どのくらい意識を引き上げるときなのか

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ちょっとネガティブなイマジネーションになっちゃうんですけど、この間ね、あるサイキックのビジョンの話を小耳に挟んだんですよね。

 彼が2025年7月に見えたビジョンはなんだったのかというと、四国の一部と岡山を除いた、日本全土が水に沈んでるっていうイメージだったらしくて、「もちろん、そうならないです、ならないようにがんばりましょう!」っていう、お話のシメだったんですけども、私はそのトークの前後は聞いてないものの、そこでちょっと考えちゃったんですよね。

 多くの予言書や預言者が、人類の3分の2が2025年の終わりまでにいなくなってるっていいますよね。


三人に二人が消える状況って何?って思うじゃないですか。
やっぱり。

イマジネーションがどんどん広がりますよね。

 そして、その残り期間1年にもかかわらず、日本で、そうそう三人に一人も死んでる状況がない。ワクチンの副作用で、って言うとしても、今のところ20万人とかで、確かに多いけど、自分の身の回りのほとんどの人とは、今日も明日も元気に会うほうが多い。
そして、それが何ヶ月も続いていきそうな感じ。

ならば、その人口減って、理由は遅効性のものじゃないってことでしょ???
だから、なおさら、何?って思うんですよね。

だから、この四国と岡山しか残ってないっていう状況ほどのことがあれば、確かに、人口減は一気に現実味を帯びると言うか。
ああ、そんな状況で3分の1生きてたら、本当に奇跡だな、って思った。

で、サイキックは、「死ぬって決まってる人はなにをやっても死ぬんです。生きるって決まってる人は、どこにいても生き残るんです。」って言っていた。

そりゃ、そうだろうよ。w

けどね、そこで私が考えたのは、サイキックがその時話した意図とは外れることかもしれないけど、

言い換えれば、人類の3分の2が、(理由はわからないけど)、余命一年前後、って決めているってこと?

って思ったんですよ。
そして、その時が来てみないと、それが自分なのか、自分じゃないのか、はたまた家族なのか、それ以外なのか、まったくわからないってことですよね。

その状況を、ただ、想像してみた結果、行き着いた考えは、
「もし、自分がその3分の2のひとで、もうあと1年しか生きない、って自分の高次存在が決めていたとする。そしたら、今、この世の中がどんなふうに見えるだろう?」ってこと。

頭にきた〜!!と腹のたつ〇〇さんも、なんて悪どい脱税してやがんだ〜という苦々しい思いでみる政治家や、国民を搾取しているチートな国のシステムも、子供がいい学校に入ってくれないかな、と躍起になって夜遅くまで塾三昧にしてることも、世の中の人がいま囚われていること丸ごと、全部全部、水の下に沈む。

そしてその時、人類は、なにが本当に自分にとって大事なことだったのか、失って、初めて、気づくわけなんだな.....

そしたら、今、自分が関心を向けていることの99・9%全てが、本当はどうでもいいことなんだ、と思ったんだよね。

政治問題の関心は高い方で、行政とか、国政とか、ピカチュウと議論を交わすことも度々あるけど、そんなことすらどうでも良くなってきた。

この間、玉ちゃんに北方領土を返還しないロシアについてどう思う?それはいけないことだと、ママは思う?って聞かれたときも、
口をついて出たのは、こういうことだった。

「別に日本が北方領土の権利を主張しなくてもいい。そこに住む人が幸せならば、幸せだと思える国に所属しててもらったほうがいいと思うんだよね」って答えていた。理屈を使えば、政治的には、いろいろあると思う。GDPが、とか地下資源が、とか海洋資源が、とか地政学的に、とかいろいろあると思う。

 でも、津波で全てがなくなったとして、その時なにが大事だったか気がついた心境になって考えたならば、北方4島に住んでいる人が毎日穏やかにしあわせを感じ、自由を噛み締めて幸福に生きているかどうか、の方が重要で、ロシア領でそれが実現できるなら、そうしてもらっていいし、日本領の方がそれが可能だと思うなら日本に所属ってことでもいいし、結局、国とか国土って原点に戻ったら、なんなんだろうなぁ〜と思うようになったんですよね。

人が引いた境界線でしかなくて、国境ってなんだろう、とすら思えてきた。

「ただね〜おか〜さんは、中国に所属したら、今より幸せを感じられなくなりそうな気がするから、中国に日本が領有されるのは嫌だなぁ。それは思う。もし中国が日本よりも良い統治をしてくれて、そこに住む人がみんな幸福にかんじられるなら、中国でもいいけど。」
と答えた。
 もっと正直に言えば、とくに日本に所属しなくてもいいけど、いまの優しい京都の人たちが住んでいる京都の京都市には所属していたい。w 
 国益だとか、国難だとか大きな枠でいろいろ議論されても、結局、人の心の中には、自分の人生と関わりの深かった人や場所への郷土愛だけがのこるんじゃないだろうか。

 沖縄の基地にしろ、竹島にしろ、国内のリトルチャイナの話にしても、すべてが水に沈んだらおしまい。議論も、そこに白熱することも、こだわることも、全てが意味なし。ワクチンを接種したかしないか、だってもうなんの意味もなくなるかもしれない。そんなことに関わらず、死ぬ人は死ぬし、生きる人は生きる状況だろうから。

 もっと身近な生活のなかで想像してみると、日頃、出社拒否になるほど、嫌いな上司もその日には死んでるかもしれないし、覚えの悪い部下にイライラすることも、もうどうでも良いことの一つでしょう。

 その日が来たら、水の下に消えた都市を眺めながら、そんな上司に右往左往して暮らしたあの日々はなんだったのかって思うと思う。もし子供が死んだとしたら、あの時、どんなにムカつくこと言われたとしても、そんなの気にせず、もっと家族で楽しい時間を過ごせばよかったな、って思うと思うはず。
腹を立てる相手を見ても、一年後この人が死んでいなくなるとしたら、と考えたら、怒りはなくて、別な気持ちが湧いてくると思う。
 最近、今日、言葉を交わした人が、半年後、みんな死ぬとしたら、自分はなにを感じるだろう?という想像を、実験的にしてみたりする。(いや、それは逆に自分が死ぬことだってあるわけなんだけど。)

 スピリチュアル・サイキックたちは、この一年どう過ごすか、にかかっているってみんなが口を揃えていう。

 それってさ、

皆さんが、あと一年の寿命だとしたら、今を一生懸命、真剣に生きた方がいいよ。今、やっておきたいことをしっかりやって、地球で体験したかったことをがっつり経験して、地球を離れるときに納得して上に上がれる状況にありますか?

ってことが言いたいんじゃないか、って、ある晩、天井を見ながら、そう思ったんだよね。

すべてが意味なし。

今、執着し、正義にこだわり、絶対にこうでなくては!絶対こうであってほしい!と思って、その選択一択で自分が固執しているもの全てが、意味なし。

要するに、釈迦の伝えてきた「煩悩」そのものであることが浮かび上がるんですよね。
すべてが目の前から、消えた時、全ては重要でない物事だったことに気が付く。すべてが幻想で、すべてが自分が勝手に作った囚われだったということに気が付く。そんなものと一人相撲しながら、人生を終えて、人生を生きた、と思っていたのが人間なんだということに気が付く。

退廃的な感じですけど、虚無主義みたいですけども、
なんかねぇ。人類のそんな未来を予測しちゃいましたよ。(汗)

私自身にしても、

うちは高いところにあるし、まぁ内陸部だから大丈夫か〜と思ってたけど、四国と岡山しか残らない津波じゃあ、日本全国どこへいっても同じだよね。w
自分はちがう、ということは言い切れない。

そして、そうであるとしたら、今、私たちにとって、一番意味のある生き方っていうのは、果たしてなんだろうね?
とも、改めて思ったんだよね。

だって、今、学問的な探究をして、それを発見して、楽しい!って、人に伝えようとしたとしても、伝える人がいない状況、研究対象が水の下に沈んでしまうような事態になったら、やっぱり全然、意味なかったってことに気づくと思うし。独りよがりの楽しさであると言えるかもしれない。そして、これもまた「煩悩のひとつ」だったんだって、その時、気が付くことになるんだろなぁ、とか。だからあくまで趣味として、

 自分にとってそんな状況で、後悔することってなんだろうなぁと思ったら、やっぱり、こどもたちのことなんですよね。

きっと、もっともっとたくさん可愛がってあげたかった。
 もっともっとあったかい愛情に包んで、ほっこりしながら家族で笑い合いたかったって、その時、思うような気がする。

昨年、玉ちゃんがかけよってきたことがあったんですよね。
「お母さん!大変!早く抱きしめないと、私、大きくなっちゃう!もう時間がないんだ!」
っていうんです。可愛いですよね。w

「ええ?どういうこと?!」
ってびっくりして聞いたら、真剣な顔をしてこういうの。

「私、昨日より、今日、もっと大きくなってる。毎日、毎日、どんどん小さな子供じゃなくなっちゃうの!そしたら、お母さんはもう私を抱っこできなくなる。私、甘えられなくなっちゃう!だから、今のうち、ぎゅっと抱きしめて!」

 そんな玉ちゃんじゃないけど、世界があと一年だとしたら、このメンバーでまだ家族やれているかってことすらも、先はわからないわけで、だとしたら本当に、このときがいかに貴重で大切かって思う。

 そして、ある意味で、腹を括って、優先事項を決めて、もうどうでもいいことは、全て切り捨てちゃっていいんじゃないかな、って思えてきたんだよね。
だって、それで文句や悪口言う周囲の人間がいたとしてよ、そいつは一年後水の下かもしれないでしょ。みんな死ぬなら、そいつを気にして、自分のしたいことを優先しなかったことを、自分は後悔するんじゃないだろうか。

 本当は好きでもなんでもないけど、空気読んで合わせてたママ友に、自分が与える時間とエネルギー、少しでも節約して、本当にエネルギーと時間をかけてあげたいところへ向けたくない?

女性ならよ、生活優先にしないで、ちょっと自分のポリシーを緩めてでも、いまの夫ともっとロマンチックな時間をすごしときゃよかった、とかね、(自分はそういう思いは毛頭ないけど)いろいろあるんじゃないのかなぁ、と。

多分だけどさ.....もし、のこり1年しか寿命がなかったとしたら、ある日突然やってくる死を前に、自分以外のものを気にして、自分の意志を優先しなかったことこそが、すべて、すべて後悔になるよ。

それくらい、世界を俯瞰して、それくらいの真剣さで、自分の魂に従った優先順位に沿った生き方が実現できているか、と言うことと、今後、大量の人の死の流れがあった状況下で感じることは、しっかり相関するって思うんだ。

 ペットもそう、子供も、パートナーもそう。
もし明日2度と会えなかったとしても、自分は、絶対に後悔しない応対をしてるかな。近頃、そんなことを思う。


チベット密教なり、仏教なりを勉強すると言うことは、実はめちゃめちゃ自分の死と向き合うことでもあって、仏教世界は、瞑想を通して自分を内観しながら、ひとが生きることと死ぬことを徹底的に分析・科学していく。

それがどんな意味を持つのかを知ってても、死ぬことは怖い。苦しみながら死ぬ怖さもそうだし、一人で逝くことが怖い人だっているだろうし。
いずれ全員が死を迎えることを知っていても、そこにわざわざ向き合おうとするひとたちなどほとんどいない。いつかはその日がくるだろう、と思いながら、かんがえることを先延ばしにしているだけ。

 でも、死を真剣に考える心の力がついたら、同じぐらい真剣に生を全うする力が生まれてくるんじゃないか、そんなふうにも思えるんだよね。
だって、全ては、裏表だから。
陰陽は、もともと一つなんだよ。

密教は、全て、極に分けずに、単にエネルギーと考える。

良いか悪いかではなくて、その強いエネルギーをどこに向けようとしたらより建設的なのかという方向で、人の欲やエゴの力を意識的に使って、かえって生きる力に利用しようとする。

それは算命学世界にも通じることで、車騎星のほうが強くていいとか、禄存星がもてて金持ちで良いとか、そういうもんじゃなくて、エネルギーが身弱であろうが身強であろうが、どの星であっても、すべてはどこにその性質を用いるか、どのように用いるか次第で、生きる世界がまるで変わる。

 損得善悪何もなく、結局のところ、全ての星は、どこへむけてその生命エネルギーを発揮していけばいいのか、次第なんだよね。
そういう意味では、幸運も不運もない。

そして、それに対して、適切な道筋をつけて方向づけるところで、プロファイラーの力量がはっきり出てくる世界。

ほとんど多くの人間が、自分の囚われている幻想世界のなかで遊んでいる。そのことをちがう場所から、プロファイラーが、ちゃんと見えていて、構造を理解できていなければ、適切なアドバイスなんてものは、絶対にできない。それどころか、自分も巻き込まれて、潰れてしまう。

 そういう世界を知れたことが、この地球環境を最大限生かして得た、自分にとって最高の財産だったかもしれないなぁとも思う。

多分1年後、3分の2の一人として、自分が消えることになったとしても、きっと、ここでこの立ち位置で、学んだ覚りは消えない。
すごいバーチャル世界だったなぁって、あの世に帰ってから思うと思う。

こんなことを自分が思うようになったのは、今、地球が次のフェーズの準備をしているからだと思う。
そのフェーズにむけて、全ての人は準備をさせられていると思う。

「いま、あなたにとって、本当に、本当に大切にしたい地球での体験って、どれなの?」

多くの人が、次の地球から、そう問われていると思う。

だからね、今日の記事が心のどこかで響いた人は、是非、今一度、自分と対話してみてほしい。


悩む人は、悩む才能を持ってる。
そして、釈迦は、この世が苦しみがたくさんある、って気が付くところから真理への道が始まる、といった。

 ひとに人生を相談するってことは、なにか悩めるものがあり、苦しみを苦しみとして認識する力がある。
それは、決して悪いことでも、重荷でもなくて、実は真理へ、一歩づつ進もうとしている魂の姿でもあるんだよね。

不運や不幸なんじゃなくて、真理に到達する道をまさに今、自分が進んでいる証拠なんだから、どんどん探究していくといいと思うんだよね。

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