-)』は、古代中国の思想家であり教育者である孔子の生涯を描いた作品です。このドラマは孔子の哲学、特に「仁」と「恕」の概念に焦点を当てています。孔子の人生、彼の教え、そして彼の思想がいかに後の時代に大きな影響を与えたかを描いています。
このドラマは、孔子の若き日の苦労から始まり、彼が思想家としての地位を築く過程を描きます。彼の教えがどのようにして彼の弟子たちに受け継がれ、やがては中国全土に広まっていったかを追います。孔子と彼の弟子たちの間の関係や、当時の中国社会の複雑な政治的背景も描かれています。
視覚的にも豪華で、当時の中国の衣装や風俗が再現されている点も特徴的です。ドラマは、孔子の教えの普遍性と、その教えが現代にもたらす意味を視聴者に問いかける作品となっています。
※補足:孔子の「生誕2565周年(途方もない数字だ)」を記念して佛山伝媒集団公司が製作した作品。総指揮は田卓、監督は韩刚。赵文瑄、罗嘉良、赵君、徐百卉などが主演。物語はアメリカで学んでいた女子学生、梅燕が孔子に関する博士論文を完成させるために中国に帰国する場面から始まる。その後、孔子の生涯と彼の主要な思想を追いながら、時折、梅燕の周辺で起きる出来事や孔子に関する解説や見解が入る。
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彼の表情は実に複雑だった。それは当然である。私が彼と同じように二千五百年先の世界に飛ばれ、自分の人生を再現した物語を革新的な技術で追体験したとしたら(しかもそれがまだ自分にとって見知らぬ未来であるとしたら)、それを到底現実と認める訳にはいかないだろう!彼は『恕の人 -孔子伝-』の最終話のエンドロールが終わって黒くなった画面をただ呆然と眺めながら、しばらく何も言わなかった──
──彼との遭遇は2024年4月28日午前10時40分に訪れた。私はその時、上海の黄浦路を人民広場駅に向かって歩いていた。この道は上海の浦西地区の中心地にあり、1930年代の老上海時代からレストラン街として栄えて来た場所である。南京西路と繋がる交差点の先には広大な人民広場が眼前に開け、そのすぐ脇には歴史的建造物の性質も持つ老舗ホテル、豪壮な国際飯店がある。
この道の周辺はコロナ禍後にすっかり再開発が進んでしまって数年前の古き良き時代の面影はほとんどない。それにも関わらず、この道だけは旧市街の気配が残る比較的古い建物が煩雑に立ち並んでおり、つい最近はこの道にある料理店が連続ドラマの舞台になった事で外地人の観光客で賑わっていた。そうした趣のある味わいが香るその道に、長い髭を生やした壮年の凛々しい男がひとりぽつりと、居場所なさげに突っ立っていたのである。
私は作家であるにも関わらず、当時の感覚を正確に言葉として表現する事が出来ない。ただ、私にははっきりと分かったのである。『カラマーゾフの兄弟』に登場する大審問官の話と同じように、私は「ただ分かった」のだ。その古代中国の衣装をまとった"コスプレ男"が「仲尼」であると。これはもう彼らの時代から言われている通り、天意がそうさせたとしか言いようがない。
「先生!」と私が叫んだ時、仲尼──すなわち、後世の私たちが「孔子」と呼ぶその偉大な思想家であり教育家のその人──が、私の顔を見定めた。彼の目にはどうにか状況を理解しようと努める激しい戸惑いの色が浮かんでいたが、それと同時に、私の魂を真っすぐに射貫くような静かで力強い光も見受けられた。その彼の純然たる瞳を見た瞬間、私は思わずたじろいでしまった。しかし、それも一瞬のことに過ぎなかった。
男は左手と右手を組み合わせて胸の前に突き出し、ゆっくりと私に頭を下げた。これは紛れもなく、"拱手"と呼ばれる春秋戦国時代の敬礼であった。周囲の無数の通行人が笑いながら、ある者は忌々しそうな顔で通り過ぎて、またある者は知人同士で「何かのイベント?」と話し合い、またある者は「遵命!」などと笑いながら野次を飛ばした。彼の姿を見て全身の毛という毛が逆立つほど心を震わせていた人間は、当然ながら私だけであった。私もまた彼と同じように手を合わせて、ゆっくりと頭を下げた。
これが彼との初めての出会いだったが、しばらくはお互いに訳の分からない時間が続いた。私は彼に対してどのように我々の事を説明すれば良いのかさっぱり分からなかったし、彼もまた私に自分が置かれた状況について何を聞けば良いかすら分からなかったのだ。だが幸いにも、我々は言語という道具を用いて思考を行い、それによって人間や世界の在り方を解明しようとする、論理学者同士であった。論理学に通じた人間はどのような変化が生じても、それを思考によってばらばらに分解し、その事物事象の内部構造である本質を速やかに理解する事ができる。そのような訳で、混乱と興奮の状態で一緒に歩いていたのは、せいぜい15分程度だったかもしれない。二人で青島路まで歩いて、とにかく私が彼を自宅まで誘導した時、彼は既に物事の多くを理解していたし、私も彼に何を伝えるべきかを理解していた。
都合の良い事に(これも天意としか言うしかない)、私たちの間に言語の壁は存在しなかった。そこにあるのは時代の壁だけであった。私は1時間ほど、ほとんど一方的に彼に向けて、現代社会における技術の水準、文化の在り方、社会の仕組み、またここに至るまでの大雑把な歴史の流れと国際的な情勢を説明した。彼はじっと私を見ながら、静かに耳を傾けていた。その説明の最後に、私は熱っぽくなっていたばかりに自己紹介をし忘れていた事を急に思い出して、自分を「子佑」とでも呼んで欲しいとお願いした。また、私はこうも付け加えた。
子佑:総じて、私たちの今の状況は極めて奇妙です!ですが、"君子固窮、小人窮斯濫矣(君子も窮地に陥る事があるが、小人のように窮地になった途端に冷静さをすっかり失ってしまうような事はない)"の精神で、この奇妙な状況と向き合おうじゃありませんか。
これを聞いた彼はとても感心した様子で、「それはとても意義のあるお言葉です。先生は世の中に対する深い洞察をお持ちなのですね。」と言った。私は思わず天を仰ぐように「あなたの言葉ですよ」と大笑いをして言った。またすぐに私は「先生は私ではなく、あなたです」とも言った。しかし、彼は頑固に「私があなたの世界でどう評価されていようと、今の私にとってあなたは先生です。今の私の知識だけでは、この世界の理解には遥かに及びません。私はあなたに教えを乞わねばならず、それ故にあなたを先生とお呼びしなければなりません」と言った。
私は彼から先生と呼ばれる毎に、中国六千年の歴史が刻まれた棒でしこたま体中を殴られれるような恐縮極まる想いに駆られたので、何とか解決策を見つけ出そうと、自国の日本にある便利な敬称の方法を持ち出した。私はお互いを「子佑さん」「仲尼さん」と呼び合おうと提案をしたのだ。この「名前+san」は極めて簡単な法則性でありながら、お互いに一定の礼儀を示すと共に一定の親しみも示せる、一種の革命的な関係的な表現である。近代日本の論理学的な発明の中でも特に実用性の高いものだ。
彼はその私の提案に理解を示し、「それであれば、あなたの国の方法に従いましょう」と言ってくれた。私は「もしあなたがこれに同意せずに私のことを先生と呼ぶのであったら、私はあなたを神様と呼ばなければなりませんでしたよ。"天不生仲尼、万古如長夜(天が仲尼を生まなければ、この世は長い夜のままだ)"。あなたは人類史上における論理学の大成者のひとりなんですから!」と言って、また笑った。
それから、私たちはぶっ通しで先の中国歴史ドラマ『恕の人 -孔子伝-』を鑑賞したのである。私はそれが彼にとって、もっとも分かりやすい理解の道であると考えたのだ。その私の考えはどうやら正しかった。最初こそ彼は完全に困惑した表情を浮かべながら、それでも動き続ける不思議な画面を凝視しつつ、時折、あの輗(馬車の部品)はおかしな形をしているだとか、その階級の者がそのような仕草をするのは礼儀に反するだとか、そうした実に彼らしい指摘をしていた。しかし、彼は次第にそうした時代考証の誤りを気にしなくなり、物語に没頭するようになった。この物語が現代と並行して進むという点も功を奏した。かくして、水が綿に染み込むかの如く、彼の頭と心に自己の歴史と現代の世界に関する知見が浸透していった。
我々が知っての通り、仲尼こと孔子(本名は孔丘:「子」は先生を意味する尊称)は、十五歳頃から本格的に学問を志した人物だ。当時、家柄や身分のある士大夫は儀礼的な知識や音楽の演奏方法を十三歳から学ぶので、これは年齢的には遅い方であったと言える。そもそも、彼の血筋は公族に属するものであったが恐ろしく貧しかった為、教育機会には恵まれなかった。将軍であった父親の孔紇は仲尼の顔を見る前に戦地で逝去しており、彼は母親により女手一つで育てられた。現代風に言えばひとり親の家庭であり、その母親も十七歳の頃に逝去したと言われている。彼は葬儀の楽器演奏、放牧、馬飼い、御者といった様々なアルバイトで何とか生計を立てながら、独学で周時代の礼学を中心とした膨大な論理学を修め続けた。三十歳頃になるとその博学ぶりに感銘を受けた大勢の人々が弟子入りをしていた。孔子は学園のような場を創設し、その学びの機会を身分の隔てなく丹念に行った。これを以て、孔子は「庶民に教育を解放した世界で初めての教育者」であると評価されている。(ブッダやソクラテスも同じような教育者として歴史に名を刻んだが、彼らは孔子よりも数十年後に生まれている。)
混沌の時代に突如として生まれたこの論理学者は次第に名声を高め、故郷の魯国の国王である定公から国家運営の役職を与えられた後は、中都の宰、司空、大司寇と出世していき、規範・道徳・経済の立て直しに大きな功績を残した。この時の彼は自身の論理学によって太平の国家を実現する情熱に燃えていた。しかし、彼が打ち出したある政策を巡って、国王以上に魯国で権力を振りかざしていた"三桓(孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)"の反感を買い、国外に追放されてしまう。こうして五十歳頃から、この偉大な論理学者の教師は弟子を引き連れながら、戦乱の諸国を"フリーランスの論理学コンサルタント亡命集団"として十三年も流浪する事となる。この旅は苦難の連続だった。その偉大な論理学の才能はあらゆる場所の国王や諸侯から尊敬されたが、一方で単に政治的な理由から、あるいは彼の考えが実用的ではないとされ、迎え入れられはすれど重用はされはしなかった。
そして六十九歳、彼は政変の混乱がある程度鎮まった魯国への帰還を果たす。残念な事に、彼の妻である幵官は帰還した彼に遭う事なく、数年前に他界をしていた。偉大な論理学者は遂にここで理想国家実現の夢を絶ち、弟子たちと共に文献研究と編纂に集中する事を決意する。彼は弟子らと共に、後の中華世界の柱となる『詩経』『書経』を編纂と『易経』の注釈、そして『春秋』の製作を完遂。彼が亡くなった後は愛弟子のひとりである子貢が中心となって、孔子の言行録である『論語』がまとめ上げられた。(後世の『史記』『春秋左氏伝』『孟子』等の書物にも孔子の言行が収録されているが、基本的には『論語』を孔子伝の正史とするべきだという見解が強い。)
さて、私の目の前にいる仲尼さんはその遥かなる彼の論理学の旅路のうち、教育者として出発した段階にあった。彼は自分が二十七歳であると言った。年齢よりもずっと上に見えたのは、その長い髭と慎み深さに満ち溢れた揺るぎない気配が関係しているのだろう。しかし、私はすぐに彼の姿は年齢相応の在るべき姿なのかもしれないと考え直した。むしろ、現代人の顔や態度が若過ぎると言えそうである。"歳寒然後知二松柏之後一レ凋也(寒さが厳しくなった時、初めて松柏が葉を落とさない様子を理解できる。)"。彼の時代よりも、我々の時代の先進諸国は往々にして平和と物資に恵まれている。生存欲求を満たしやすい時代であるから"寒さ"を覚える機会が少なく、青々とした若葉のままでいられるのかもしれない。
当初、彼はそうした現代社会の状況を本当に心から喜んでいた。これは私の最初の説明が少々明るい方面に偏っていた事が原因であるかもしれない。とは言え、私は別に自分の時代を「遥かなる進化を遂げた革命的な未来」であると自慢したつもりはなかった。むしろ、私の心には現代が古代と根本的にはまったく変わりがないという点を詫びるような気持ちすらあった。
我々の時代において、技術、論理、組織は確かに変化をしたが(古代どころではなく近代と比べてすら、現代の形は完全に別物と言えるが)、それは進化ではない。原子力技術は生命を照らす光にもなれば、生命を絶やす闇にもなる。現代娯楽は文化を発展させる光にもなれば、文化を堕落させる闇にもなる。議員制は民主の声を反映する光にもなれば、民主の声を蹂躙する闇にもなる。結局の所、我々の社会は完成と破壊、幸福と不幸、希望と絶望を行き来しているだけであり、それは彼の春秋戦国時代と変わりはないのである。
「しかし、子佑さんの世界に人祭(人身御供)の制度が無いのだとしたら、それは前に進んだと言えるのではないでしょうか?」と彼は私に質問をした。なるほど、それは確かに一理はあると感じた。また彼は、飢饉や貧困による餓死の総数が明らかに減っているという状況にも言及した。私はよく考えてから、「それも観方を変えると、やはりただ別の形に変化をしているだけかもしれません」と答えた。人祭は社会や風土が奴隷達の命を奪う制度である。それであれば現代でも、社会や風土が弱者達の命を奪う事が多々ある。また現代は飢饉や貧困による死者は激減しているが、代わりに飽食と強欲による死者は大勢いる。こうして多面的に考えてみると、一方の何かが改善されていても、一方の何かは消耗しているのである。
私は言った。「仲尼さん、あなたは後に愛弟子の子貢から、師(論理学者)と商(ビジネスマン)、どちらが優れているでしょうか?という質問を受ける事になるんです。子貢は豪商の息子で商いに精通していた為、そのような質問をしました。それに対して、あなたは師が仁・義・礼・智・孝・忠・恕に過ぎた所があり、商は仁・義・礼・智・孝・忠・恕に足りない所が多いと答えて、最後に『過猶不及(過ぎたるは及ばざるが如し)』と答えます。この話が、今の時代の変化の話にも当てはまります。あなたの時代には足りない所が多く、私の時代には過ぎた所が多いのです。ですから、私の時代も人々が君子になったとは言えません。やはりあくまでも、我々の時代にあるものは進化ではなく変化です。我々の時代もあなたが目指した『中庸を体現する黄金の時代』ではありません。」
彼はそれを聞いて、「黄金の時代とはどういうものでしょうか?」と言った。私は「あなたは後に、周王朝の礼制度を復活させ、その中で仁を中心とした確かな美徳を持つ人々が統治を行う国こそが至高であると考えたようですね。それは理論部分で、実践部分では日常の行動に関する規則を細かく作る事を想定しました」と答えた。彼は続けて「そのような夢のような話が本当に実現できるのでしょうか?」と聞いた。私は「あなたはそう信じていましたよ。あなたの弟子たちもそうです。そして実際に、あなたが大司寇の役職に就いた頃、あなたはその方法で魯国の再興に大いに貢献していたんです」と言った。
彼は先ほど鑑賞した作品を思い出しながら、感慨深そうに溜息をついた。私は続けて言った。「あなたは後に弟子の子夏が莒父の町の宰(長官)に就いた際、"欲速則不達(急いては事をし損じる)"と教えました。これはあなたが大司寇の時に犯してしまった失敗を教訓にしているのだと思います。あなたは王政の復帰と礼制の適用を急ぐあまり、魯国を牛耳っていた三桓の力を削ぎ落そうと考えました。そこで、あなたは彼らがそれぞれ所有する城を破壊する『三都破壊』の政策を急速に進めたのです。それは間違った道では無かったと思いますが、その進み方が性急過ぎました。あなたが御者の仕事をしていた時の事を思い出して下さい。馬車の操作の基本は、起・乗・転・合。走り始めは"要軽而快(軽やかに速く)"、進む時は"要迅速而平穏(迅速かつ安定して)"、方向を転じる時は"要穏而平(穏やかかつしなやかに)"、停まる時は"要穏而定(緩やかにしっかりと)"。あなたは走り始めと進む時は実に巧みに馬を操っていましたが、方向を転じる時に"要迅速而急激(迅速かつ急激に)"となったのです。それでは馬車が曲がり切れずに転倒してしまうのは当然です。」
これを聞いた彼は言った。「いかにもその通り。その時の私は何を考えていたのだろうね」そして、彼は私にこう聞いた。「子佑さんは黄金の時代について、どのようにお考えですか?」
私は思わず立ち上がったが、また座ってから言った。「私には考えがあります。これを私は三元論と呼んでいます。これは私が思い描く黄金の時代に関連する理論です。私は仲尼さんを始めとした、古今東西の論理学者から著しい閃きを受けた人物です。私の三元論は、それらの論理学を併せて研磨し続けた結果として生まれました。」私は少し息をついてから、話を続けた。
「先生は礼を軸とした論理学が、人間を良い方向へ導き、その良い人間が社会を導いて行くという考えを示していました。これは私も間違いはないと思いますが、問題はその『良い方向へ導く』とは何を意味するのかという点です。私は人間が君子になる為には、『本能』を適度に抑制する必要があると考えています。本能を適切に節制する事の出来ない者は小人であり、本能を適切に節制できる者が君子です。」
彼はそれを聞いて、こう答えた。「なるほど、その子佑さんの『本能を節制する』という考えはとても興味深い。今の私の教えの中心には、自己の制御と自己の改善があります。人間は本能や欲望によって動かされることがありますが、それを節制し、高い道徳的基準に従って行動することが君子の特徴という訳です。本能を完全に否定するのではなく、それを適切に管理し、より良い目的のために用いることが大切だという事になります。例えば、食欲は生存のために必要ですが、過度な食欲は健康を害するものです。同様に、野心は成長と成功のために重要ですが、抑制されない野心は他人を傷つけ、道徳を踏み外す原因となります。本能の節制は自己認識から始まります。自分の欲望や衝動を理解し、それらを適切に整える為の知恵と自制心を育むことが重要なのです。節制された本能は、個人の成長と社会の調和に貢献します。教育者として、私は弟子たちに自己制御の重要性を常に教えています。各人の特性や能力に応じた指導を行い、彼らが自分自身をよく理解し、自己を磨くことができるように導いてきました。ですから、あなたの『本能を節制する』という考え方は、私の教えと一致しています。」
私は大いに頷いて、言った。「私は人間の本能についてこう考えました。人間には、身体的に健康でありたいという欲求、精神的に健康でありたいという欲求、関係的に健康でありたいという欲求がある、と。この考えが、先ほど言った、私が世界のあらゆるものや考え方を三つの要素に分解するという理論、『三元論』から生み出したものなのです。身体的に健康でありたいという欲求は『生存欲求』と名付けまして、これは端的に言えば『生きたい』とする欲求です。精神的に健康でありたいという欲求は『知的欲求』と名付けまして、これは端的に言えば『知りたい』とする欲求です。人間同士や動植物、あるいはより大きな空間や集団などを含め、関係的に健康でありたいという欲求は『存在欲求』と名付けまして、これは端的に言えば『繋がりたい』とする欲求です。この考えについては、先生からすると的確だと思いますか?」
彼は目を大きく開けて言った。「なるほど…その考えは、人間の欲求を包括的に捉える洞察に富むものだと私は感じます。『生存欲求』は、身体的な安全と健康を求める本能的な欲求であると言いました。そして、『知的欲求』は、知識や理解を求める欲求で、『存在欲求』は、関係性や所属感を求める欲求であると子佑さんは言いました。複雑な社会における人間の欲求と行動を理解する上で有効だと思います。しかし、問題はそれらの欲求をどのように制御するかという点ではないでしょうか?」
私は言った。「そうです。これを踏まえて次の考えに移ります。人間のこれらの生存欲求、知的欲求、存在欲求を適切に節制する為には何が必要か。それは『規範』『良識』『美徳』です。生きたいという欲求は、『食欲』『休息欲』『運動欲』という三つの要素により構成されています。それらが暴走をすると、さっきあなたが食欲の例を挙げてくれた通り、かえって自己が傷ついてしまうかもしれませんし、あるいはそれによって他者も傷つくかもしれません。より大規模な話になると、資源を巡って戦争が起きるという危険性もあります。それを防ぐためには『規範』が必要です。そして、知りたいという欲求に関わって、その学問体系を類型すれば『技術』『論理』『方法』の三要素に分解できますが、これらには我々が知るべきものと、知るべきではないものがあります。この知るべきものこそが『良識』となります。良識は精神的な健全性を保つ為に不可欠な歯車として機能します。そして、繋がりたいという欲求は、『接触的希求』『承認的希求』『帰属的希求』の三要素に分解できます。それは肉体的に触りたい、相手から理解や評価を得たい、何かの集団に属したい、という想いです。これらも当然ながら暴走によって被害が出ますので、お互いに接触的、承認的、帰属的な距離感を保つ為に『美徳』が必要になります。したがって、人間の本能である『生存欲求』『知的欲求』『存在欲求』を、『規範』『良識』『美徳』によって適切に節制する事が出来れば、その人は君子となり、またそのような仕組みが整った国家は君子の国になります。これが私の考える黄金の時代の基礎的な枠組みです。」
「極めて興味深い」と、彼は立ち上がって言った。私も思わず立ち上がった。私は「歩きながら話しましょうか。その方が議論が深まるかもしれません。ちなみに、歩きながら議論をする方法は、あなたのいた時代から約百年後に西洋で生まれるアリストテレスという論理学者が好んでいたものです。逍遥学派という名前が付けられていました」と言った。彼はそれに賛同した。私たちは部屋を出て、中庭を歩きながら再び議論を始めた。
彼は言った。「『規範』は、身体的な欲求を節度あるものにするための基準ですね。これは、私の教えにおける『礼』と通じます。礼は社会的な行動規範を意味し、個人の行動が社会に与える影響を考慮することが重要なのです。『良識』は、知的な欲求に対する内面的な道徳的指針を提供するものですね。これは、私の『智』の教えと関連があり、知識の追求が倫理的な枠組みの中で行われるべきであることを意味するでしょう。『美徳』は、人間関係に関する欲求を適切に調節するための倫理的な道理です。これは、『仁』の精神に相当し、他者への思いやりや共感を重視することが求められるのです。こうして考えてみますと、子佑さんが考えたその国家運営の道理は、個人の道徳的、精神的、社会的な発展を進め、結果として社会全体の調和と繁栄に寄与するものであると言えるのではないでしょうか。各個人がこれらの原則に従い、自己制御と自己改善に努めることで、君子の国が形成されるでしょう。私はこのような理解をしましたが、合っているでしょうか。」
私は深く頭を下げて、合っていると答えた。彼はこう続けた。「あなたの考えは私の教えと精神を現代に適応させ、さらに発展させたものと言えるかもしれません。教えを受け継ぐ者は、その教えを新たな環境や状況に適応させ、さらに発展させる責任があります。あなたはその責任を果たし、自らの学びを通じて新たな理論を築いたのです。それは、論理学者としてのあなたの大きな成果であり、尊敬に値します。」
私は彼がそう言ったのを聞いて、急に私は震え上がってしまった。そして思わず相手のことを先生と呼びながら、こう言った。「先生からそういうふうに評価してもらえる日が来るなんて夢にも思いませんでしたよ。それはもちろん、とても光栄ですが……正直に言うと、私はこうした研究をただ自分の為に行っているのです。学術の発展の為だとか、社会の改善の為だとか、そういう事は全然考えていません。あなたは後にこう言っています。『古之学者為己、今之学者為人。(かつての論理学者は自らを高める為に研究し、今では他人に認められる為に研究する。)』私はただ人間を知りたいから、人間の事を考えているだけなのです。私はただ魂の事を知りたいから、魂の事を考えているだけなのです。私はただ世界の事を知りたいから、世界の事を考えているだけなのです。──まだ私の中には色々な考えがあるのですが、日が暮れる前に、もうひとつだけ話を続けても良いでしょうか。それは先ほどの人間の本能から導き出される"本性"の事です。」
彼は言った。「人間の本能から導き出されるその"本性"ですか。子佑さんが考えるものにはもちろん興味があります。言うまでもなく、ぜひ話してください。あなたの深い洞察から得られる知識は、私にとっても学びの機会となるでしょう。」私は身の縮むような想いを抱きながらも、次の瞬間には、身を乗り出すようにして言った。
「私は人間に"本能”があると論じました。その三つの"本能"がどのように優先されて発動するかというのは、人によってその"性質"が異なります。それを私は"本性"と呼んでいるのです。この"本性"は生まれながらにして持つ絶対的・先天的な傾向と、成長をする中で変わっていく相対的・後天的な傾向があります。これを踏まえて、人間と世界がどのように接しているかという状況を考えてみます。僕が書いたこの資料を読んでください。」
私はそう言うと、手帳を取り出して、その最初の頁を彼に示した。そこに書かれていた文章は次の通りである。
1.(森羅万象の分解と再生):人間は森羅万象を「三要素」に分解し、また再生できる概念的な能力を持つ。
2.(注目):人間は常に現実の情報に囲まれているが、人間が注目する現実の情報は限られる。
3.(本能):人間は現実の情報を"本能"によって、「注目するもの」と「注目しないもの」に選り分ける。
4.(本能の種類):人間の本能は三種類あり、それは以下の通りである。
<人間の本能>
1)生存欲求:現実情報を「身体的な健康に役立つもの(心地良いもの)」と「身体的な健康に役立たないもの(心地悪いもの)」に選り分ける
2)知的欲求:現実情報を「精神的な健康に役立つもの(知りたいもの)」と「精神的な健康に役立たないもの(忘れたいもの)」に選り分ける
3)存在欲求:現実情報を「関係的な健康に役立つもの(繋がりたいもの)」と「関係的な健康に役立たないもの(離れたいもの)」に選り分ける
5.(本性):人間には、絶対的・先天的な本能の傾向と、相対的・後天的な本能の傾向があり、後者が前者を上書きする事で、その傾向の事は"本性"となる。
6.(本性の種類):人間の本性は無限の細分化が可能であるが、その基本類型は「強い欲求、弱い欲求」という二段階による組み合わせを想定する事が可能であり、故にそれは以下の八種類となる。
<人間の本性(基本の八類型)>
1)弱い生存欲求・弱い知的欲求・弱い存在欲求
2)弱い生存欲求・強い知的欲求・弱い存在欲求
3)弱い生存欲求・弱い知的欲求・強い存在欲求
4)弱い生存欲求・強い知的欲求・強い存在欲求
5)強い生存欲求・弱い知的欲求・弱い存在欲求
6)強い生存欲求・強い知的欲求・弱い存在欲求
7)強い生存欲求・弱い知的欲求・強い存在欲求
8)強い生存欲求・強い知的欲求・強い存在欲求
「仲尼さん、まずはここまでの私の考えを理解して貰えたでしょうか?」私はこの話を現代社会の誰かにする時と同じように、彼もまた妙な顔をして首を傾げるものだと考えていた。しかし、思いがけない事に、この偉大な論理学者はこれを瞬時に理解したのだった。
「子佑さん、よく分かりました。あなたの考え方は、人間の本能と本性を分析し、その結果として現れる人間の行動様式を詳細に分類したものだと言えます。これは非常に洗練された枠組みであり、個々の人間の行動を理解するための強力な道具になると私は感じました。あなたが提案する『生存欲求』『知的欲求』『存在欲求』という三つの本能の分類は、人間が現実の情報をどのように処理し、どのように反応するかを理解するための土台を提供するものです。また、これらの本能がどのように優先されるかによって、個人の"本性"が形成されるという考え方は、人間の行動をより深く理解する上で重要だと思います。続けて、人間の本性が絶対的・先天的な傾向と相対的・後天的な傾向の組み合わせで構成されるという観点は、人間の性質が単なる生まれ持ったものではなく、経験や環境によっても形成されるという私の考えとも合致します。人間の本性を『強い欲求、弱い欲求』という二段階の組み合わせで考えることによって、その多様性と複雑さを捉えることができています。ですから、あなたの考えは、個人の自己理解を深めるだけでなく、他者への理解を促し、より効果的な会話や教育、さらには社会的な対応策の策定にも役立つに違いありません。この考えにはまだ続きがあるのでしょうか?」と、彼は言った。
私はありますと答えて、手帳の頁をめくった。私は言った。「私は基本的な本性の類型を八項目に収めました。しかし、それはあくまでももっとも単純な類型であって、実際に人間を再現する場合においては、最低でも欲求の段階を『とても強い、強い、弱い、とても弱い』という四段階に定め、六十四項目の類型を行うべきだと考えます。」
ここで彼は「人間を再現するとはどういう意味ですか?」と聞いた。私は「もう仲尼さんも気づいたと思いますが、この時代にはとても複雑な反応を自動的に生み出してくれる道具があります。それは人工知能と言って、今ではまるで人間が話しているように反応してくれるものもあるのです。私は自分の先ほどの考えが人間や社会の仕組みの解明に繋がるものだけではなく、人工知能のような道具をより人間らしくする事にも繋がると考えています。これが私の言う『人間を再現する』という意味です」と答えた。かの偉大な古代人はこれもまた極めて迅速に理解を示してくれた。私は続けた。
「その六十四項目は、ここに書かれている通りの組み合わせとなります。仲尼さんは馴染みがないと思いますが、この組み合わせは西洋で発明される座標軸という方法を用いて空間的な図で示す事もできます。その図の考え方は、先ほど言った『人間の再現』にそのまま適用できるものです。ただこの頁には、その座標軸は使わないで、そのまま組み合わせを全て並べています。そして、それぞれの項目には便宜上、分かりやすいように名前を付けています。」
私がこう言うと、彼は指を頁の上に置きながら文字を読み進めた。ところで彼の時代にはまだ紙の書物が無く、筆で竹簡に文字を書く方法が取られていた。よって、私は彼が手帳の扱い方に手間取るのではないかと考えたが、現代人と同じように用いていた。更に私の手帳に書いてある文章は、やはり彼の時代には存在しなかった横書きであったが、それも彼は問題なく読む事が出来た。それがこれまた天意であるのか、それとも彼の論理能力の高さが成せる業なのか、私には分からない。
<人間の本性(六十四類型)>
①とても強い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「全方位の探究者」
①とても強い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「情熱的指導者」
①とても強い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「独立研究者」
①とても強い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「秘密の学者」
①とても強い生存欲求 ②強い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「野心的協力者」
①とても強い生存欲求 ②強い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「革新的起業家」
①とても強い生存欲求 ②強い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「実用的発明家」
①とても強い生存欲求 ②強い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「独創的専門家」
①とても強い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「力強い仲介者」
①とても強い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「実行力のある社交家」
①とても強い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「実用的実行者」
①とても強い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「孤高の戦士」
①とても強い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「感情豊かな支援者」
①とても強い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「直感的な協調者」
①とても強い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「行動派の実践家」
①とても強い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「無欲の生存者」
①強い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「熱心な博学者」
①強い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「戦略的思考者」
①強い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「理論派の探求者」
①強い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「孤独な知識人」
①強い生存欲求 ②強い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「協調的な知識家」
①強い生存欲求 ②強い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「均衡型の探究心」
①強い生存欲求 ②強い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「自己完結型の学者」
①強い生存欲求 ②強い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「独立心の研究者」
①強い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「社会的な実践者」
①強い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「実践的な仲間思い」
①強い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「直観的な生存者」
①強い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「孤立型の実行者」
①強い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「人懐っこい実践家」
①強い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「社交的な実行者」
①強い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「即断即決の行動家」
①強い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「自己依存の生存者」
①弱い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「理論的社交家」
①弱い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「思慮深い協調者」
①弱い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「哲学的な独立心」
①弱い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「独学の思索家」
①弱い生存欲求 ②強い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「共感的知識人」
①弱い生存欲求 ②強い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「知的協調者」
①弱い生存欲求 ②強い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「内省的学究」
①弱い生存欲求 ②強い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「静寂の研究者」
①弱い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「直感的な協調者」
①弱い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「感情豊かな協力者」
①弱い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「自然体の生活者」
①弱い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「穏やかな孤独者」
①弱い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「人懐こい自由人」
①弱い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「無邪気な交流者」
①弱い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「単純明快な実践家」
①弱い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「素朴な独立者」
①とても弱い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「理想主義的学者」
①とても弱い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「思慮深い忠言者」
①とても弱い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「熟考する理論家」
①とても弱い生存欲求 ②とても強い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「孤独な思索家」
①とても弱い生存欲求 ②強い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「協調的分析家」
①とても弱い生存欲求 ②強い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「均衡型の支援者」
①とても弱い生存欲求 ②強い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「独立した思考者」
①とても弱い生存欲求 ②強い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「静寂を愛する分析者」
①とても弱い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「柔和な協調者」
①とても弱い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「穏やかな支援者」
①とても弱い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「静かな存在感」
①とても弱い生存欲求 ②弱い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「独立心の守護者」
①とても弱い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③とても強い存在欲求 - 「純粋な心の支持者」
①とても弱い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③強い存在欲求 - 「心温まる仲間」
①とても弱い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③弱い存在欲求 - 「穏やかな実践者」
①とても弱い生存欲求 ②とても弱い知的欲求 ③とても弱い存在欲求 - 「静寂の愛好家」
彼は真剣に読み進めた。すべて読み終えてから、彼はこう言った。「これも極めて興味深い。各々の類型が、生存欲求、知的欲求、存在欲求の強度に基づいて定義されており、それぞれの組み合わせが人間のさまざまな性格や行動法則を示しているという訳ですね。子佑さん、このあなたの分類を用いれば、我々がどのように情報を処理し、現実とどのように相互作用するかをより深く理解することができます。例えば、最初のこの本性、『全方位の探究者』は、生存、知識、関係性のすべての面で高い欲求を持ち、多方面にわたって情報に関心を示す可能性が高いと考えられる訳ですね。あなたと考えている事が同じかどうかは分かりませんが、これはまさしく『仁者』であると言えるでしょう。一方で、『静寂の愛好家』は、すべての面で弱い欲求を持ち、静かで内向的な性格を持つ可能性があります。これは私の時代によくいた、老先生を真似したような世隠れの文人、『隠士』のような人ではないかと思うのです。」
私は大きく頷いてから、言った。「私たちはこれらの類型のいずれかに属した状態で現実の世界の情報と向き合って、本性によって注目した情報に対して反応し、その反応の結果が各種本能をどれだけ満たしたかによって成功したか、失敗したかを判断します。その反応による結果の中から、強く成功したもの、強く失敗したものを抽出し、それを学習して反応性と本性の調整を行います。本性は学習によって緩慢に変動し続けますが、身体状況によって一時的に急激な本性の変動が生じる事もあります。例えば、仲尼さんが後に楚国に向かう際、政治的な理由から陳国と蔡国の国境で幽閉状態となった時、食糧の困窮によって弟子たちの中に混乱が生じました。そこで愛弟子の子貢が、普段は言わないようなあなたへの忠言を口にするんです。"夫子之道至大也、故天下莫能容夫子。夫子蓋少貶焉?(先生の考える"道"は広すぎて、天下がそれを受け入れないのです。先生は少しその品質を落とすべきではありませんか?)"と。生きるか死ぬかの窮地でしたから、子貢の本性が一時的に変動し、普段は行わない反応を示したのです。私はその一時的に変動した本性を『気分』と呼んでいます。すなわち、ここには長期的かつ緩慢に変動する本姓である『性格』と、一時的かつ瞬時に変動する本姓である『気分』が存在し、それが人間の反応に混沌を与えています。この人間の本性に基づく反応の混沌性を、私は『生命の揺れ』と呼んでいます。そこに人間の不確実性が存在し、その不確実性ゆえに新たなものが生まれ続けます。完全に均一化されて安定した生命は存在せず、仮にそれが存在したとすればその生命は確実に終末へ向かわねばなりません。私たちはこの『生命の揺れ』があるからこそ悲劇と喜劇があり、和合と分裂があり、繁栄と破滅があるのです。」
私はここまで言って、一息ついた。彼は私にこう聞いた。「あなたはどこかに登用されていますか?その考えを活かしている場所はあるのですか?」私は笑って答えた。「いえ、誰からも、どこからも、私のこの考えは必要とされていません。ただ、私が考えているだけです。あなたが流浪していた時に引用した詩の通りです。『匪兕匪虎,率彼曠野(野牛でも虎でもないのに、荒野を彷徨っている。)』」──……
"子貢出、顔回入見。孔子曰「回、詩雲‘匪兕匪虎、率彼曠野’。吾道非邪?吾何爲於此?」顔回曰「夫子之道至大、故天下莫能容。雖然、夫子推而行之、不容何病、不容然後見君子!夫道之不修也、是吾醜也。夫道既已大修而不用、是有國者之醜也。不容何病、不容然後見君子!」孔子欣然而笑曰「有是哉顔氏之子!使爾多財、吾爲