試験の始まり:科挙の功罪

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現代の大学テストや公務員テストが難しいと感じているかもしれませんが、実は古代試験の科挙がもっと難しいです。

科挙には大きく4つのレベルに分けます、合格すればすれぞれ「秀才」「挙人」「貢士」「進士」となります。

古代には卒業という概念がないため、最低レベルの秀才にも合格できなければずっと「童生」扱いです。当時おじいさんと孫一緒にテストを望むのもよくあります。

「秀才」テストも3回試験を受ける必要があり、県、府、省(地方政府)で全て合格して初めて秀才の資格を持ち、次の「挙人」テストに行けます。

秀才の中にどのぐらい「挙人」になれるかというと、大体30人に1人(3.3%)が合格できます。そのため挙人に合格できなくても、秀才の資格だけでも故郷でかなり尊敬されます。秀才は官員に会ってもお辞儀だけで済みます、百姓のように跪く必要がありません。挙人に合格できれば、もう官僚になれます。

そして次は礼部の「会試」という試験に参加して「貢士」という資格に挑みます、合格率は5%。合格すれば次は皇帝自ら主催の「殿試」、この試験は100%合格します。つまり「貢士」になれれば「殿試」を参加資格を持ち、100%合格し、最終「進士」という資格になります。

しかし、この「殿試」の順位によって未来が変わります。

最終の「進士」資格の順位が三つあります。
①一甲進士及第(3名のみ:状元、榜眼、探花)
②二甲進士出身(100名前後百数名)
③三甲同進士出身(残りの200〜300名)

無論ニ甲以上じゃなければ出世の見込みがほぼありません。

科挙試験の時間が長く(数日)、問題が難しいを超え嫌がらせのもよくあり、特に明清以降から決まった書物からしか出さないため、問題が出し尽くしたので、全く関係のない文章から単語を出して無理矢理組み合わせて出題する例もありました。

科挙制度最も成功したのは、国民の身分が転換できるようになり、不安定要素を減らしました。欧州のような官僚世襲制よりはるかに公平な制度です。しかし、この下から上への身分転換が可能であることにより中央集権が益々強くなり、欧州のような市民革命も起きなかった。
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