泣き虫看護師が占い師を志したきっかけ①

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占い
そういえばまだ、自己紹介をしていなかったなと思い
今PCの前に座っています。

泣き虫看護師である私が、どうして占い師になろうと思ったのか、
自身でもあまり振り返ることがなかったので
今一度書き出してみようと思います。
長いので、シリーズ化(笑)します。

私は、1980年代半ば青森県で生まれました。
桜で有名な弘前市です。
私が6歳の時に両親が離婚し、私は父方の祖父母の下で高校卒業までを過ごしました。
兄弟はおらず、歳の近い従妹2人と祖父母で暮らします。多感な時期の女子3人をほぼ無償で育ててくれた祖父母には感謝しかありませんが、祖母は本当に厳しく、よく叱られました。叱られるのが怖くて嘘もつきました。
祖父は、悪い意味で無関心だったような気がします。
色々訳アリだったわけです。

いわば、「大人に振り回されて育った」私は、やけに人の顔色を伺い、
”空気を読む”ことが習慣化し、やがて自分の意思や気持ちを相手に伝えることがなくなっていきました。
「自分の気持ち」はあるのですが、相手がどう思うかを推察してしまうため、結局なにも伝えられず、やがてその気持ちは涙となって表れるようになりました。

小学生からそんな感じだったもので、中学からはいじめられるようになりました。友達も覚えてるかぎりは居ませんでした。
無視は当たり前、「彫刻刀後ろから刺したろ」と言われたり。
先生に相談したって、がんばれと言われるだけ。
たくさん惨めな思いをしました。

親にお金もなかったもので、なんとか自立したいと思っていました。
ですから、高校は「看護科」のある高校に入学したのです。
看護科のある高校では、卒業のときに県の准看護師の試験を受けられます。
合格すると、准看護師として働くことができるわけです。
田舎育ちで大学に行くお金も学力もない私が、最短で手に職を付けられる方法でした。
高校に入学しても、自尊心底辺な私は、周りに馴染むこともできず
本当の意味での友達はできませんでした。ずっと周りに合わせてフラフラしていたような気がします。

特に目立つこともなく、いわゆる「普通」だった私は、高校卒業後、祖父母の元を離れる決意をします。自由になりたかったんですね。
でも、親には頼ることができないし、准看護師としてずっと働いていくのは金銭的に厳しい、、、どうしようかと悩んでいるときに、
高校の先生から、千葉に准看護師として働きながら専門学校を卒業させてくれる病院があるよと聞き、飛びつきました。
このときのことはよく覚えています。高校から千葉の病院へは毎年1人しか出せないので先生も悩んだかもしれませんが、凪さんなら大丈夫かもと背中を押してくれたのです。
初めて「認めてもらえた」瞬間でした。

専門学校も無事に合格し(ちなみに専門学校の面接でも泣きました;)晴れて私は、辛いことの多かった地元から脱出し単身千葉へ乗り込みます。
このとき18歳。
この先の人生に希望しかありませんでした。なにも自分を縛るものもない、
自分で働いてお金も自由に使える!!と。
若い(笑)


専門学校時代以降のことはまた次回…
長々と読んでくださってありがとうございました^^

占いの情報発信も引き続き行っていきます!
ぜひご覧になってください^^





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