先日、初めて甲野善紀さんにお会いした。
「武術が明かす世界」というイベントの定刻、19時が過ぎても始まらず。少し遅刻されているのかなぁと思っていると、後ろにふわっとしたものを感じて振り返ったら紺色が見えた、気がした。ホワイトボードの方をもう一度向き直ると何本もの木刀のようなものを持った甲野さんがいた。
走って来たのだなとわかったのはそれからだった。
言葉の宛先
そのこともあってか、甲野さんのコロナやマスクについてのお話はとても沁みた。自分はこれからどういう立場で誰に向かって文章を発信していきたい(生きたい)のかを考える機会をいただいた。
僕の仕事の主たるものは絵だ。抽象画の販売や制作ご依頼を受けての似顔絵やイラストの制作を行なっている。
だからこのブログの宛先としては、僕の絵を応援してくださる人、またこれから僕の絵に初めて出会ってくださる人全てなのだと気持ちをしっかりと持つことができた。
意図を超えた身体
話が逸れてしまった。
甲野さんはお話もそこそこに、身体を使った時間に突入した。
色々な技を間近で見られるというこういう機会は初めてでとても面白かった。笑いが止まらなくなることもしばしば。
印象的だったのは相手の肩のあたりに手を出す動きについて、「太ももあたりを殴るつもりでいつつ、頭のどこかに『でも肩のあたりに手が出たらいいなぁ〜』と思っておく、あとは軌道も手が出るタイミングも自分は与り知らないでおく」という心持ちの説明。
「自分もいつどう手が出るかわからない境地でいる」ということを客観的に説明しながらパフォームする甲野さんのあり方はさすがだと感じた。
意図を超えた絵を描きたい
で、僕の絵については?
と考えると、まだまだ意図がある。「日々の滴」という、朝起きて白湯を飲み、できるだけクリアな状態で水と絵の具を垂らす絵をほぼ毎日描いている。
意図というのは本当に巧妙で、「日々の滴らしさ」のようなものを作り上げてそれによって効率化・省エネ化を図ろうとする。すぐに「シリーズ化」のようなことが起こってきてしまうのだ。
その過程で大切なものが溢れてしまう。その溢れたものをこそ拾って絵にしていきたいと思っていたはずなのに。とても大切なことを思い出させていただいた。
意図の先にあるものを見据えて生きる
上手く描きたい、綺麗に描きたい、人気を得たい。そういう思いを否定せず、その先にあるものを見据えたい。
ただ描きたい、よりももっと先。
絵と出会いたい、よりもっと先。
あなたと出会いたい。
これをいやらしいセールストークやキャッチコピーではなく、本気で生きるということ。
僕が絵を描く、その絵が欲しいという人がいる。その人たちと出会いたい。
これが絵描きとして良いのか悪いのかはわからないが、僕は人に出会いたい。
だから、人に届けようと思う。
そのために、言葉も紡ぐのだ。
赤阪正敏プロフィールページ