中3物語 / 大人が子どもにつけた足跡

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学び
 教育とは「良い」と思われる「足跡」を「意識的に」つけること。

 生まれたばかりの赤ちゃんは真っ白。誕生の瞬間から子どもは外界と関わり、経験を積んで育っていく。
 「悪い」「足跡」が「意識しないうちに」ついてしまうこともある。「悪い」とわかっていればしなかったろうに。無意識のうちにそーなる。
 「良かれと思って」いたのに「悪い」「足跡」がついてしまうこともある。大人は良かれと思って子どもに「あれしろ」「これしろ」と言う。でも、そこで育つ子どもは受け身になってしまうことも多くある。日本の学校はまさにこれ。何をしたらいいかを自分で判断できない子が大量生産されている。

 うちの子はどーしてこーなんだろ。。。と感じることの多い親御さんもいると思う。でも、それって私に言わせれば「足跡」なんだ。私にはそー見える。

 私はもう30年近く。心の病気で現在も薬を服用している。Windows3.1の時代に通信で在宅学習を支える仕事を業務委託で始めた。通信生100数十名と、自分の教室の塾生もいて、伸び切ったゴム状態になってしまった。そこへ「組織X」の「お化け」がたくさん現れてメンタルをいじられた。
 最初の「お化け」は通信生のお家だった。「組織X」の関係者が私のお客さんにたくさんいた。豊中からの仕事帰りに、川西能勢口の駅でも毎晩「お化け」が出た。私の自宅のご近所さんたちも「お化け」だらけ。そーやって「見られている意識」を強く印象付けられて、私は心因性の不調症になってしまった。今ではもう元気だが、「心の傷」「足跡」は永遠に消えない。「悪い」「足跡」を「意識的に」つけることが教育だと考えるとんでもない輩がいる。それじゃ副作用出るやろが。怒怒怒!

 りんごを見て何を連想するか。「赤い」と思う人。「アップルパイのレシピ」を思い出す人。「万有引力」を思いつく人。思い浮かぶけれど「言葉」にできない人。

 私が言いたいことは、人はそれぞれに心の中に「型」をもって外界を見ているということだ。臨床心理学にロールシャッハテストというのがある。インクの染みのような模様を見せて「何に見えるか」と検査する。被験者の「型」を見る心理テストである。

 虹は7色。でも色の境界が見える人はいる?虹の例でも考えられる。
 太陽光のスペクトルは連続していて、虹に明確な色の境界がある訳ではないそうだ。アメリカでは6色。沖縄地方では2色。中国では古くは5色とされていたらしい。「虹の色が何色に見えるのかは、科学の問題ではなく、文化の問題である。( Wikipediaより )」大人が7色だと教えたから7なのである。「文化の型」の問題である。

 さらには、「言葉は存在の家」と言ったのは哲学者ハイデガーである。「馬」という言葉で私たちは馬を了解している。もう大昔、競馬で人気のあったハイセーコーもトーショーボーイも、さらにサラブレッドではなく道産子も「馬」である。生まれて初めて馬を見たときには「馬」という言葉を知らないので、その存在を「!」と経験する。そして経験を積み重ねて「!」を言葉で表すと「馬」となることを学ぶ。つまり、「言葉は存在の家」とは、このように存在が言葉で守られていることを意味する。私たちは、「馬」という言葉の型でもって外界を見ているのが理解できる。

 私は、毎日子どもたちといっしょに勉強しているから、子どもたちの「心の型」が見える。よく見える。とてもよく見えちゃうんですよ笑。
 本来、学びは楽しい。もし楽しくないなら、そー感じる原因を考えてほしい。「楽しい」と感じられる「足跡」を残してほしい。つまりは、大人も「勉強」しなければならないということだ。

 私は学習塾リバティを立ち上げて、もう40年になる。下手な仕事もたくさんしてきたが、その経験からしても《 自由 》が何よりも大切だという起業当初からの信念にいささかの疑念も浮かばない。《 自由 》は秩序を損なわない。《 自由 》は、魔法のように秩序を形成する力を内包していると思っている。



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