物事には必ず二面性がある。見え方や価値観は人それぞれ

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「人の気持ちを考えることが大事」

とはよく言ったもので、小学校の道徳の授業に始まり現在に至るまで耳にタコが出来るほど聞かされてきたような手垢の付きまくった道徳論です。

これは本当に「言うは易く行うは難し」の典型で実際にやろうとすればとても難しいものです。


というか今でも完全には出来ませんし、その本当の意味を分かっている人の方が少ないんじゃないかと思います


人の気持ちを考えているもりが、気が付けば「自分ならどう思うか」という風に単に自分の心をなぞるだけになっていたりします。

自分は気遣いのつもりでやっていても、相手にとっては正直言って有難迷惑な話だったりします。

それでいて「せっかく気遣いのつもりでやったのに!」などとお門違いな怒りを相手にぶつけるのも人間の性です。



実際のところ、意見の違いや考え方の違いというのはどちらが正しいとかどちらが間違っているとかの話ではなく、誰にも真実はわかりません。


時に「これが常識」「普通はこうする」と、多数派であることを根拠にその正しさを主張しますが、それも単に「多くの人間が抱いている主観」にしか過ぎず客観的な真実とは限りません。


人は群れて暮らす生き物ですから、その中で「相対的に最も多くの人間が共通して考えていること」という”最大公約数” ”暫定1位” の考えが必ず生まれますが、多数派が正しいというわけではありません。


人間は群れる生き物であるが故に「多数派に属すること」に安心感を覚えますが、それが転じて「自分と同じ考えの人が他にもいるということは自分は正しいんだ」と思いがちです。


まあそれがある種「常識的な人間」の在り方でしょうね。


逆に少数派は少数派で「自分たちだけが世の中の大半の人間が知らない真実に気付いている」という”選民思想”に陥りがちで、それが転じて陰謀論などに傾倒していきます。


ただそれも、同じ考えを持つ特定のコミュニティに属して自分たちの正しさを確かめ合うという意味では本質的にやっていることは多数派と変わらないのかもしれません。


私は多数派であろうと少数派であろうと、それぞれが異なる「普通」「常識」を持っていて、どちらが正しいとかではなく本質的にはそのどちらも「主観」にすぎないと思っています。何が真実かなど誰にもわかりません。「自分は真実をわかっている」と思うことそれ自体が主観でしかないのです。


ただ一つ確かな真実があるとすれば、お互いに「自分の考えていることが正しい」と確信していることです。


結局、他人の気持ちを理解するというのは「どちらが正しいかはわからない」ということを前提にお互いそれぞれの異なる主観を理解するということなんだと思います。


「ここまでは分かる」「ここから先は分からない」と、その相手の分かること・分からないことを仕分けていって「わからないことはわからない」と妥協することも「相手の気持ちを理解する」の現実的なあり方だと思います。


「分かる」っていうのは「分ける」ってことですからね。

「水」って良いものですか?悪いものですか?


突然ですが、「水」というものが生命にとって必須であることは今更言うまでもありません。


体の半分以上を構成しているのは言わずもがな、炊事に洗濯に風呂にトイレにと、生活の中でもあらゆる場面で必須ですよね。


しかしそれと同時に水難事故や津波など水の怖さというのも現実的にあるわけです。


もし、水の「良い面」だけを見るならば


「人体に必須で生活のあらゆるところで役に立つ万能アイテム」


ということになるわけですが、これだけでは間違ってはいないものの正確でもありません。かといって水の「悪い面」だけを見ようとすれば


「今までに幾多もの生命を奪ってきた危険な物質」


ということになりますが、これも同じように間違ってはいないものの正確ではありませんね。


要するに水というものの真実と向き合おうとすれば、良い面と悪い面の清濁併せ呑んで使いどころを考える必要があるということです。


普通に生活している人にとっては水は「良いもの」ですが、今にも溺れかけている人にとっては水は「悪いもの」になるはずです。


極端な話かもしれませんが結局立場や見方によってその「良し悪し」や「正誤」は変わるということです。


「水」のような生き物に必須と言える存在ですら立場によって見え方が変わって「良い」「悪い」の二面性があるのですから、世の中の真実すべてがそうだと言っても過言ではないのでしょうか。


もっと言えば「良い」「悪い」の判断は人間の主観的な都合で勝手に言っているだけで、水はただ物理法則に従ってありのままそこにあるだけです。

医療・化学ですら主観にとらわれて間違える


筋肉痛の原因であるとされる「乳酸」が、実は筋肉痛の原因ではなくむしろ「疲労回復物質」であるということが医療の世界では10年ほど前から常識になりつつあることをご存知でしょうか。


そもそもこの「乳酸=筋肉痛」説というのは、ノーベル生理学賞・医学賞を受賞したアーチボルド・ヴィヴィアン・ヒルという人物が1929年に提唱したことで広まりました。


ヒルは疲労したカエルの筋肉に乳酸が増加していることが観察されたことから、筋肉疲労と乳酸に相関関係があるとし「乳酸=筋肉痛の原因」ということを結論付けたのです。


しかし、実際には乳酸というのは疲労した筋肉を回復させるために体が放出しているのだということが最近になって明らかになったのです。


これは簡単に言えば


「ケガをすると血が出るから血こそが痛みの原因だ!」


というような理屈と同じものなのです。


なぜこの誤った説が広まってしまったのかというと、ヒルがこの乳酸=筋肉痛の原因説を提唱した当時すでにノーベル賞を受賞していた「権威者」だったということがあります。


要するに「ノーベル賞を取ったヒルが言うんだから正しいんだろうな・・・」


と多くの人間に信じられて広まってき、結局は100年近くにわたって真実だと思いこまれていたというわけなのです。


一見客観的に見える医療や化学ですら主観的な思い込みにとらわれて間違えるのです。


我々のような人間が主観的な思い込みにとらわれて間違えてしまうのは当然と言えるでしょう。


大事なのは相手の間違いを嬉々として指摘するのではなく、自分も間違えている可能性を常に考えることではないでしょうか。


その気持ちをお互いに持つことで異なる価値観を理解することまでは出来なくとも


「自分にはわからないけどこういう考え方をする人もいるのかあ」


と、ある種”あきらめ”のような気持で相手を認めることが出来るのではないかと思います。







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