さくらももこ=まる子+コジコジではないか?(「もものかんづめ」によせて)

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コラム
さくらももこのエッセイ「もものかんづめ」を読んだ。その内容に笑い、感心し、僅かに作者に恋心を抱いた後、俺は嫉妬心に駆られた。なんという才能だろうと思ったのだ。

さくらももこの文章には嘘がない。自分自身が思ったことを素直に吐き出している。滑稽さで笑いと取ってやろうというピエロのようないやらしさは微塵もなく、本人は至って真剣である。

しかし、果たして、自分の不幸話をそのまま書いて読者を笑わせられるものだろうか。いや、そんなことはない。例えば、「私は交通事故に遭って、とても痛い思いをした。」という文章を読んで、笑う人は決して多くないだろう。意図的であるかどうかはさておき、何かしらの工夫がなければ笑いに昇華することはできないのだ。

さくらももこのエッセイを読んでいると、2つの工夫が見受けられる。

1、出来事のおかしみを誇張する表現を用いている。
2、自分の人間性を開示する。

1つ目に関して例を挙げると、「奇跡の水虫治療」という話において、当時高校生だった作者は水虫に罹る。様々な治療を試すが、中々回復の兆候は見られず、家族には笑われている。そんなある日、姉に水虫がうつり、作者は姉にこう言う。  
「これからは同じ水虫研究員として共に人生を歩もう」と”水研”に勧誘したのだが
(「もものかんづめ」より「奇跡の水虫治療」から一部抜粋)
「水虫研究員」というこの言葉。ここで初めて登場したのにも関わらず、発せられるやいなや、「水研」と略されているのだ。この一文だけで、当時の作者がどれほど長く孤独に水虫と格闘していたのかが分かる。きっと治療の最中、自分を「水虫研究員」なるものに仕立て上げ、ごっこ遊びで憂鬱を晴らそうとしたのだろう。そして何度も「自分は水虫研究員だ」と言い聞かせる内に、「水研」と略すようになったのだ。想像が膨らむほど笑いがこみ上げる一文である。

また、「結婚することになった」では、後の夫となる男性が作者の実家に挨拶に来た時のことが書かれている。夫が家族に打ち解け始めていたその時、下の階から祖母がゆっくり上って来て、一言の挨拶を残して戻って行く。その様子を作者はこう書いている。
薄暗い階段を、ノソノソと腰の曲がった白髪の老婆が登ってくる様は悪夢のようであった。(中略)孫をよろしくお願い致します」と言い残し、登ってくる時と同じ姿勢のまま、ノソノソと階段を降りていった。”沼に住む亀が、老婆に姿を化えて人間界にお告げにやってきた”というような、奇怪なムードにあたり一面包まれ、そのまま時は過ぎた。
(「もものかんづめ」より「結婚することになった」から一部抜粋)
階段を上がって来た祖母を不気味に描写するだけではなく、お告げにやって来た沼に住む亀に例えるのだ。この二段構えによって、読者は押し切られた形で笑ってしまう。

これらの工夫は随所に見られ、読者を的確に擽ってくる。作者のシニカルな目線があってこそのものだろう。

そしてこの明らかな作為は、もう一つの工夫によって、見事にいやらしさを醸し出さなくなる。それが2つ目、人間性の開示である。

「もものかんずめ」に書かれているエピソードのほとんどは、作者の赤面ものの失敗談である。明らかな詐欺商品を買った話や、色気がないと夫に叱られた話、恋に恋する乙女だった時代に綴ったイタいポエムの話など、これでもかというほど赤裸々に教えてくれる。

これによって、読者は1つ目の笑わせるための工夫にいやらしさを感じなくなる。なぜなら、自己開示された時点で、その道化っぷりに自己顕示や保身としての効果がなくなるからだ。「こんなポエムを書いた」と原文ママで公開している人が、「実は、面白がられるためにわざとおどけています」と言っても、聞き手は「何を今更」となる。自己開示は道化を演じる免罪符になるのだ。

ただし、この2つの工夫を両立させることは、簡単ではないと思う。それは技術の問題ではなく個性の問題として、だ。自己開示できるタイプと、シニカルな物の見方ができるタイプは両立しないような気がするのだ。

言い換えると、さくらももこのエッセイは、教室の真ん中で燥いでいる陽キャを、隅っこでこそそこと嘲笑している陰キャが、陽キャのように大っぴらに語ったように書かれているのだ。

これはどういうことだろう?さくらももこは本当は陰キャで、エッセイが、唯一の自己開示の手段になっているのだろうか?

いや、エッセイからは、インド旅行帰りの空港でインド人への悪口を喚いたり、夫の前で猿真似をしたりなどの、陽キャ特有の奔放な一面が垣間見える。確かに、さくらももこは陽キャでもあるのだ。その上で、自身を含めた人間を陰キャ的な目で捉えている。

この謎を解く手がかりとして、さくらももこの代表作、「ちびまる子ちゃん」と「コジコジ」を用いる。

「ちびまる子ちゃん」の主人公である、世の中を若干冷めた目で見ている小学生、まる子がさくらももこの子供の頃の姿であることは周知されている。しかし、俺は「コジコジ」の主人公であるコジコジも、さくらももこ本人なのではないかと思う。

コジコジは、ありのままを肯定する老荘思想の体現者のようなキャラクターである。テストで悪い点を取っても一切落ち込まず、先生から不勉強だと叱られても、「それの何がいけないの?」とクリクリお目々で小首を傾げる、自己肯定感の塊だ。

そして、「もものかんづめ」の巻末に収録された、お茶の水女子大学の教授(現名誉教授)である土屋賢二との対談には、さくらももこがこの絶対的な自己肯定の精神を持っていることが垣間見える。
土屋 さくらさんは、自分がやったこととか、お母さんに言い返したことと  かで、「ああ、悪いことをしたな」とか、何か一つでも反省したようなご経験はないんでしょうか?(笑)。
さくら ないですねえ(笑い) だって、私、怒られるようなことしてないじゃないですか。(中略)人に迷惑をかけたのなら、怒られてもしかたないと思うし、反省もしますけど、そういうことは一切していませんから
(「もものかんづめ」より「巻末お楽しみ対談」から一部抜粋)
いくら母親に叱られても、さくらももこ少女は「犯罪するよりはマシ」と飄々としている。これが時として人目を憚らずに気の向くままに行動できる由縁であろう。

この絶対的な自己肯定は陽キャ特有のものだ。つまり、まる子(陰キャ)とコジコジ(陽キャ)が合わさった存在、それがさくらももこなのだ。

そして、1つの仮説が導き出される。それは次のようなものだ。
「さくらももこは、人間の業を肯定している。」

これは落語の大家立川談志の明言を引用したものである。立川談志は、落語とは人間のどうしようもない部分を笑いに昇華するものであると説いた。俺は、この精神がさくらももこにもあるのではないかと思ったのだ。

つまり、さくらももこは自分を含めた人間の駄目な部分を笑い(まる子の陰キャ的な目線)、しかしそれでいいと肯定している(こじこじの陽キャ的な自己肯定)のではないか。

仮にこの考えが正しければ、俺の嫉妬も救われるだろう。なぜなら、さくらももこの器を借りて、自分自身を笑えるからだ。

読んでいただきありがとうございました。
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