タクラマの感じ方

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イエやすの敗戦後のしかめっ面自画像、みたいなことを書いておこうと思います。(前編)



第一段階「面白い小説を書きたい」

この頃は楽しかったですね。へんな文を書いては知り合いなんかに見せ、冷や汗タラタラなのすら見ずに、すごいねーとかいっぱい書いたねーとか言ってる人に自己満を更にぶつけて、なんの疑問ももたなかった。


第二段階「忖度の無い意見が欲しい」

無理難題を見知った顔に押し付けた結果増長した私は、ネット公開すればいけんじゃん! と軽々しく思い、即座に実行しました。
正確には、実行しようとした、ですね。
適当なものを書いて、文句が来ることで有名だったそこそこのサイトに貼り付けようとしましたけれど、最後のポチリまで来たところで、恐怖感が湧いてきました。それはどんどん膨らんで、小学生の頃自作の作文を読み上げろと先生に指名された時みたいなことまで思い出す始末。
結局最後の送信ボタンを押すまでに三日くらいかかりました。


第三段階「知らない人から面白いという反応が欲しい」

結局、初めて書きましたとか、自信がないですとか、噓まみれの補足を書きまくって最初の一投は、事なきを得ました。
「初めてでこれ『ならば』いいんじゃない?」
「お話『は』、結構綺麗で好きでした『よ』」
流石に書いている人達のお言葉には、滑らかさと棘が共存しているものなのだな、とか変なことの学習をしつつ、やはり私はこの程度だな、と思い知らされまくりました。
じゃあ次いってみよー、と掌編を書きまくります。新人アドバンテージは消え、感想もあまり書き込まれない日々。
他の作品には、いいですね、ここをこうしたらもっとよくなるかも、なんて褒め言葉や建設的なご意見なんかも沢山つきます。
私は正直言って焦りました。同時に、別にいいんじゃないの? などとも思い始めます。
見る目の無い奴ばかりだ。
自分で書いて終わったら喜んでストレージにしまって。それでいい。
なんてことを、独り言で口走るようにもなっていきます。

でもこんな独り言を言うってことは、それじゃあ満足できていないことの証明にしかなっていません。ここまで半年くらい、あれこれと努力して想像力みたいなものが付いたのだろう、だから知らなくてもいい自分の本音みたいなこともきがついてしまうのだろう、と悦び半分呪い半分の状態に陥りました。


第四段階「諦め」

それまで見向きもしなかった「小説の書き方」みたいな題名の著名作家が書いた実用書? を本屋で手に取りました。そのうちの一冊を買って帰ってベッドにぶん投げます。
無意味で無茶な自尊心です。こんな本を読んだら負けだろ、と思ってしまいます。つまり、生まれながらにして私は上手に小説を書け、知らない人に見せれば、拍手とか、少なくとも納得くらいは頂ける人じゃなければ嫌だったわけです。
「どこまでアホなんだ。」
とまた一人ごちます。
本を開くと、そこには当然のように、昔は下手だった、頑張っても芽なんか出なかった、と書いてあります。なんの違和感もなく、この人も苦労したんだなと思います。ほんの20~30ページで共感して、頷きます。
みんな知ってる有名作家だという大前提はあるにせよ、綺麗な文章、エピソードの配置、感情の浮き沈みの誘導、これらテクニックでこの本は書かれているのだと気がつきます。
内容は殆ど忘れましたけれど、切羽詰まった精神状態でプロの書いた文章を読んだという経験は今でも忘れません。
自分じゃ考えもしなかった「他人に伝えたいという気持ちの表現」がそこに歴然として存在しました。
一旦「素の私」を諦めた瞬間でした。

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