小説を書く際のコツは何か。――様々な意見があるが、その一つとして「武器を多く持っておく」ことだと個人的には思う。
それは様々な小説・映画作品等から吸収していくものだとされている。
今回は小説の類型のひとつ「リドル・ストーリー」と呼ばれるジャンルについて考察しようと思う。
これは、ラストで結末が明らかにされていないタイプの小説のことである。
その際、伊坂幸太郎『バイバイ・ブラックバード』を例として取り上げる。
なぜなら、この作品がリドル・ストーリーを語る上で、かなり良いお手本となると考えるからだ。
ただし、リドル・ストーリーという類型の特質上、ラストシーンへの言及は免れない。必然的にこの作品の結滅部分について説明してしまうため、これから読もうと思っている方は、先にチェックしておくことをお勧めする。
『バイバイ、ブラックバード』は、伊坂作品特有の、あたたかみのある文章や、鮮やかな伏線回収、構成の遊び心に溢れた小説だった
以下、この小説の概要やすばらしい点について言及してから、後段では、その結末について考えたことを述べたいと思う。
目次
1.あらすじ
2.登場人物とその魅力
3.結末(※重大なネタバレ)
4.本論:虎でも女でも、どっちだってよかったんだ(※重大なネタバレ)
1.あらすじ
主人公の星野は、5人の女性と付き合っている。彼は「ある組織」への借金が返せなくなり、<あのバス>に乗せられてどこかへ連れていかれる予定らしい。彼が逃げ出さないよう、組織から派遣された監視・繭美とともに、5人の女性に別れを告げに行く。
この小説は、6章構成の連作短編集となっている。1~5章は、それぞれの女性に別れを告げる場面から始まる。彼女たちはシングルマザーから女優まで個性豊かで、そして、浮気されているとは思ってもいなかったので、五者五様の狼狽を見せる。このシーンは、2章以降ともなると、もはや様式美の趣を醸し、読者としてはにやにや笑いを抑えきれない。
各話では、星野と繭美が女性たちの抱える悩みを解決したり、別れないと言い張る彼女を納得させたりと、連作短編らしい奇妙で切れ味のいい物語が展開される。なにしろ、第1話からして、「ラーメンの大食いチャレンジに成功したら別れてくれ」という話なのだ。登場人物たちは大まじめなものの、通底するコミカルさとオチへの期待に、ページをめくる指が止まらない。
2.登場人物とその魅力
「この物語は、五股をかけた男が、関係を清算していく話である」――というのが、あらすじではあるのだが、この一文だけで関心を失わないでいただきたい。
正直なところ、いわゆるクズ男のドロドロごたごた劇には興味を惹かれない、という人もいることと思う。この小説がすごいのは、そうした「ドロドロごたごた」と聞いて想像するようないやらしさが、一切ないところなのだ。
その理由は、ひとえに主人公・星野の造形にある。
星野は、時々オーバーでユーモラスながら、実に「モテ」や「チャラ」からほど遠い男である。彼はどの女性とも、運命を感じて真剣にお付き合いしていた。
そこには、多くの女性と付き合うことへの執着や、「モテヒエラルキー」で上位に立ちたいといった動機が見えてこないのだ。
それゆえに、浮気男というものに対する嫌悪感が湧いてこない。実に奇跡的な人物造形である。
別れを告げた相手に情が湧いている姿などは、思わずこちらも同情してしまうほどだ。
また、星野は謎に包まれた男でもある。
なぜ彼が借金をしているのか、「組織」とはどのようにかかわったのか、まったく不明である。
この件について言えることは、「賢い者は語りすぎない」ということだろう。後ほど触れるが、いつだって、余白こそがもっとも魅力的なものである。そして、伊坂幸太郎は賢いのだ。
登場人物について語るならば、星野の監視として「組織」から派遣された繭美にも触れる必要があるだろう。
彼女は伊坂作品随一といってもいいほどの、強烈なキャラクターである。押しの強い大女であり、品がなく、あけすけにものを言う。
彼女を寄越した組織も謎が多いが、彼女くらい並外れた人間なら、そんなよくわからない(おそらくアウトローな)組織で働くことも、さもありなんという納得感がある。
他人の目など気にせず、唯我独尊を貫く彼女があってこそ、忘れられないラストが導かれるのである――。
3.結末(※重大なネタバレ)
作品を通して、読者はずっと、<あのバス>が来るときを待っている。
星野は本当にそのバスに乗せられるのか、連れていかれた先で何が起こるのか。
第6章では、遂に<あのバス>が迎えにやってくる。
乗ってしまえば、星野はとてもつらい目に遭うということだけ、はっきりしている。いわば絶体絶命の状況となったその土壇場で、救いの星となるのは、繭美である。
唯我独尊を貫く繭美が、星野を助けようと言い出す展開には、安易に言い表せない感動がある。ラストを突き抜けていったのは、恋愛だとか友情だとかをはるかに超えた、人間存在そのものに対する信頼である。
しかし、この物語は、結末を描いていない。
今回、重大なネタバレであることを承知の上で、結末について述べるのは、この点について考えたかったからである。
4.本論:虎でも女でも、どっちだってよかったんだ(※重大なネタバレ)
ところで、リドル・ストーリーというものをご存知だろうか。
端的に言えば、結末をはっきり書かないタイプの物語のことである。中でも、『女か虎か』という作品が有名だ。
wikipediaの「リドル・ストーリー」の欄に概要があるので、『女か虎か』の項だけでも読んでみていただきたい。
結末を明示しない物語は、好みが分かれるかと思う。
余韻があって好きだという人も、はっきり書いてくれないともやもやする、という人もいるはずだ。
自分はバキバキに後者であり、はっきり書いてくれないと気になりすぎて身もだえる。大丈夫だった作品は、映画『インセプション』と、この『バイバイ、ブラックバード』だけだ。
そう、本作ではもやもやしなかった。
この作品は結局、繭美が賭けに出るところで終わる。勝って星野が助かったのかどうか、一切書かれていない。
賭けに勝つかどうかは純粋に物理的な結果であり、「推理」することはできない。
それにもかかわらず、リドル・ストーリー特有のもやもやがなかった。
その理由を考えるのが、本稿の主眼である。
〇リドル・ストーリーは、読者を映す鏡である
『女か虎か』を見ればわかるとおり、可能性が公平に配分されたリドル・ストーリーでは、結末を「推理」することはできない。
読者が「結末はこうだ」と表明するとき、それはすなわち、読者の価値観の鏡映しに他ならない。読者自身の価値観が反映されるのみなのである。
本作を読んで、自分がなぜリドル・ストーリー的結末にもやもやを抱えるのか、その理由にようやく思い当たった。
「作品を作者とのコミュニケーションだと思っているため」である(僕はそういう読み方をする)。
電波っぽい(死語か?)感じだが、そういうことなのだ。
作品を読むことは、作者の意見を聞くことである。そのスタンスでいるタイプの読者は、最後の最後で、最も重要な結論をこちらにゆだねられると、困惑してしまう。
もちろん、作者の表明する意見や好みが、自分と食い違うのは構わない。「そういう考え方もあるのか」「新しい知見を得られた」となる。
あるいは、考えが難しすぎて自分に理解できないのも、全然かまわない。『インセプション』はこのパターンだ。一見すると結末が明示されていないが、緻密な計算の上に作られているため、丁寧に読み解けば結末を知ることができる(らしい)。
そうした丁寧なつくりへの信頼があるので、やはり「作者が結論を示さなかった」と感じることはない。
しかし、「意見がない」というのは一番困る。
学校で「間違ってもいいから何か書け・言え」と言われた経験がある人もいることだろう。
意見を表明してもらわないことには、その先のコミュニケーションが続かないのである。
すなわち、安易なリドル・ストーリーは、コミュニケーションの拒否である。
だからなんとなく、作者に見捨てられたような気になり、読者である自分の顔がそこに映っているのを見て、もやもやしてしまうのだ(ゲームの暗転中に自分の顔が映ってテンションが落ちるのと気持ちは同じだ)。
夢物語を見ているさなかに、自分の顔を直視したくなんか、ないのである。
〇リドル・ストーリーの価値は何か
ここまで書くと、リドル・ストーリーの株を下げようとしているかのようだが、もちろん美点もある。
リドル・ストーリーは最後の結末を隠すことで、バトンを読者に引き継ぐのである。
そこから先は、読者がどちらの結末だろうかと自分の頭で考える。そして、考えたならば他人と話し合いたくなる。
読者が互いの考えを交換することで、その物語にはっきりと結末を描く以上に、物語の可能性を豊かに膨らませることができる。
つまるところ、リドル・ストーリーの結末をとることで、物語は「土台」の側にまわるのである。
そこでは読者が主役だ。
仲間内でああだこうだと議論し、自分の意見を表明する時間というのは楽しいものだ。リドル・ストーリーはまさにそういう時間を提供してくれる。
〇本作の結末は
リドル・ストーリーについて以上のように考えたとき、『バイバイ、ブラックバード』にもやもやを抱かなかった理由が、自然と導かれる。
人間の善性が示されているからだ。
第6章を読みながら、読者はずっと、救いの手を待っていた。
詳細は分からないがひどい目に遭うという星野が、どうにか<あのバス>から逃れられないものか、ハラハラしつつも期待していたに違いない。
そこでついに、あの自分のことしか考えていなそうな繭美が動き、怒涛の救済案を提案する。ラストシーンの疾走感はすさまじく、読者を希望の光のほうへと連れていく――。
あの最終章を読めば、「星野は助かるんじゃないかな」となんとなく希望を持ったまま、そしてそれは実際に救出されるよりもずっと強固に希望として存在したまま、本を閉じることができる。
実際、助からなくてもいい。
結局賭けに負けてバッドエンドになったって、「そういう残酷な世界だから」というのなら、それで全く構わないのだ。
反対意見だってコミュニケーションがとれるならずっといい。上に述べた通りだ。
それでも、なんとなく繭美が賭けに勝つことを信じてみたくなるのは、本作まるごとかけて、人間の善性というものを示されたからである。
伊坂幸太郎のユーモラスでウォーミングな筆致、各話の心温まる見事な解決により、読者はすでに、人間というものの善性を味わってきた。最後に繭美もそこに加勢をした。
結末がどちらなのか、判断を下せる物理的な要素はない。
それでも、伊坂幸太郎は全編にわたって「意見」を表明してきたから、読者はもやもやを感じず、その「意見」を受け取ることができるのである。
ここで初めて、「組織」や<あのバス>について一切説明されていなかった賢さにも気がつくだろう。
借金の内容や<あのバス>の行き先で起こることが書かれていれば、読者は自然、人間の残酷さを思い、いやーな気持ちになる。そして、そこから逃れる具体的な方策に考えがフォーカスしてしまうだろう。
しかし、第六章の展開を読めばわかるとおり、星野を助けるのは具体的な脱出策ではない。
人間の善性である。
だからこそ、一種ファンタジーめくほどに、詳細はばっさりカットされているのだろう。
そうして初めて、伊坂幸太郎の示す「結末」が示されるからだ。
繰り返すが、作者が「ハッピーエンド」を示しているとは限らない。読者が「やっぱり助からなかったと考えるほうが好き」というのももちろん構わない。
重要なのは、作者からのなんらかの意見があることだ。
そうした意味で、本作はリドル・ストーリーの豊かさを残しながら、結末をはっきり書いてほしいと願う読者にとっても、満足した気持ちになれる一作だった。
リドル・ストーリーという可能性をご自身の作品に検討する際、多少なりとも参考にしていただければ幸いである。