「男と女の”性差”!💜」🎾🚴‍♀️⚔️🏓⛳😎😍

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コラム
💎変化と固定💎
関係性は変わる、生き物のように!
「私の事好き?ずーっと好き?一生好き?」と聞くのは、
なぜかおおむね男ではなく女だ!
そうしてさらにどういうわけか、そう聞かれた男は、
「うん好き」とは答えない。どちらかというと答えを渋る。
これは、恐れるものの違いだろうと思う。
女は、物事が変化変容するという事を本気で恐れている。
嘘でもいいから、「変化しない」と言ってほしいのだ。
それを言わない男というのは、変化ではなく固定を恐れているいるのでは
ないだろうか。
「ずーっと好き」といった時点で、関係性や愛情が固定されてしまうと
無意識に思っている。
そればかりかずっと先の未来
「だってあのときずーっと好きっていったじゃない!」と、
「今」に責められることすら、恐れていたりする。
女がふられた場合、女は、相手に確認したい衝動に駆られる。
意味がないとわかりつつ、そうする場合が多い。
なぜ!それは、いっときでも私を真剣に好きだったと、
女は、どうしても言われたいからである。
そこまでして変化に抵抗したいのである!女は!ナンチャッテ!


💎男の勲章&女の勲章💎
女には、所有欲はないのだろうか?
コレクターにならずとも、ブランドものの新作バックなどを
嬉々として買うのは女性が多いし、
バーゲンだって群がるのは、女ばかりだ、と思うが
しかし、それは物欲であって所有欲とは違う。
新作バックが旧作になれば、それは箪笥のなかの忌々しい
存在に変わるし、バーゲンで買った安い服はいともたやすく
捨てたりする。
はて、所有とは何だろう?
双方の意思疎通はなく、一方が「持っている」と自覚しているもの。
自分のものだから思い通りになる。
いつでも触れられる場所にあり、また、触れなくてもそこにあり、
手放そうと思えばいつでも手放せる、何か!
被所有物・被所有者に選択の余地も拒否権もない。
確かに、女性は、恋人・配偶者を「所有」する、という感覚がない。
「あの人は、私の男」というような言い方が一般的にあるが
それは、「私のものとして持っている男」というのとは
やはり、微妙に違う気がする。
私の男って、もしかして、なんとなく「唾つけた」みたいなものに
思える。
それは、”面倒を見た”のであるから私の男という感覚!
「私の男」感覚、つまり、女の所有感覚というのは、
子供に対するものと同じ、もしくは似ているのです。
面倒を見るという感覚は、その対象物は「しっちゃかめっちゃか」です。
世の母親の実に多くが、子供は私のものであると思っている。
口では「子供には子供の人生が」と言いながらも、
やっぱり子供が成長し、自分の意に沿わないことを始めると
ぎょっとする。仕方のないことなのです。人間の道理です。
女性にはこうしたことがあるのです。
そう神様仏様が作ってあるのです。受け入れるしかありません。
そして、母親と娘の関係というのは、何かしら変化を迎える。
男は、母親とそうした確執がさほどないように見受けられる。
もしや、男は、自信を所有している母親をも所有していると
無意識に思っているのではないだろうか⁈
とすると、そこには、幸福な「所有」の相思相愛が
成り立つことになるのです。


💎ファッションがアピールするもの💎
男にとって「モノはモノ」
女にとっては「モノは私!」
モノ=私は、アイデンティティとは似て非なるなにかのように思う。
単純に言えば「好きを示している」
私は、こういうものたちが好き、よって私はこういう人間なんです。という事だ。
雑誌、ブランド、というものは、
だから、「私(がすきなもの)を具体的に示すラベルである。」
「私は、こういう人なんです」という、表明であり説明。
だから、全てが連動している。
パンク音楽とカルト映画とジャンクフードが好きな人は、
ミュウミュウは選ぶかも知れないがプラダとなるとちょっと違ってくる。
この場合のパンク音楽、カルト映画、ブランド、雑誌というものは、
すべて、「私」用のラベルである。
男にはこういうことがあんまりない男がほとんど。
しかし、中には、前述した男も存在する。
「ファッションに詳しくない奴は、とりあえずポール・スミスかアニエスベーを着ておけ」という事になる。
ポール・スミスを着ているからと言って自転車好きという訳ではないし、
バーバリー・ブラックレーベルを着ているからと言って、
あと十歳加齢したらバーバリーで身を固めるかというとそうではない。
だからときどき女は、ショックを受ける。
なぜその服を着ているのにそのミュージシャンを好きだというのか、とか。
なぜそのようなモード知識をお持ちなのに量販店の服しかきないのか、とか。
なぜそんな高級腕時計をしているのにデートといえば格安居酒屋なのか、とか。
「オレ」は「オレ」自体がラベルだから、自分を理解してもらうためのものは、オレ本人以外 男にとって不必要なものじゃないかと私は理解するが
どうだろう。
では、なぜ、女は、そういうラベルを必要とするのだろう。
おおげさだが、そこが社会との接点といってもいいのかもしれない。
それぞれのラベルによって「私」に必要な情報や友達、恋人を見つけているように思う。
天然素材の服が好きでヨガが好きでオーガニック食材が好きで
北欧の雑貨が好きな女性は、バーゲン時期に香港でブランド品を買いあさる。
ミシュランの星付きレストランに行くのが趣味の女性と共通の会話がほとんどない。そして、互いの存在をさほど求めていない。
ピンクハウスの服を着た女が、かならずピンクハウスを着た女と歩いている
のが、目に見える一番わかりやすい例ではなかろうか。
不良少女と優等生女子が親友になる漫画が時々あるが、
あれはやはり架空の世界の話で、実際にはそうそうない。
互いは、互いの持ちうる情報を必要としていない。
そのことを、それぞれの恰好でそれぞれがきちんとアピールしている。
とすると、女の「私」ラベルというのは、
男の会社や肩書、名刺と近いものがあるのかもしれない。
もちろんこれはたいへん大雑把なくくり方ではあるけれど。
これがアイデンティティではないと私が思うのは、
それはやっぱり「好き」に過ぎず
その「好き」はいかようにも変化するからだ。
十代の時真っ黒に日焼けして尻の見えそうなスカートをはいていた女子が
二十代になって美白に目覚めコンサバファッションに身を固めることは
奇妙な現象ではない。
高級ブランドしか身に着けなかった女が、結婚し子を産み
ユニクロとGAPしか着なくなることもある。
不良少女と優等生女子が「嵐好き」という接点でなら
充分親しくなれるのである。
客観的なものではないから、自分が何を好きかよくわからないまま
友人をまねしたり、親に勧められたり、通う学校の風潮に与(くみ)したりしてあやまったラベルをぺたぺた貼っている場合が多い。
そうすると、本当に親しい友達ができにくかったり
自分に見合わない恋愛をしたりする羽目になる。
そしてときに、恋愛そのものが、ラベル問題におおいなる混乱を招く。
ある女は、ロック音楽カルト映画好きでアンチブランド派だったが
好きになった相手の趣味を勝手に誤解して、コンサバな服を着るようになった。
たった一つのあやまったラベルの故に悩み、その人と付き合えるようになって
好きでもない服を着続けるのか、それでも私だといえるのか、と悶々と考えていた。結果的につき合う事はなかったのだが.....!
しかし、女は男次第!最初は!!
時がたてば、やはり、「私」というものがもたげてくるのが女では⁈
ほとんどの男にとって、特に日本人の男にとっては
服とは、「好き」という意味のラベルでもなく「オレ」でもなく
一体なんだろうと女に考えさせる人種なのです。
これ、まさしく男と女の性差なるものです。
そう皆さん思われませんか⁈ あしからず!!💜


💎自分とかけ離れた人を好きになるとは⁈💎
なにしろあまりにも違っているので
最初は新鮮だったが、すぐに、しんどくなった。
酒も飲まない、映画は見ない、小説は読まない、音楽の趣味も違うというか
そもそもひとつも重なる趣味がない。
どうして好きになったのかと自分でも謎だった。
しかもその「好き」たるや、すさまじかった。
理由がわからないからこそ、のめりこんだと思う。
今なら簡単にわかる。
その人は、私とあまりにかけ離れていて、
そして、そのかけ離れたものに私はなりたかったのである。
その人と交際すれば、「脱私」して、今よりずっとかっこよくて賢くて、
うじうじしていなくてクールで、何事もスムーズに処理できる私になれる
と思ったのだ。
男をみているとこういうことがないと思う。
自分にないものになりたい、というよりは
今の自分のままかっこよくなりたい、という方が近いだろうし
自分とかけ離れた誰かを、かけ離れているが故に好きになる
ということはないのではないか。
男は、無理だから好きになったわけではない。
高嶺の花ではあるが、腰を据えて話せば僕の良さにきっと気づくはずと思っている。
自分とかけ離れた相手に恋をした女は、
しんどくなったり、とことん無理と気づいたり、
あるいは、単純にふられたりして、わりと短期間でその恋を終えることができるが、
男は、いつまででも片恋をし続けていることが多い。
十五年ぐらい片恋をしている男を知っている。
それはもう、自慢できる種類の”特殊能力”だと私は思っている。

以上です。💜










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