「真に頼るものが持てない不安!💜」🎾🚴‍♀️⚔️🏓⛳😎😍

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コラム
💎西洋文明の背後には、宗教というものが存在しています。
しかし、日本人は、それを故意に認めまいとしてきました。
経済にしても、政治にしても、文学にしても、自動車にしても
洋服にしても、何にしてもそうやって受け入れてきたのです。
明治以来、日本人は、西洋の進んだ文化や技術やシステムだけを取り入れようとしました。
西洋の魂は受け入れず、心は日本で行こうとしました。
そして、和魂洋才という言葉を考えついたわけです。
これは、非常に便利な考え方でした。
しかし、よく考えてみれば、洋才には洋魂というものがあります。
洋魂なき洋才というのは意味がありません。
魂とは、その文学なり音楽なりの生命なのです。
日本人は、それにふたをして、できるだけ見ないようにしてきたのです。
気づいていないわけがありません。
でも気づいたら絶望的にならざるをえません。
というのは、欧米の文明を輸入したら、魂も欧米人の魂に取り換えなければ
ならなくなるからです。しかし、それはできません。
その矛盾というものをずっと引きずっているのです。
日本人は、とりあえず洋魂はシャットアウトして、和魂でやろうとしてきたのです。
明治以来、国家神道、あるいは、天皇を神と同一視する天皇教というものを
和魂としてやってきたわけです。
しかし、それが無惨にも破綻した結果、国家神道も天皇教もダメだという事に
なるのです。しかたがないので、戦後は、「無魂洋才」でやっていくことに
したのです。このシステムはうまくいきました。
これは、魂を宗教のことと考えればブレーキとなるからです。

建築もそうです。
私は、今の日本の大都市の街並みを美しいとは思いません。
しかし、地方の古い民家が残っている街へと行くと美しく見えます。
それは、昔の和風建築の伝統を守っていくことで
それぞれの家の様式が保たれて、ある水準を維持することができているからだと感じているからです。
都会では、特に東京では、西洋の建築を取り入れて
自己流にアレンジした洋風建築が多いのです。
この後に出現した洋風建築というのは、
イミテーションに過ぎません。そのため、ちぐはぐで
なんとも雑然たる街並みになってしまっているのです。

日本には、「八百万の神々」(やおよろず)の神々がいて
日本人は、長年「神も仏も」でやってきています。
家に中に仏壇と神棚が共存して、大みそかには、寺で除夜の鐘を突き
一夜明けて新年になれば神社に初詣に出かける日本人。
このように、仏教と神道を両方信じてきている日本人は、
宗教に対する寛容さを自然に持っているのです。
対照的に、一神教であるキリスト教では、一般的に異教の神を認めていません。
自分を信じるものを持っている人は、ある意味強さがあります。
それは、自分の行いを使命だと信じて行動できるからです。
このように見えないモノサシを持っているか、いないかということは
非常に大きな事なのです。
日本人はどうでしょうか⁈
「あなたの宗教は何ですか?」と尋ねられると
「無宗教です」と答える日本人はかなりいます。
これは、国際社会では通用しないことなのです。
「無宗教」ということは、目に見えない偉大な何かを信じていない人間というのと等しいわけで、むしろ不気味な存在と思われるのです。
もし、宗教を尋ねられたら、年に一度のお盆に墓参りする程度でも
「私は仏教徒です」と答えればいいのです。
神社の交通安全のお守りを持っているならば
「私は神道です」と答えればいいのです。
気功をやっている人であれば、「道教の信者です」と答えればいいのです。
エコノミック・アニマルというのは、単に打算で動く人間という事ではなくて
自分の信じる世界、見えない信仰の世界を持たない人間という意味に
他なりません。
日本人は、宗教というと危険なものと幻想を持ってしまうようです。
特にオウム真理教が社会を騒がせたことで宗教は危険という感覚を持つ
人が増えているのです。
真に頼るものがないという不安は、宗教を持たない日本人という問題抜きには
考えられない気がしています。

人間は、100%孤独では生きていけないだろうと思っています。
目に見えないけれど、誰かがみていてくれる、誰かの声が聞こえる
という感覚があるからこそ一人で行けるのです。
四国八十八か所のお遍路の人たちも、弘法大師と二人連れという感覚があるから耐えて歩き続けられるのでしょう。
実は、それが宗教というものなのです。

私は、世の中にとって宗教というものは具体的に役に立つものではないと思っています。
宗教とは、世の中のプラスになるものではなく
一見、マイナスの働きをするものではないのかと思っている次第です。
経済というものは、社会のエンジンでありアクセルです。
つまり加速する力です。
それに対して、政治はハンドルです。
ステアリングを切ってカーブを曲がり方向を決めていくのが政治です。
それに対して、宗教はどんな力なのでしょうか?
宗教は、一種のブレーキだと思っています。
経済がアクセル、政治がハンドル、宗教はブレーキ。
ブレーキとはスピードを止めるものです。

どんどん前年比で加速していこうとする社会に対して
減速させようとする。
ですから、社会において、宗教はマイナスの働きをするものなのです。
アクセルを踏みっぱなしの経済は、バブルが破綻した後はどうなったでしょうか!ブレーキのついていない車は、加速を続けていれば
どこかでひっくる返るに決まっています。
私たちは、ブレーキのない車には怖くて乗れません。

また、宗教は、道徳とは違います。
道徳というのは、具体的に世の中の役に立つものです。
宗教は、長い目でみると、いつかどこかで人間に対して
プラスになっている、それが宗教なのです。
宗教は、ブレーキです。
もし、人間の欲望をほったらかしにして置いたら
物欲も金銭欲も出世欲も無制限に加速していきます。
その挙句は、破滅が待っているだけなのです。
限りない欲望に、ここまではしてはまずいと思わせるものは、
やはり宗教の力だと思っています。
人間は、宗教というブレーキを持っていなければならないと考えます。
日本のビジネスマンの中で、目に見えない力の存在を意識して
仕事をしている人はどれくらいいるでしょうか?
欧米の経済理論の背景には、常に神という見えない存在があります。

アダム・スミスの「国富論」は、
19世紀以降の自由主義時代に世界の経済政策の基調になりました。
そこには、もし自由競争が極端に行き過ぎてしまって
バランスを崩しそうなときには、
インヴィジブル・ハンド・オブ・ゴッド(見えざる神の御手)が
必ずそれをもとに戻してくれるという考え方があるのです。
つまり、神への信頼があるからこそ、自由競争が成り立つ。
競争の経済の事を市場原理と言います。
少なくとも、資本主義の背後には、神という考え方があるのです。
それがあるからこそ、自由競争、市場原理というものが
具体的に社会に適用されるのです。
アメリカ人でも、最近では教会へ行くことが少なくなっているそうです。
しかし、常にゴッド(神)という言葉は出てくるのです。
大統領に選ばれれば、聖書の上に手をのせて誓いを立てて就任をします。
スポーツ選手も、試合に勝った時には、神に感謝をします。
裁判では、喚問された証人が神に対して、嘘をつかないことを
宣誓し、ドル紙幣には、「我々の信じる神のもとで」という文字が
印刷されています。

今、真に頼るものが持てない不安を感じている人は、
もっと不安になればいいと思っています。
不安になって、一体自分は、何に頼れるのか?と考えてみる。
その時、見えない何かへの信頼感が生まれると思います。
それを宗教とは言いませんが!
不安の芽を摘むのではなく、育てていくのです。
そうすることによって、もう一つの世界、見えない世界に近づくことができると思っている次第です。
そういう感覚を自分で実感できるようになった時
「新しい宗教感覚」が芽生えるのではないでしょうか⁈
その時、不安というものは、
むしろ新しい価値観を探す大きな入り口になっているのです!


皆さんに幸あれ💜~!!!



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