悟る目覚めるという誤解

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おはようございます*^^*

部屋に差し込む光でアイビーから生き生きが伝わります✨


実家に娘とお泊りしてきましたが、穏やかなひとときでした。

以前は、不安や恐れや固定観念の強い両親と関わったりすることに重さを感じて、敬遠しているときもありました。

それは、結局は自分の中に強い分離感や、自分の正解を握りしめていたんだなあと今では感じます。

不安はダメだ、固定観念を持つことはダメなことだ。
その思考、考えで相手を見るので、
相手からその様子が見えると、苦しみやしんどさが生まれていたのですね。

今は、同じ光、生命の現れだという意識が生まれてきているので
その動きから生まれるものに間違いはないと理解していて
存在からの、現れる言葉の変化よりも
それが生まれてきている、光生命を見て、感じている自分がいます。

平等な光、生命の動きそのものなので
そこに、分離した”私”というエネルギーから否定が生まれにくくなり
滞り、苦しみは減ってくるのですよね。

同時にどのようなものが”私”から湧いてきても
否定する自分がいなくなってくるということ。

現れ全てと比較したり、ジャッジしたりする意識がなくなり
正しく差が無くなってくる。

これが悟り(差とり)といわれる状態でもあるんだろうなと・・・

”私が悟らなければ、目覚めなければ”

今まではそのように、”私”という分離から
私そのもので無いものになろう、ならなければ!

そう力み続けてきました。

逆でしたね(;^_^A

光、生命からの現れに、
悪いはないですし、否定する私が薄まり消えてくる。

欲があろうとなかろうと

怒りがあろうとなかろうと

”完璧な状態で在らねば”それがいらないし、

欲がでてきても

怒りが出てきても

それはそのようにあっていいということ。

同時に、目の前に現れる人から、何が現れようと

そこにまた否定もいらない。


その現れのもとは全て光であり、生命なのですから・・・

そこに否定が生まれたら、それはまた自分の中にある
否定を教えてくれてる。

全てはわたし。

”私”含めてすべてがわたし。
そこへの目覚め。

現れてるものに自分を見てる。

悟りや目覚めというものも、誤解して理解していたし、
”穏やかな欲のない人”がそれではないのですね。

どのようなものもあっていいし、含まれたそのもの
そのままは、自然そのもの。

否定がないから、穏やかなのでしょう☆

命から生まれる、湧き上がるものそのままに寄り添ってあげたいですね。

そして、どのような言葉を発している人が前にいても
その光や、生命を感じたいし見ていたいですね*^^*










私の体験からの真実から感じることだけど、
随分、悟らなければ、意識を高めなければと
苦しんではせめてk
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