205 【戦国の女性に学ぶ】松~加賀百万石の礎、利家と共に築く~

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【戦国の女性に学ぶ】松~加賀百万石の礎、利家と共に築く~
 前田利家の妻松は、1547(天文16)年に織田信長の家臣篠原主計(かずえ)の娘として生まれています。
母は利家の母の姉です。


ところが、松が4歳のときの1550(天文19)年、父の主計が亡くなり、母が斯波氏の家臣高畠直吉と再婚することになり、利家の父利昌に引き取られ、前田家で育てられました。


 そして、1558(永禄元)年ごろ、利家と結婚します。
利家との間に、嫡子利長をはじめ、11人の子女に恵まれています。
お禰と深い関係


 夫利家は、信長の同朋衆拾阿弥を斬ったことで一時浪人しますが、信長に気に入られ、1568(永禄11)年には、信長の親衛隊赤母衣(ほろ)衆となり、さらに翌年には、前田家を継いでいた兄利久に代わり、前田家の家督を継ぎ、2450貫の知行を与えられています。



 よく知られているように、松と秀吉の妻のお禰(ね)は仲良しで、家族ぐるみのつきあいだったといわれています。
そうした関係から、利家・松夫妻の四女豪姫は、子どもがいなかった秀吉・お禰夫妻の養女となっています。


 1583(天正11)年の賤ケ岳の戦いのとき、利家は柴田勝家陣営に属していました。利家が勝家の与力大名だったからです。
ところが、利家は戦いの最中に撤退を開始し、そのことによって柴田軍の敗走が始まり、戦いは秀吉の勝利で終わりました。
いわゆる「戦線離脱」ですが、事前に、松とお禰の間で相談がなされていたのではないかといわれています。
利家への「異見」日常的に



 松と夫利家との関係で、注目すべきことがあります。
松が利家に、普段から「異見」していたことが、史料的に明らかなのです。今は「意見」と書きますが、当時の表記は「異見」です。
そのことがよく分かるのが、1584(天正12)年9月の「北陸版小牧・長久手の戦い」のときです。
秀吉方の利家と、家康方の佐々成政とが北陸能登・加賀国境で戦っていました。 
「川角(かわすみ)太閤記」という史料に、このときの松の「異見」が描写されていますので、かいつまんで紹介しておきましょう。



 佐々成政が大軍を率いているのを見て、利家が焦っている様子を察した松が、金沢城の金蔵から、袋に入った金と銀を抱えて出てきて、「佐々成政は戦(いくさ)上手です。
私はかねがね言っていたでしょう。
金銀を蓄えるよりも、人をお抱えなさいと。
そのように朝夕私は異見してきたではありませんか。
こうなった以上、この金銀を召し連れ、槍(やり)を突かせたらどうだ」と、金や銀を利家に投げつけたというのです。



 金や銀が槍を持てるわけはないので、皮肉もいいところですが、このエピソードで注目されるのは、「朝夕私は異見してきたではありませんか」という松の言葉です。
松は普段から、蓄財に走る利家に対し、「金銀を蓄えるより、家臣の数を増やしなさい」と「異見」を言っていたことが分かります。



 戦国時代には、松のように、夫である武将に「異見」を言うことは当然のことでした。ところが、時代が下るに従って、好意的には捉えられなくなります。
それは、男尊女卑の風潮が一般化していくのと軌を一にしているように思われます。
江戸時代になると、夫に「異見」を言い、政治や事業に口出しをするような女性は非難の対象となり、「雌鶏(めんどり)うたえば家滅ぶ」などと言われるようになります。



 さて、松が果たした役割で、もう一つ見ておくべきことがあります。利家が亡くなり、嫡男利長が利家の跡を継いで、松は髪をおろして「芳春院」と号していたときのことです。
利長が家康を討とうとする陰謀の疑いをかけられ、討伐されそうになるということがありました。
家臣たちの弁明で嫌疑を晴らすことはできましたが、芳春院は江戸へ下向しています。
言ってみれば、利長は、母が人質になったことで家を保つことができた形でした。
 松は、夫利家と共に「加賀百万石」の礎を築くだけでなく、身をていして前田家を守ったのです。



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