僕という作詞家

記事
音声・音楽
竜崎真次として作詞家として歩む前の話をしようと思います。

僕は子供の頃 音楽が好きで当時はアニメからヒット曲までいろいろな歌を

聞いていた。

よく みなさんから聞かれることに

いつから作詞を始めたのですかと聞かれることがある。

僕の場合は12歳の時が始まりだった。

小学校の卒業文章もせまっている頃に自己学習で毎日

勉強したことをノートに書いて先生に見せる課題があった。

その時 卒業の歌があってもいいじゃないかと閃めき作詞したのが

始まりだ。

厳密に言えば 小学生の僕が作詞の定義は知るはずがないので、

日記の延長線上になってしまうのだが、僕の記憶の中では

一番古い作詞の記憶である。

今でもその時の詩は覚えている。

歌のタイトルはなかったのだが、 こんな感じのものだ。

1 曇った空を越えて
  大きな富士のように
  その広い大地に 僕たちは。。。
  崩れる土のように 僕らは卒業だ
  ゆけ 戻ることは ゆるされない

 実際 1番だけのものだが、小さな歴史の一歩は
 ここから 刻まれた。(笑)

  その後 高校へ進むとロックにはまり
  作詞をいろいろするようになった、

  ロック作詞講座なる本を買ったりして、作詞のイロハを学びながら

  高校を卒業して友達に誘われた飲み会で
  バンドマンのやつがいるからこないか?と言われて
  行ってみると意気投合してそのバンドマンに作詞を
  見せたら気に入ってくれ作曲と歌まで入れてくれて
  オリジナル楽曲が出来上がった。


  その後 作詞がしたいからバンドのボーカルをやり
  鳴かず飛ばずで辞めてしまったりしながら
  作詞を続けていった。

  作詞講座を受けながら投稿すれば9割くらい
作詞のワンフレーズから掲載され、佳作や秀作をとっていた。

 この雑誌は音楽業界紙として各レコード会社に配られていたようだが
  特に進展のない日々を5年は続けただろうか?

  バカの一つ覚えでラブソングを書いていた。

  しかし 一つ経験上から言うとラブソングというのは
  倍率が高いのである。

  僕の見解だが ラブソングなんて誰でも書けるわけで、
  そこから 独創的な世界観を出すのが難しいのだ。

  逆を言えば ラブソングが書けなくて困っていますと
  言う人がいるがその方がチャンスが転がっているような気がする。

  私自身も応援歌から殺し屋をモチーフにした作品。

  ちょっとアニメよりにシフトチェンジしてからは順調に進んでいった。

   当時 ボーカロイドが流行っていてその流行とSNSによる拡散で
   ニコニコ動画での作曲家とのコラボで毎月2作品くらい投稿していた。

  継続が力となってCD発売としばらくしてカラオケ配信が決まったのだ。

  その時 名乗っていたペンネームが竜崎真である。

  この名前は5回目の改名になるのだろうか?

  この名前は画数占いもしっかりしているので、とても良かったのだろう。

  五木ひろしと同じなのである。(笑)

  名前のパワーもバカにならない。

  今はなぜ竜崎真次かと言うと年号が変わったので、さらに縁起物の名前に
  改名したというわけである。

   そんなわけで僕はJ−POPからアニソン
   演歌 歌謡曲までかける作詞家   なのである。

   僕自身がオールラウンドの作詞家を目指すという目標があるからなのだ

   僕という作詞家2に続く。








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