「政治と文学」慶應義塾大学法学部2021年

記事
学び
(1)問題

次の文章は、評論家・福田恒存が一九四七年に発表した「一匹と九十九匹と」と題する作品からの抜粋である。著者の議論を四〇〇字程度に要約した上で、個人と社会の緊張と対立について、あなたの考えを具体的に論じなさい。

① ぼくはぼく自身の内部において政治と文学とを截然(せつぜん)と区別するやうにつとめてきた。その十年あまりのあひだ、かうしたぼくの心をつねに領してゐたひとつのことばがある。「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」。(ルカ伝第十五章)はじめてこのイエスのことばにぶつかつたとき、ぼくはその比喩の意味を正当に解釈しえずして、しかもその深さを直観した。もちろん正統派の解釈は蕩児の帰宅と同様に、一度も罪を犯したことのないものよりも罪を犯してふたたび神のもとにもどつてきたものに、より大きな愛情をもつて対するクリスト者の態度を説いたものとしてゐる。たしかにルカ伝第十五章はなほそのあとにかう綴つてある――「つひに見いださば、喜びてこれをおのが肩にかけ、家に帰りてその友と隣人とを呼びあつめていはん、『われとともに喜べ、失せたるわが羊を見いだせり』われなんぢらに告ぐ、かくのごとく、悔い改むるひとりの罪人のためには、悔い改めの必要なき九十九人の正しきものにもまさりて天に喜びあるべし。」

② が、天の存在を信じることのできぬぼくはこの比喩をぼくなりに現代ふうに解釈してゐたのである。このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に,感取した精神のそれであると、ぼくはさうおもひこんでしまつたのだ。かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのに相違ない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか――イエスはさう反問してゐる。かれの比喩をとほして、ぼくはぼく自身のおもひのどこにあるか、やうやくにしてその所在をたしかめえたのである。ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかかづらはざるをえない人間のひとりである。もし文学も――いや、文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか。

③ 善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩との名分のもとにおこなはれるのである。くりかへしていふが、ぼくは文学の名において政治の罪悪を摘発しようとするものではない。ぼくは政治の限界を承知のうへでその意図をみとめる。現実が政治を必要としてゐるのである。が、それはあくまで必要とする範囲内で必要としてゐるにすぎない。革命を意図する政治はそのかぎりにおいて正しい。また国民を戦争にかりやる政治も、ときにそのかぎりにおいて正しい。しかし善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない。

④ この一匹の救ひにかれは一切か無かを賭けてゐるのである。なぜなら政治の見のがした一匹を救ひとることができたならば、かれはすべてを救ふことができるのである。ここに「ひとりの罪人」はかれにとつてたんなるひとりではない,かれはこのひとりをとほして全人間をみつめてゐる。善き文学と悪しき文学との別は、この一匹をどこに見いだすかによつてきまるのである。一流の文学はつねにそれを九十九匹のそとに見てきた。が、三流の文学はこの一匹をたづねて九十九匹のあひだをうろついてゐる。なるほど政治の頽廃期においては、その悪しき政治によつて救はれるのは十匹か二十匹の少数にすぎない。それゆゑに迷へる最後の一匹もまた残余の八十匹か九十匹のうちにまぎれてゐる。ひとびとは悪しき政治に見すてられた九十匹に目くらみ、真に迷へる一匹の所在を見うしなふ。これをよく識別しうるものはすぐれた精神のみである。なぜなら、かれは自分自身のうちにその一匹の所在を感じてゐるがゆゑに、これを他のもののうちに見うしなふはずがない。

(中略)

⑤ ぼくの知りうるかぎり、ぼくたちの文学の薄弱さは、失せたる一匹を自己のうちの最後のぎりぎりのところで見てゐなかつた――いや、そこまで純粋におひこまれることを知らなかつた国民の悲しさであつた。しかもぼくたちの作家のひとりびとりはそれぞれ自己の最後の地点でたたかつてゐたのである。その意味において近代日本の文学は世界のどこに出しても恥しくない一流の作家の手によつてなつた。が、かれらの下降しえた自己のうちの最後の地点は、彼等に関するかぎり最後のものでありながら、なほよく人間性の底をついてはゐなかつた。なぜであるか――いふまでもない、悪しき政治がそれ自身の負ふべき負荷を文学に負はせてゐたからである。政治が十匹の責任しか負ひえぬとすれば、文学は残りの九十匹を背負ひこまねばならず、しかもぼくたちの先達はこれを最後の一匹としてあつかはざるをえなかつた。その一匹が不純なものたらざるをえず、この意味においてぼくたちの近代はそのほとんどことごとくを抹殺しても惜しくはない五流の文学しかもちえなかつたのである。

(中略)

⑥ ぼくがいままで述べてきた文学と政治との対立の底には、じつは個人と社会との対立がひそんでゐるのである。ここでもひとびとはものごとを一元的に考へたがり、個人の側にか社会の側にか軍配をあげようとこころみてきた。そして現代の風潮は、その左翼と右翼とのいづれを問はず、社会の名において個人を抹殺しようともくるんでゐる。ゆゑに個人の名において社会に抗議するものは、反動か時代錯誤のレッテルをはられる。ここにぼくの反時代的考察がなりたつ。が、それは反時代的、反語的ではあつても、けつして反動ではありえない。もし反動といふことばのそのやうな使ひかたが許されるならば、むしろそれは反対の立場にかぶせられるべきものであらう。ぼくは相手を否定せんと企ててゐるのではなく、ただおのれの扼殺される危険を感じてゐるのにすぎない。

⑦ 失せたる一匹の無視せられることはなにも現代にかぎつたことではない。が、それはつねにやむをえざる悪としてみとめられてきたのであつて、今日のごとく大義名分をもつてその抹殺を正当化した時代は他になかつた。それは一時の便法ではなく、永遠の真理として肯定されようとしてゐる。いや、現代はその一匹の失はれることすらみとめようとはしない。社会はその框(かまち)のそとに一匹の残余すらもつはずのないものとして規定せられる。個人は社会的なものをとほして以外に、それ自身の価値を、それ自身の世界をもつことを許されない。社会は個人をその残余としてみとめず、矛盾対立するものとして拒否するのである。だが、矛盾対立するものはなぜ存在してはいけないのか。いや、そのことよりも、個人はこのみづからの危機に際会してなぜ抗議しないのか。

(中略)

⑧ ひとびとはあらゆる個人的価値の底にエゴイズムを見、それゆゑに個人は社会のまへに羞恥する。が、現実を見るがいい――社会正義といふ観念の流行にもかかはらず、現実は醜悪な自我の赤裸々な闘争の場となつてゐるではないか、いや、なほ悪いことに、あらゆる社会正義の裏口からエゴイズムがそつとひとしれずしのびこんでゐる。当然である――いかに抑圧しようとしてもけつして消滅しきれぬ自我であり、それゆゑに大通りの通行禁止にあつてみれば、裏口にまはるよりほかに手はなかつたといふわけである。ぼくがもつともおそれるのはそのことにほかならない。社会正義の名によりひとびとが蛇蝎(だかつ)のごとく忌み恨んだエゴイズムとは、かくして社会正義それ自身の専横のもちきたらした当然の帰結にほかならぬのである。現代のオプティミズムは政治意識と社会意識とを強調してゐるが――それはそのかぎりにおいて正当な主張であるとしても――このさいひとびとの脳裡にある図式は、いささかの私心も野望もなき個人といふものの集合のうへに成りたつてゐる。たしかにかれらの世界観は知性の科学によつて空想的ユートピアに堕することをまぬかれてはゐよう。が、個人の秘密を看過したことにおいて、個人が小宇宙であるといふ古めかしい箴言(しんげん)を一片の反故として葬りさつたことにおいて、さらに社会意識といふものによつて個人を完全に包摂しうると考へたことにおいて、まさに空想的、観念的なユートピアの域をいでぬものであらう。

(中略)

⑨ ふたたび誤解をさけるためにことわつておくが、ぼくは文学者が政治意識をもたなくてはならぬとかなんとか、さういふ場でものをいつてゐるのではない。政治と文化との一致、社会と個人との融合といふことがぼくたちの理想であること――そのことはあたかも水を得るために水素と酸素との化合を必要とするといふことほど、すでに懐疑の余地のない厳然たる事実である。問題はその方法である。その理想を招来するための政治や文学の在りかた、社会や個人の在りかたが問題なのである。ぼくは両者の完全な一致を夢見るがゆゑに、その截然たる区別を主張する。乖離でもなく、相互否定でもない。両者がそれぞれ他の存在と方法とを是認し尊重してのうへで、それぞれの場にゐることをねがふのである。それをぼくはただ文学者として、文学の立場からいつたにすぎず、また今日のさかんな政治季節を考慮にいれていつたのにすぎない。

(中略)

⑩ 政治のその目的達成をまへにして――そしてぼくはそれがますます九十九匹のためにその善意を働かさんことを祈つてやまず、ぼくの日常生活においてもその夢をわすれたくないものであるが――それがさうであればあるほど、ぼくたちは見うしなはれたる一匹のゆくへをたづねて歩かねばならぬであらう。いや、その一匹はどこにでもゐる――永遠に支配されることしか知らぬ民衆がそれである。さらにもつと身近に――あらゆる人間の心のうちに。そしてみづからがその一匹であり、みづからのうちにその一匹を所有するもののみが、文学者の名にあたひするのである。

福田橿存「一匹と九十九匹と――ひとつの反時代的考察」『福田恒存全集』第一巻(文藝春秋、一九八七年)。試験問題として使用するために、文章を一部省略・変更し、漢字を新宇体に改めた。

(2)考え方


参考資料は「評論家・福田恒存が一九四七年に発表した」とある。

この一九四七年に大きなヒントが隠されている。

この年、何が起こっただろうか。

日本史や政治経済を勉強している人ならすぐに答えが出るはずだ。

1947年5月3日に日本国憲法が施行された。

日本は1945年に敗戦を迎え、連合国軍が進駐してきて、GHQ(総司令官マッカーサー)の指令に基づき、日本国憲法の起草が始められ、この年に施行された。1947年というのは、民主主義国家として戦後の日本が再出発した記念すべき年である。

このような新生日本の息吹のなかでこの文章が書かれたということを念頭に置くこと。

さらには、「一匹の羊」の喩(たと)えが、出題意図として、憲法の条文を含意していることに気が付けば、この問題の半分は了解できたと言ってよいだろう。

参考までに憲法の関連条文を挙げる。

第十三条【個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重】
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

このように、慶應義塾大学小論文では、「隠れテーマ」を見つけることが、至上課題となる。

今回の「隠れテーマ」は憲法13条の「個人の尊重」である。

代々木ゼミナールなど大手予備校の解答例は、この隠れテーマの存在に気が付かず、的を外している。

代ゼミに限らず、最近の大手予備校講師や赤本の慶應小論の解答例の内容には疑問を持つものが多い。

読者のみなさん、ご注意ください。

羊飼い.png

(3)解答例


  「百匹の羊のうち、もし一匹を失ったならば、九十九匹を野におき、失った羊を探さない者はあろうか」という『聖書』の言葉から政治と文学との差異を読み取った。国民の大多数のために政治があるが、そこには必ず網の目からこぼれた人間が出てしまう。文学はこの少数の人間を救うことを目的とする。政治が退廃した現代においては、政治は国民の大多数ではなく一部の者の利益にしか目がいかなくなり、文学は政治から排除された一般大衆に向けた対策を重視するあまり疎外された少数の者を看過するようになり堕落した。文学と政治との対立という議論には個人と社会との対立の問題が潜んでいる。現代においては社会正義という名の下に個人の権利が失われている。社会正義と言いながら、現実は醜悪なエゴイズムの闘争の場となっている。社会意識で個人の抱える問題を無視できる、あるいは解決できるという議論は空想的な楽観論である。政治と文学との一致、社会と個人との融合が理想である。両者の完全な一致のためにも、両者がその存在意義と方法論の違いを認識した上でこれを尊重し、その截然とした区別を主張する。

 日本国憲法の下で戦後の民主主義が始まり、70年以上が経過している。しかし、主権者である国民の意思が発動される機会は選挙等に限られており、多数決の原理は数の横暴を招き、利権を持った組織票に選挙結果は左右されて、総選挙の民意という社会正義の名を借りて少数意見は押さえつけられている。障害者や性的少数者、外国人などのマイノリティーの人権尊重の流れは緒についたばかりで、その道のりは険しい。こうした課題の解決に、筆者は聖書にヒントを求めている。「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉があるように、魂の救済が宗教や文学の使命であるが、形而上学では生活の困窮を救えない。日本の相対的貧困率は約16%もあり、先進国のなかでは高い数値となっている。1 9 8 0年代以降、新自由主義とグローバリズムが加速し、市場競争の優勝劣敗の原理に基づき、競争に敗れた者は自己責任の言葉で切り捨てられる。

 社会的強者はその経済力や社会的地位からくる力で社会的発言力を増している。しかし、日本には最低限度の生活すら存続が危ぶまれ、薄氷を踏む毎日を送っている人々がいる。政治はこうした人々の声なき声に耳を傾け、包摂的な支援を行うためにある。憲法の条文には「すべて国民は、個人として尊重される」とある。国民主権の「国民」を類として扱うのではなく、顔が見える個人の位置にまで政治が降りてきて、「個人」の幸福追求に資するための政治に変えていくことが求められている。そのためには、まずはコロナ禍における生活困窮者に対する税制や社会保障給付などの法的措置を早急講じることが喫緊の課題である。いまこそ、失われた一匹を政治が探しにいくときである。
(1170字)



サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す