「日韓中三国比較文化論⑨」

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3、「才人」日本の理知と集団性~宗教紛争・民族紛争を免れた稀有のポジション④

「「茶の湯(ティ・セレモニー)に招待されていろいろ質問したのですが、これはいくら説明しても外国人には理解できないことだと言われました。能を見たときもそうでしたが……」
「これは日本でもよく問題にされます。ある人は、この外国人には理解できないという文化の一面を日本人は貴びかつ誇りに思っているのではないか、といいます。私はそうは思いませんが、説明しようと思うと大変なんです。しかし、説明しようと思うと大変だという点では、外面的には欧米と同じように見える会社や銀行、また政府の組織も同じです。日本の社長は果して決定権を持っているのか、官庁での決定権はだれにあるのか、なぜこういう組織になっているのか、この説明も大変です。日本文化のこういう特徴が形成されたのは大体、室町から戦国にかけての時代でしょう」
「といいますと……」
「大体、足利義満のときから、北条早雲の伊豆攻略までですか。西暦一三六八年から一四九一年までが室町時代で、以後ちょうど百年、秀吉による小田原攻略までが戦国時代でしょう。この時代は混沌としていますが、一面ではルネサンスですかなあ。確かに、この時代、およびこの時代に発生したものを一言で説明するのはむずかしいです。要約すれば、古い日本を一度打ちこわしてばらばらにし、日本式秩序に再構成したような時代です」
 日本史に相当に詳しいあるアメリカ人との問答だが、この種の問答を何回やったことだろう。だが、室町時代史を読めば人は何となく感ずるかもしれない。このような下剋上的エネルギーが噴出して来る世界、古くからの秩序は崩壊し、貨幣が猛威を振るい、すべては混沌として最高の権力者でも明日の運命がわからない世界。その世界では、花の御所や金閣寺を建て、美姫をはべらせて美酒と珍味を味わっても、政治的・経済的心労の絶えない状態から逃れることはできない。
 ところが、ふと何かの拍子に、わずか四畳半一間の陋屋(ろうおく)の真中の炉の傍らで、一人の貧しい老農夫が静かに茶を飲んでいる。たとえ一時(いっとき)でも、ああいう平和な空間の中で、すべてを忘れた状態でいたい、という願望から侘茶(わびちゃ)が生まれる。というのは、あらゆる贅を味わった人間には、これが最高の贅沢だからである。
 これが茶の湯の発生だなどと簡単にはいえないが、日本文化の二面性、能力主義に基づく激しい競争社会と、それから隔離された静寂な空間への希求、同じように、もっとも殺伐なはずの戦国時代に、小笠原流といわれる礼儀作法が日本中に普及し出す。多忙の中の礼儀といった現代にもつづく二面性、これらは、室町文化以降の日本の特徴といえるかもしれない。
 そして混沌の背後にあるものが、一揆と貨幣であった。一揆は個人を自由にし、貨幣は人を大地から遊離させる。その不安定さが逆に安定を求める。この二つが室町時代を特徴づけると言ってよい。
 足利幕府はまことに統治能力のない政府であった。これは、幕府が無能であったというより、地方に根を張った一揆に歯が立たなかったといった方がよい。その点では、大地から切り離されて宙に浮いたような政権であり、それでありながら義満以下の将軍が、質素そのものであった泰時以下の鎌倉幕府の人びとから見れば、驚倒するような豪奢な生活をしていたのは、貨幣を握っていたからであった。
 日本人は極端から極端に走るといわれるが、土地を掌握しても貨幣を管理できないで倒壊した鎌倉幕府の次に出現したのが、貨幣は握っても殆(ほとん)ど領国支配のできない足利幕府であった。」
(山本七平『日本人とは何か。 神話の世界から近代まで、その行動原理を探る』)

「*1蓮如が世を去ったのは明応八年(一四九九年)、その十八年後にヨーロッパで宗教改革が始まり、五十年後の天文十八年(一五四九年)に*2フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来た。いわば日本仏教のプロテスタントの、農民戦争の最中である。彼は、いま考えると不思議なほど、知られざる東洋の一民族日本人を高く評価し、鹿児島から次のようにゴアのイエズス会士に書き送っている。「私たちが今までの接触によって知り得た限りでは、この国民が、私の接触した民族の中で一番傑出している」と。
 これは彼の誤解であったのだろうか。キリシタン研究の専門学者H・チ―リスク神父は次のように記されている。
「この初印象は単なる曖昧な感想ではなかった。シャヴィエルは彼独特の鋭い観察力をもって、住民の短所や欠点、または戦国時代の結果であった道徳や宗教の頽廃のこともよくわきまえていた。それにもかかわらず、その根本にある長所と文化的価値を強調し、その上にこそ自分の計画を立てるべきだと知った。彼が特に高く評価したのはおよそ次の三点である。
 第一には、日本は政治的にまた社会的に高度の制度を持っていること。何度もその手紙の中で政治的秩序、あるいは社会の各階級について述べている。
 第二には、すぐれた学問のあること。とりわけ、足利学校、比叡山・高野山などの『大学』を挙げて、これをパリ大学をはじめヨーロッパの一流大学にも匹敵すると書いている。
 第三には、日本人は、男女を問わずほとんどみな読み書きができること。これは、当時のヨーロッパ諸国では庶民階級のほとんどが読み書きができなかったことを考えれば、彼にとって驚くべきことであった。
 このような認識に基づいて彼は野心的なプランを立てた」
 彼の計画はまず京都へ行って全国の支配者である「王」と宮廷の人びとと会って伝道し、「上から下へ」の浸透をはかることであったが、この計画は当然にうまく行かなかった。「戦国」という空位時代は、実質的に「王なき」時代だったからである。そこで方針を変えて有力な地方領主に働きかけた。
 第二に彼は日本の有名な「大学」に行き、ヨーロッパの大学と連携させ、互いに学者を交換教授のような形で交流させようとした。そして第三が、宗教文学や教理の翻訳・紹介である。
 識字率の高い日本では文書伝道は確かに有効であろう。このザビエルの計画は「キリシタン伝道のみならず、東西両文化の交流にとっても画期的なことであった」とチ―リスク神父は述べておられる。だが、これらを実現するには、彼は余りにも早く世を去った。
 歴史には仮定(イフ)はあり得ないが、もし彼がもう一世紀早く日本に来て、蓮如と伝道競争をしたら、どういう結果を生じたであろうか、と空想すると面白い。というのは、彼の前にも「宗教的空白地帯」という新興農民層があったからである。もちろんそれは当時の政治・経済・文化の中心であった近畿ではなかったが、しだいに生産力を高めてきた地方の農村も、同じ状態だったからである。」
(山本七平『日本人とは何か。 神話の世界から近代まで、その行動原理を探る』)
*1蓮如…一四一五~一四九九。室町時代の浄土真宗の僧。真宗隆盛の基礎を築いた。
*2フランシスコ・ザビエル…一五〇六~一五五二。シャヴィエルとも言う。イスパニアのイエズス会宣教師。一五四九年に渡来し、各地で布教。

「明治三十一(一八九八)年十二月十八日、寒気が一段と厳しさを加えつつあるさなか、東京の上野公園は、時ならぬ賑わいで雑踏していた。数年来、上野公園に建設が進められてきた西郷隆盛の銅像がようやく完成し、この日、その除幕の式典が行われたのである。
 西郷死してすでに二十有余年。この長い歳月がすべてを恩讐の彼方に押し流してしまったのであろうか。
 とはいえ、よく考えてみると、やはりこれは、いささか奇妙な光景と言わなければならない。西郷はたしかに明治維新の最大の功労者の一人であり、死後その国民的人気はいっそう高まった感はあるとはいっても、仮にも士族暴動の指導者として政府に反旗をひるがえし、一切の官位・名誉を剥奪されて、「逆賊」として死んだ人物なのである。もちろん、明治二十二年の憲法発布によってその賊名は除かれ、正三位を追贈されていたものの、そうした人物の銅像が首都東京の玄関口に建設され、しかも、かつて西郷たちが打倒せんとした当の政府を代表する内閣総理大臣山県有朋が祝詞を述べたというのだから……。その山県は西南戦争に際して陸軍卿として、西郷軍討伐の総指揮をとった人物である。
 恐らく、こんな光景は日本以外の国ではめったにお目にかかることが出来ないのではあるまいか。例えば、トロツキーがいかにロシア革命に功労があったといっても、ソ連において、モスクワの中心部にトロツキーの銅像が建設され、その宿敵たるスターリンが除幕式で祝詞を読むなどといった光景が想像出来たであろうか。それだけに、西郷の銅像が建てられたことは、当時日本に住んでいた外国人には大きな驚きだったようである。
「欧州諸国では主権者に叛いた者は斬首したうえ、四肢を切断するのが習慣であった。日本では、明治大帝が西南の役における多数の謀叛人を赦されたうえに、その首領たる西郷の銅像を、上野に建てることを許された。それにはわれわれ外国人も驚いた」
 明治初年、大学南校(東京大学の前身)に奉職していたアメリカ人教師ウィリアム・グリフィスは、このように日本における反逆者に対する寛大な措置に、驚きの感想を洩らしている。」
(鳥海靖『逆賊と元勲の明治』)
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