「子育てに関する矛盾と対立」静岡大学人文社会科(経済)学部2019年・後期

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(1)問題



次の文章は、中澤渉著『日本の公教育―学力・コスト・民主主義―』(中公新書、2018年)の一部でこの文章を読み、問1から問3に答えなさい。

① アメリカの社会学者ジェームズ・コールマンは、学校教育の普及による家族の変化を、以下のようにまとめた。

② 親が子に果たす主な役割は、何かを直接教育することではなく、学校に通うために必要な(主に経済的な)支援を行い、子どもを学校に通わせることへと変化する。それにより子どもは、何らかの職業に就くことが可能となる。そして親が老いれば、子が親を支える。子どもへの教育投資は、そういう意味で、自分(親)の老後への先行投資の意味をもっていた。

③ しかし産業化に伴い、高齢者の生活維持の仕組みが政府によって整えられた。年金や社会保険制度老親の扶養義務から子どもたちを解放していく。イエスタ・エスピン=アンデルセン(注1)が注目したように、福祉的機能を担うのは国家か、企業かといった違いは存在するが、基本的に高齢者扶養は外部化する方向に進んできた。こうなれば、子どもへの投資が自分の老後の生活のため、という意味が薄れる。

④ したがって、子どもへの投資意欲や子どもをもつインセンティブ(注2)は減退する。合理的な親ならば、(将来の先行投資にならない)子どもの誕生数を極力抑え、少数の子どもの教育に資源を集中するだろう。

⑤ 産業化で、生産基盤を生み出す源が家族から会社などの外部組織に移れば、家族を家族として結束させる重要な根拠が一つ失われる。生活のために結束する必要があった家族から、結束する必然性が失われて、代わって家族は「愛情」という情緒的なつながりを根拠に旧来の形態を維持するようになった。

⑥ 家族は愛情という情緒的結合を基礎に、自律性を手に入れた。ただ情緒的結合は、不安定なものだ。良し悪しは別として、生活に直結する結合であれば、家族がバラバラになるわけにはいかない。しかし情緒的結合を基礎とすると、愛情がなくなれば、一緒の生活が足枷(あしかせ)になり、苦痛を感じる。

⑦ 家族を構成する個人も、一人ひとり独立した人間だ。選択の自由という考え方は、家族のみならず個人にも適用される。生活上必要性を感じない制約は、単なる拘束や障害でしかないから、自由を求める風潮は強まる。また、テクノロジーの進歩が、個人の自由な行動をますます可能にする。以上のコールマンの考察を踏まえて考えてみよう。インターネットや携帯電話の普及はテクノロジーの進歩だが、これは個人単位での行動を可能にし、自らの関心を自分と周囲の狭い範囲に限定させる風潮に拍車をかけた。このことは、社会や共同体を意識する場自体が減少したことを意味する。これが社会の個人化とよばれる現象である。

⑧ 家族と社会との関係が変容すると、子育てをめぐり、家族が抱く利害と、社会全体としての利害との間に齟齬(そご)が生じるとコールマンはいう。具体的には、次のようなことだ。

⑨ 個々の家族は、子育てについて一定の選択権をもっている。もちろん、自分の子どもが望ましい形で育ってほしいと願うのは皆同じだろうが、その中身に共通見解はない。基本的に、すべての子が学校に通っているから、それだけでは飽き足りない家族も出てくる。家族として望む教育や子育ての方針と、それを取り巻く社会全体の価値観が異なることもあるだろう。

⑩ 子どもは、自身の方針に沿って育てたい。その思いが強ければ、親は自らコストを支払ってでも、好みに合った教育を受けさせようとする。しかし学校教育は、社会全体を維持するためのものであり、だからこそ公共性をもつ。特に公立学校の原資は税金なので、教育内容に一層の普遍性をもたなければならない。ただ、普遍性を保つことは、教育目標を抽象的で差し障りのないものとしやすい。そのため何らかの教育志向を強く保持する家族にとって、公立学校の教育は物足りなく、不満の源泉となる。

⑪ そうした家族が、私立学校に子どもを通わせようとする。もちろん日本の現行制度のもとでは、私学にも政府から一定の補助金が入っているし私学も公教育の一翼を担っている。カリキュラムが公立と全く異なるわけではない。しかし(そういう選択が可能な家族は、富裕層が多いと思われるが)、彼らは税金を納めながらも、主として税金で運営されている公立学校に子どもを通わせず、あえて追加の費用をかけて私立学校を選択する。

⑫ これは次のようなジレンマを(特に子どもを私立学校に通わせている高所得層の家族に)起こさせる。所得の増加に伴い税率が上昇する累進課税制度をとっていれば、高所得層の納めている税額は多くなる。したがって公立学校の運営費に、高所得層は貢献している。ところが高所得層は、(1)公立学校に強い不信感を抱いている。それで高い授業料を払ってまで、私立学校を選択する。納税の義務はあるので(もちろん納めた税が個別に何に使われているかはわからないのだが、感覚としては)公立学校の運営費に税金がまわっていくことは避けられないが、自分の子どもはその税金が多く注ぎ込まれた公立学校のサービスを受けているわけではない、と不満を抱くことになりやすい。

⑬また現代は、家族の個人化が進み、未婚者や子どものいない夫婦が増加している。子どもを産まない、育てないという選択は、やむを得なかった人もあれば、自ら進んで決断した人もあろう。いずれにせよ、彼ら彼女らもやがて老いるから、老後に備える必要がある。将来頼れる親族はいなくなる可能性もあり、将来の生活の責任は自分で負うことになる。それらすべてを個人で賄いきれないため、国家は年金や社会保険制度の仕組みを整える。

⑬ 年金にせよ社会保険制度にせよ、究極的には支え合いの制度であり、高齢者が一定の生活を維持するには、原資となる年金・保険料を納める現役世代が必要となる。また今の現役世代も、老いたら、将来の現役世代(現在の子世代)に頼ることになる。金銭的な問題だけではなく、物理的な意味で、介護サービスの担い手を確保する必要も出てくる。こうした福祉制度にとって、少子化は脅威である。身近な社会に限定すれば、子育てや高齢者介護なども徐々に社会化され、これらをすべて家族で担う必要性は減っている。老後の面倒を見てもらうために、子どもを育てるような時代ではない。それゆえ個別のカップルにとっての出産は、自由な選択の意味合いが強まり、子育てにかかる費用も、投資というより消費と見なされる。当然、結婚や出産に対して、他者が口を差し挟むことは余計なお世話となる。

⑭ しかし自由度の高まった個人を支えるのは、社会全体の制度である。その仕組みは、子どもや若者が一定程度存在することで成立している。つまり、少子化が進行しすぎると、個人の選択の自由を支える仕組み自体が危機に瀕するのだ。

⑮ (2)個人の自由と社会制度の間に生じるこうした矛盾は、子育て家族に寛容ではない風潮をうまく説明できる。「自由」を突き詰めれば、子どもを産んだのも、あなた個人が決めたことでしょう、という考えに行きつくことになるだろう。

⑯ だから税金を投じた子育て環境の整備、教育費負担の軽減のような子育て世帯を利する政策は、子どもをもたない人にとって、不公平感を募らせることになる。

⑰ しかし、子育ては、将来の社会の一翼を担う構成員を育てる意味をもつ。子どもがいなければ、そのコミュニティは将来死滅するに等しい。

⑱ 福祉制度は、現在、そして将来の現役世代によって支えられている。つまり、子育て世帯は、将来のセーフティ・ネット(注3)を支える社会的構成員を育てているともいえる。にもかかわらず、将来世代の育児や教育の多くを私費で賄わせようとするのは、あまりに身勝手だという不満を抱きかねない。

⑲ 子どものいない世帯には、子育て支援政策により還元されるものは、短期的に、また狭い範囲でみると存在しない。他人の子どもは関係ないし、下手をすると鬱陶しい存在ですらある。また子育ての喜びや楽しみを得る機会ももっていない。だから子育て支援のための増税には、一方的な負担だと感じるだろう。

⑳他方、子育て世帯にとって、自分の子どもはかけがえのない存在だ。とはいえ、子育ての金銭的コストは無視できない。そうしてコストをかけた子どもが自分たちの老後の面倒を見るという社会であれば、話は単純だ。しかし現実は、そうではない。世の中はもちろん積極的に結婚・出産を選択しない人も増えているが、子どもが欲しくてもできないとか、何らかの事情で結婚できない人もいる。そうした人々をすべて含めて、社会的に支えるのが福祉国家のあり方だ。

㉑だから子育てを、単なる個人的選択や楽しみと決めつけることはできない。子育てにかかるコストがベネフィットをあまりに大きく上回るようであれば、子どもの欲しいカップルでも、出産を躊躇せざるを得ないことになるだろう。

㉒表向き子どもは大切だといいながら、一方で子どもや子育てをめぐる非難やクレームがあとを絶たない。その背景には、以上のような子育てと、その利害をめぐる(3)解消しがたい対立が存在するのだ。

出典:中澤渉著『日本の公教育一学力・コスト・民主主義―』(中公新書、2018年)46-52頁。なお、出題にあたって、縦書きを横書きとした。また、原文にあった小見出しは省いた

 注1:イエスタ・エスピン・アンデルセンは、デンマーク出身の社会学者。政治学者。

注2:インセンティブとは、刺激、動機、報奨金といった意味で、意欲をかき立てるす用語。

注3:セーフティ・ネットとは、「網の目」のように救済策を張ることで、社会全体に対安心を提供するための仕組みのこと。多くの場合、経済的困窮者が最低限の生活を続けられるようにする生活保護等の社会保障制度を指す。


問1 太字(1)の「強い不信感」とはどのような不信感か、本文を使い140字以内で答えなさい(配点20%)。

問2 太字(2)の「矛盾」とはどのような矛盾なのか、200字以内でまとめなさい。(配点30%)

問3 太字(3)では著者は「解消しがたい対立」と述べているが、それについてあなたはどのように考えるのか400字以内で論じなさい。(配点50%)

子育て.png


(2)解答例

問1
学校教育は社会全体を維持するためのものであり、だからこそ公共性をもつ。特に公立学校の原資は税金なので教育内容に一層の普遍性をもたなければならず、この結果、教育目標を抽象的で差し障りのないものとしやすい。このため何らかの教育志向を強く保持する家族にとって公立学校の教育は物足りない。(139字)

問2
少子化が進行しすぎると、個人の選択の自由を支える仕組み自体が危機に瀕する。家族の個人化が進み、未婚者や子どものいない夫婦が増加する。こうした人々の老後の生活の個人で賄いきれない分を国の社会保障制度で補うが、原資や介護サービスの労働力を担う現役世代が必要となる。このように自由度の高まった個人を支えるのは、社会全体の制度であり、これは、子どもや若者が一定程度存在することで成立しているという矛盾。(197字)

問3
市場経済の原理が頭に染みついている人々にとって、教育や介護は対価を支払って受け取る、商品としてのサービスと同等のものと考える。したがって、少子高齢化が進展することで、自分たちが納めた税金に見合う教育や介護を受けられない事態に対して、不満を抱く。その背景には、市場経済を支える過度な個人主義や自由主義の考え方がある。
 しかし教育は個人的な欲望を自由に満たすものではない。社会保障は等価交換で商品を受け取る市場経済の原理に基づくものではない。義務教育は公共心を持った公民を育てることが目的であり、社会保障は市場経済では供給量が不足する公共財を政府が税金で補うという、財政の役割を具現化したものである。
 未来の社会を担う子どもは社会的資源である。これを保護者の所有物とみなすことで社会との対立が生じる。すべてを市場経済の原理で説明する考えを見直して、今や社会的な支え合いの原則を見直す時期に来ている。(399字)


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