連載「霊能者かんなぎの連載「霊能者かんなぎの人生」vol.9 霊能家系に生まれても、異端である人生」vol.9 霊能家系に生まれても、異端である

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連載「霊能者かんなぎの人生」vol.9 霊能家系に生まれても、異端である


なんとなく、人生を書き綴ろうと思った事に対した理由はない。
ただ、同じような思いをしている人がいるならば、そういう人に届けば良い、そう思った。



母が、多額の借金を残して、新しい人と家を出たのは、小学校高学年の時だった。その少し前から家に帰らない日が増えていたのと、服装がどんどん派手になっていたので、小学生の私も何か感じるものがあった。

「友人なのよ」なんて男の人に会わされた事もあったけれども、
相手の人は誤魔化しているようでちゃっかりと匂わせていたのも、
子どもながらに感じていた。

なんとなく、「大人って気持ち悪いな」という感情だけを抱えて、
でもそれを口にすることもなく過ごしていた。

そんな日々が続いたある日、母が私にこう言った。
「私、パパと別れてもいいかしら」

なんだか小学生にしては変に達観していた私は、
「ママの自由だからしたいようにすればいいんじゃない」と答えた。

そうして、したいようにした母は、家を出て行った。
なぜか高校に入るぐらいまでは、本当に時々、突然帰ってきてはあれこれ説教を巻き散らかしたり、恩着せがましくご飯を作って消えてったけど。

そうして、あれから何十年もの間、折に触れて、
「あなたが離婚していいって言ったから離婚したのよ」と言われ続けた。

親になって思う。
子どもに離婚の決定を押し付けて出ていって、それを一生言い続けるなんて、私にはできない。
何よりも、子どもを置いて出ていくなんてできない。
生涯女であろうとそれはどうでも良くて、でも、責任を子どもに押し付ける母は、いつまでも母親にはなれなかったんだと思う。



母に別れたくないと長文の手紙を書いた父の言葉は母には届かなかった。
むしろ、読むこともなく捨て置かれていた。

なんとなく元気がない父に、私は、「捨てよう」と言って、母が残していった服をどんどんごみ袋に詰めた。
ブランド物であろうが関係なかった。
母が借金を作ったのは、このブランド物の服やバッグや、お金持ちの友人に合わせて見栄を張った様々なものだった。
ブランド物に価値を感じない大人になったのは、多分ここに理由があるんだと思う。

最初唖然としていた父も、一緒になって捨て始めた。

「安っぽい色だな」とか「こんなバッグもあったんやな」とか、軽口のような悪態をつく父は、そうやって心を整理していたんだと思う。

私は、「全部捨てよう」と言って、もう使わないであろう布団も切り裂いて、今で言う断捨離を徹底して行った。

何十袋にもなったごみ袋。

深夜までずっと、父と私はひたすら捨てまくって、もう何もない、というところまで捨てて、そうして一緒にゴミ捨て場を何往復もして、そうして一息ついた。

その頃には、母のもので埋め尽くされた寝室は広々として、父の顔もなんとなく晴れやかだった。

新しい日常をこれから始めるにあたって、十分なイベントだったと思う。



でも、父も弟も私も、本当に傷が癒えた事はなかったんだと思う。

父は「女は懲り懲りだ。いいなと思ってももう先に進もうと思えない」と生涯独身を貫いたし、2つ下の弟は、普通に子どもだったから母が居なくなった日々を受け入れられず、母からの連絡に応答する事は一度もないまま大人になり、そうしてその過程でじわじわと精神を病んでいった。

母の代理を求めたのだろう、結婚相手はずいぶんと年上の女性で、母性あふれる人だった。

でも、その人でも埋められない傷があったのだろう。
ギャンブルにのめり込む人生を送り続け、更生しかかってはまた戻り、を繰り返し、何度も行方不明になり、父が何度肩代わりしてもまた借金をし、私と流血沙汰の喧嘩をしてもそれか変わらず、そうして最後にまた行方をくらましたままだ。

最近まで、弟の事を母のせいに一度もしなかった父が、やっと
「あいつが精神を病んだのは、母親のせいだと思う」と口にした。

それを口にできなかった父は、何十年も心の中にしまい込んで、ずいぶんと辛かったと思う。

私は二度の離婚をしているが、父は離婚の話をすると、離婚には反対しなかったが、必ず「子どもは必ず引き取れ」と言った。
もちろん私も手放すつもりは微塵もなかったのだが、今思えば、それもまた、父が「子どもの心につけてしまった傷」を気にしているからこその言葉なんだと思う。

でも、私は父を恨んだ事は一度もなかった。
父は仕事で忙しかったが、寂しいと思う事もなかった。
父をずっと尊敬してきたし、今でも尊敬している。
だから、もっと愚痴を言えばいいのに、もっと頼ればいいのに、と、父を見ながらずっと思っていた。



しかしながら、私は分かりやすくナチュラルに素行が悪い中学生に育った。
そこに理由があるとすれば、ただただ、スリリングで楽しい事をやりたかっただけなんだけれど。
生徒会に所属しながら、陰で煙草を吸ってみたり、まあ、色々と、楽しいと思う事は何でも手を出した。
優等生だと思っていた友達が、こっそりお酒を持ってきたり、そんな事もなんだか楽しかったし、だけれども、そんなちょっと悪い事では、何か足りないような、そんな気持ちをずっと持っていた。

それに、いわゆる不良と呼ばれる子たちと居ると、なんだかとても安心できた。それはきっと抱えている傷が共鳴したんだと思う。
その頃はそんな事を考えたこともなく、ただただ、スリリングで楽しい事をやりたい、そればかりだったけれど。

先生たちによく、生徒会に所属しているのに、とか、成績は良いのに、とか嘆かれたが、生徒会だって先生に職員室に呼び出されて三ツ矢サイダーで買収されたもので、別にやりたくてやったものでもなかったし、成績だって、高校に行くつもりもなかったのでどうでも良かった。
だから成績の事を言われるから勉強もやめた。落ちぶれれば先生たちも諦めるだろうと思った。

渋々選んだ高校では、勉強をまともにやらないどころかまともに学校に行った記憶もない。
ただ一つだけ、渋々でも高校を選んだのは、当時まだ少ない情報処理科があった事が理由だった。
早いうちからパソコンやマイコンに触れさせてくれていた父のお陰で興味を持ち続けてきたものだった。
もしかしたら三年間通うかもしれない、という思いもあり、情報処理科を選んだ。

ただ、情報処理の勉強は楽しかったが、やはり行く気がないままの高校生活を一年で終えてしまった。
とっとと辞めたのは、きっとどうせ辞めるから、と父親に迷惑をかけないためにレベルを下げて特待生として進学をしたので、学費の大半が免除になるために学費を負担させているという後ろめたさがなかったのもある。

それなのに後から、父から「母が入学費用に100万必要だからと言って持っていった」と聞いて驚いた。
特待生として進学した理由は、その入学費用も免除になるからだった。
こんな事ですら子どもを利用して自分のお金にしてしまう母という人が、今でも良くわからない。



そうして、高校を一年で中退し、15歳の時に家を出た。
家を出たことに理由なんてなかった。単に、自立すれば大人の仲間入りだと思っていたからだ。
とても安直で幼稚な理由でしかない。
父や弟から離れたかった訳でもなかったし、連絡を取り、家にも帰っていた。
ただただ、自分がバイト代で自立することが、自分のアイデンティティの確立に必要な要素だと思った。
それだけの理由だった。

毎日バイト帰りに渋谷のセンター街に行き、遊んで帰る。
別にクラブや、当時まだあったマハラジャやジュリアナに行くことだって、珍しい事でもなかった。
行けば同世代に必ず出会ったし、そんなバイトと遊びに明け暮れた日々は普通に楽しかった。
どこに行っても、抱えている傷が共鳴する子に出会って、そうして友達になる。そんな事を繰り返していた。



昔から、先生たちの「東大に入れるんですか?」なんてお世辞に、「私の子だもの」と喜んでいた母を、色々な事を通じてがっつりと裏切りたかったんだと思う。
母の思うようには育たない、そういう思いがどこかにずっとあったんだと思う。
なんとなく、それは今でもあるような、そんな気がしている。


ただ、浅はかだったと思うのは、父に対しての配慮がなかった事だ。
母に対しての復讐と言わんばかりにお利口な自分を切り捨ててきたが、そこに父に対しての配慮がなかったことを、今になって申し訳なく思う。
それから、諦めるだろうと思った先生たちの一部は、最後まで私を諦めなかった。「まだいつでも、人生はやり直せる」と、卒業式に手彫りの印鑑をくれたりした。
「高校をこのレベルまで落とす意味はあるのか」と最後まで出願を受け取らなかった先生もいた。
小学校の頃から荒れ始めた私を察した小学校の最後の担任も、最後の最後に私に、「お前はお前の人生を生きろ、親の顔色や人の顔色を見るな」と言った。
高校の担任も「やれば出来るのに、進級は決定しているのに、どうして辞めるんだ。理由を正直に話せ」と、最後まで退学届を受け取ろうとしなかった。
こうやってくれた言葉は、大人になってから更に重みと意味を持つ。
当時の先生たちに感謝をしたいと、今でもずっと思っている。



それに、高校を中退したからこそ言うが、大学、できたらせめて高校は出ておいた方が良いと思う。
大人になってから、取りたい資格を取れなかったり、学歴の壁にぶち当たる事がたくさんあった。
一応高校に進学して、一年の修了式の日に退学届を出した自分は、その頃はそれでもなんとかなると思っていた。
確かになんとかなる。

でも、やりたい事が学歴の壁でてきないという事は、とても大きな障害だった。



私は出来た親ではないけれども、私への復讐のために人生を棒に振るような事はしてほしくなかった。
子どもたちには、この話をして、せめて高校は出てくれとお願いし続けてきた。
後から分かるから、と言い続けた上の子は、成人してから、確かに後から分かった、と言ってくれた。
とてもありがたい事だ、と思う。



そんな私の人生を語る事に意味があるのかはわからない。
ただ、自分がもし、異端だと思っている人がいれば、
また、これから先の話を通して、苦しい人生を歩んでいる人に「ひとりじゃない」と思って貰えれば、と思い、
不定期ながら人生を語らせていただこうと思う。
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