大和ミュージアムにて

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先日、広島県呉市の大和ミュージアムに行ってきました。
いろんな展示物がある中で、どうしても見入ってしまうのが「図面」。
時間も限られていますので、ある程度”巻き”で見て行かなければならないのは分かってるんですが、これは仕事柄、素通りできない”性(さが)”ですね。

昭和初期から戦時中の図面自体、普段なかなか見ることのできない代物ですが今は特別展示として、「航空母艦」(今で言う「空母」ですな)のコーナーがあり、これがまあ図面だらけの部屋でした。

いろんな船の図面を見ていてふと気づいたのですが、戦前なのにいろんな文字や寸法が、現代と同じ左横書き(左→右)で書かれています。
 「これは軍事機密だから?」
 「当時の最新技術をもつ西洋式に合わせた?」
 「戦後、複写するときに書き換えた?」(←そんなことする意味がない)
いろいろ考えてみたのですが、憶測の域を出ません。

亡き父が予科練の通信兵だったという話は聞いたことがありますが、当時のことはあまり思い出したくなかったのか、戦時中の詳しい話をしてもらった記憶はほとんどありません。
ある時、「戦時中に潜水艦なんてあったのか?」と尋ねたことがあるのですが、「酸素発生装置の図面は見たことがある」と語ってくれたのが印象に残っています。

残念ながら戦艦大和の図面はほとんどが焼かれてしまい、残存するものはほとんど無いとのことですが、当時の我が国の技術の粋を集めた、まさに最新技術の結晶だったということを知りました。技術屋の端くれとして、ものづくり魂は次世代へ継承していかねば、と一人鼻息を荒くした次第です。


あとで調べてみて初めて知ったのですが、「戦前=右横書き」ではなかったんですね。恥ずかしながら、今までずっとそう思い込んでいました。
これは縦書きのときに、改行すると左へ移動することになりますが、一文字ずつ改行していくと右横書きになるという仕組みだったそうで。
また、すべての文字が右横書きではなく、看板や新聞の見出しなど、短い文章は右横書きでしたが、戦前でも横書きの長い文章なんかは普通に左横書きだったそうです。知らんかった・・・・
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