生日中殺の子供は、この世の理解を超えた子

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昨日は、御霊神社でお祭りがありました。

 この神社は、歴史的に非常に古い神社で、平安京が始まったきっかけになった、なくなった天皇の弟の無念の気持ちを慰めるためにできた、京都にとって最も重要な神社の一つですが、関東のような公式感の強い祭りとちがって、地元の人たちがメインとなって、子供も大人も全員でこのお祭りを守ってきました。そして、外側からも、京都に昔から住まう人の人生の一部になっている、温かいお祭りであることを肌で感じられる1日でした。

 東京の祭りは、見に行く気がしません。なぜなら、お祭り関係者がギスギスしていたり、荒っぽかったり、地元で長く住んでいる人以外に対しては、排他的だったりするムードがあり、我先にの混雑感も子供にとっても危険で、正直とても誰かに話しかけられるような状態ではなく、お祭りの現場近くにちかよることすら迷います。

 ところが、京都のお祭り関係者はそうした態度とは真逆。他人だろうが、地元だろうが、関わる人たちが優しいこころで、祭りを全員にとって和やかな場にしようと心遣いしています。祭りを扇動する大人たちから、子供たちにあったかい言葉かけのシーンがたくさん見られたのが、また印象的でした。
 大人に育まれていることを、子供が実感しながら育つ場が京都にはたくさんあると感じられます。

 そして、上の娘たまは、誰に言われたわけでもないですが、祭りや仕事を撮影したり、地元のお祭り関係者にあちこち、インタビューして回っていました。警察官にも話しかけに行って、警備に関する話などを聞いていました。
帰ったら、これを学校で自主学習として発表するのだそうです。
そんな変わった小学生の娘に、面倒な顔ひとつせず、丁寧に答えてくれていた京都の大人の姿たちに、本当に嬉しく思いました。

 そして、うちの子供たちがお祭りででくわしたら、「あ〜〇〇ちゃ〜ん!」と地元の習い事や学校の多くのお友達と、楽しそうに社交していたのも印象的でした。

帰宅後に子供たちに聞くと、東京では同学年の子や顔見知りとお祭りなどで偶然出会っても、無視されることのほうが多かったのだそうです。
 東京では、子供たちの生活環境の中に、友達っていいものだよね、と思えるような状況が、全くと言っていいほどないのだと思います。

 でも西の子供は、大阪も含めて、基本的にどの子もひとなつっこい印象です。人を信頼しあうことを知っています。京都の根っからの地元の子たちは、何人もの子供が一緒に遊ぼうよ、とうちの子たちを熱心に誘ってくれたりもするんですよね。

 ママが嫌がるから、友達を呼べない、という子供の方が、東京では多かった実感です。そもそも親同士も、東京では友達ポーズばかり上手い人たちが多かったので、その建前の言葉通りに受け取って実際仲良くしようとすると、距離を取られる、と言ったことはよくあり、その矛盾に悩んだり、本当にこの人たちは生き物なんだろうか?と何度、思ったかしれない状況をたくさん体験してきました。

 しかし、京都では子煩悩が多いですので、相手の子のお母さんもお父さんも共に喜んで本心から受け入れてくれていて、私としてもかなりホッとします。
自分の子以外は子ではない、みたいな東京とは雲泥の差です。
 そして幸いなことにここでは未だ余所者扱いされたことは一度もなく、上京区を中心とした京都の人間性の高さに、心からありがたいなぁとリスペクトの気持ちをもって、仲間に入れてもらっています。

 京都はよく、いけずだ、と言われるけども、それは本当に違う。
むしろ東京の方が最強のいけずばかりだったと、私は思うのです。
 確かに京都でも商業地の下京区や南区あたりは、今でも軽犯罪が多く、ナビが何度も警告をだしてくるほどのところではあります。戦国時代そのあたりはスラムだった場所なので、そういう流れを汲んだ場所にずっと住んできた古い京都人には、時代の厳しさの中でやさぐれた結果、そういう意地悪な質の悪い人が多い傾向が見られるのかもしれません。
 しかし、観光地から離れて、町がワンブロックかわるとまったく人の質が変わってくるというのも、また京都の面白さなんですよね。

 私の生活する京都は、本当に人を大切に思う心がたくさん残っています。
とくにこの辺りの子供たちは、そういうあったかい親や教師、地域の大人たちの背中を通して「仲間」とはどういうものなのかを、よく知っているんだと思います。
 そして京都には古くからの祭りが年中たくさんありますので、街を上げて協力して、なにか一つのことをやり遂げる伝承があるこのような土壌が、未来の健全な仲間意識やコミュニティづくりにも大きく貢献していると感じます。

 ともかくこちらにきてから、子供たちの内面もずいぶん豊かになり、子供たちの世界が、良い先生、よい社会にかこまれて、健全に育まれているのも感じます。まさに、移住によって、色々な面で、世界が180度変わったと言えるでしょう。


ちなみに京都は、日本全国に先駆けて、最初に小学校を作った都市です。しかも、京都市民がお金を出し合って、子供に良い教育を与えたい、と思って設立したのが始まりだったのです。
 どれだけ子供思いな土地柄なのか、わかりますよね。
 歴史的にもそうなんですね。


今日は、そんな子供の生活の1ページを実学算命学に絡めてちょっとお話しします。

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1ヶ月前のことでした。姉のたまが、夕食の時、なにかのきっかけでバレエのトレーニングに熱心でないことを指摘され、再び、どうせやっても褒めてもらえない、お母さんに褒められたいからバレエをやっているのに、と、蒸し返すようにゴネ始めたことがありました。

 ここで、ピカチュウ的には、「しのごのほざくぐらいなら、とにかくやれ!やってからものを言え!」と頭ごなしに怒鳴ってしまう、態度悪い型の車騎星がでそうな場面です。

(※車騎星さんでも、もっとソフトに伝える方はいっぱいいますんで、価値観としてはこの路線であっても、車騎星すべてがこんな態度というわけじゃないですよ!)
ピカチュウがイライラしはじめたのが見えて、「ああ、めんどくさいなぁ」と、わたしはどう、この場を切り上げようかと思いはじめていました。

 玉堂星の玉ちゃんは、単に、ママに甘えたいだけだからです。
玉堂星の方というのは、普段、理性的に振る舞っているその反動で、あるとき急に、ふとした瞬間、丸ごとママにぎゅっと抱きしめられ、ヨシヨシされたくなる時があるんです。
でも、天将星はプライド高いので、なかなかそれが素直に出ない。
甘え方が下手くそなんですよね。w

そのちょっと角度の違う甘えが表面化しただけということもわかりますが、車騎星・牽牛星といった官の星は甘えを律してなんぼですんで、ピカチュウには、そういうのがなんだか、イライラっとして、わ〜(怒)って感じになるんですよね。

 楽しい夕食が地獄に変わるのだろうか、やだなぁ〜

と、間に立たされた自分としては、その間をどうとりもつか、頭の中でゆっくり考えておりました。
 そんななかですね、家族の中で、突然、鳳閣星ならではの意外な整理能力を発揮したひとがいます。

そう、生日中殺の娘、陽です。


 普段、同学年の男子から「ぴよぴよ頭のぴよこ!」とあだ名を付けられている、この下の娘が、そのとき急に姉に向かって強い口調で切り返したんですよね。

「玉、あなたは、なんのために踊るの?」
って。

生日中殺といえば「ザ・不思議ちゃん」です。
親だけが、生日中殺を理解できないわけではなく、年干支は社会で出会う一般の人をも表しますので、先生も友達も含めて、生日中殺のひとと交流すると周りの人たちは「どこか掴み所がない、なんかうまくいえないけど、ちょっと変わった人だな」と感じます。
 ですから、「ピヨ子」と呼ばれている、と聞いた時、子供の世界でもそうなのか、と私はおもわず吹いてしまいました。

 一言で言えば、彼女がどんなキャラクターかと言えば、クラシックピアノ漫画の名作「のだめカンタービレ」の、「のだめ」がめっちゃ近い。
のだめ、って何を考えているのか読めないじゃないですか。
そして、徹底的に葛藤をさけ、快楽選択で状況を解決しようとする。w
のだめ、まわりからは不潔と言われようが、外側からの脅威がない限りは、自分の内側感覚に従って生きる面もある。

そして、ある面で天才。練習方も独特で、普通の人には考えられない方法で、いきなり才能を伸ばしてしまったりするわけですよね。

 だから、生真面目そうで自分を追い込むわりに、肝心なところで「ああ!そこでアンタ、コケるか!?」とつっこみたくなるパパと、快楽・堕落?に流れる感性型の娘の陽をみてると、私は時々、千秋とのだめを見ているかのような錯覚を覚えるんですよね。
まぁ普段、ボヤッとしている。子供というよりも、動物っぽい娘。

その娘がですね、「ママは全然私のバレエを褒めてくれないから、やる気がでない〜」とごねはじめた姉に向かって突然、こう言い放ったのですよ。

「たま、私、それは違うと思う。わたしがなぜダンスを踊るのかってさ、ダンスは誰かにじぶんの感じる世界をつたえることなんだよ。
 ダンスを見てくれる人たちが私を見て、わたしが感じている豊かな感情をしって、私は、私と一緒にそれを感じてほしいって思うから、踊りつづけてるんだよ。わかる?」

一瞬みんなが固まりました。
だれが発言したのか、分からなかったからです。

陽は続けます。
「私は、世界にたくさんある心地よい気持ちや楽しい気持ち、うっとりする気持ち、悲しい気持ち、世の中の色々な気持ちを、私を通してもっともっと味わってほしい、そう思う気持ちだけしかない。だれかにそれを届けたい、ってそう思って踊ってる。」

「だから、玉みたいに、わたしはだれかに褒められたいなんておもってないんだよ。そりゃ褒めてくれたら嬉しいけど、私が踊るのは、私が感じている豊かな世界を、そこにいるみんなと同じ時間、同じ気持ちをいっしょに共有したいっておもうから。それだけなんだよ!」

 家族全員が真剣に姉をしかる妹をみて、一瞬、ぽかーんとしてしまいました。

(のだめ、そんな深いことを考えていたのか!!!)

「玉はなにかをもらおうと思って踊ってる。でも私はみてくれた誰かからなにかをもらうことが目的じゃなくて、わたしのほうがみんなに何かをあげたいって思って踊ってる。だから、玉は、全然大事なことがわかってない!」

机をどん、と叩いて真剣にいう生日中殺の娘に、私たち夫婦はこのひと、なにかが憑依したのではないかと一瞬顔を見合わせて、ごくりと唾を飲み込みました。

 小学校2年生のピヨ子から出てくる言葉とは思えず、しかもめちゃめちゃ本質をついたプロの大人の意見すぎて、なんといっていいかわからず、.....要するにうろたえたんですよね。

で、どうなるのかな、とおもって見守ってたら、しーんとなってからしばらくして、姉の玉がしずかにこう言った.....。

「......いま、陽のお陰で、わたしがなにがちがっていたのか、はっきりわかった。」

「私はダンサーとして、基本姿勢が間違ってたこと、やっとはっきりわかった。大事なことを教えてくれてありがとう。私は本当に未熟だった。」

って、うなだれながら、姉は、そう言ったんですね。

「私がずっとお母さんに褒めてもらいたかったのは、陽ばっかりほめてもらってるのがあって、そして、絶対そういう陽に勝ちたかったから、嫉妬してた。でも、本当は陽の方が、バレエのこと、ちゃんとわかってたんだってことに気づけた。なんで、陽ちゃんにわたしが負けてたのか、今、ようやく気づいた。
わたし、自分が恥ずかしいわ。陽ちゃん、嫉妬して、邪魔ばかりして、嫌なことばっかり言ったりやったりして、今まで、本当にごめん。」

シーンとなっているなか、陽は、姉の肩をたたきました。

「わかってくれてよかった。でも、もう気にしないで。だって私だって、いつもちゃんとしてたわけじゃないよ。それに私も玉のうまさにたいして、おんなじことを感じたこともあるし、邪魔したくなった時もある。わたしもごめんなさいって言わなきゃならないんだよ。」

と床に座り込んだ姉の手を取り、ハグしたのだった。



それから、玉のバレエに対する姿勢はガラリと変わり、学校でも有名な仲良し姉妹なのだけど、二人はもっともっと仲良くなって、私は子供たちだけで完結して成長していく姿に、なんだか圧倒されてしまったんですね。


 昭和のガツガツ系の親からすると、次世代型のこどもたちの世界は本当に爽やかで清い世界ですよね。
 そしてそれを親が下衆な見方で、こわしちゃいけないなぁと思いました。

そして、のだめっぽい陽のいきなりの豹変にあらためて、生日中殺のポテンシャルに驚いたりもしました。
「肝心なことはすでにしっていて、この子は本当に踊りたくて、ここに生まれてきた子なんだな」と思いました。

生日中殺の子供というのは、地球になにかを届けにきている子供です。
この子供たちは、親の想定した世界を簡単に飛び越えて、親がそれまで見たこともない世界で異能を発揮していきます。
 この世のことには疎い傾向がありますが、深いところの真実は、親よりも掴んでいたりするのです。


 ですから、親の価値観で、そういう子供を知らずに常識に縛ってしまうことがいかにまずいことか。

生日中殺をお子さんに持った方は、育て方に絶対条件があります。
それは、子供の方が自分よりも上の世界からきているんだ、という自覚です。
この世のことについては、確かに親の自分たちの方が経験値は長いです。

でも、宇宙次元のレベルで言えば、子供の方が自分よりも高いところからきていることの方が往々にして多い。
だから、その核の部分はちゃんと尊重して育てなくてはいけないんですよね。
この世の考えや実際的な方法論と、生日中殺が持つ宇宙的発想との調和点を探してあげることが親の役割と言えましょうか。

だから、生日中殺の子供をコケにしたり、ダメだと決めてかかったり、親の勝手なフィルターで判断したり.....こういうのが一番その子の人生を破壊することにつながります。

生日中殺の子供は、親の跡を継ぎません。
親の土台を利用したりはしますが、その子自身が描いてきた人生設計図に従って生きることが、その子の地球でのお仕事そのものです。

生日中殺のことしては、この親はそれを手伝ってくれるだろうと想定して信頼して生まれてきたのに、親がそれをまっこう否定する側になったら、その子が発揮できません。生まれてきた意味がわからなくなります。

 もちろんこの子たちは、発想が宇宙人的ですので、説明されてもよく意味がわからないことは多々あるでしょう。
でもだからといって、その子に問題があるとか、子供を変えようとか、教育しなおそうとか、そういう概念をもった時点で、生日中殺の子を育てる親としては、もう完全にずれてしまっているわけです。

逆に、親の自分がその子から、新しい何かを教わる姿勢になってはじめて、生日中殺は本来の生き方で動き出し、その背中を見て親が育つのです。

 生日中殺の子供の視点からは、常にこの世界になんとなく違和感があります。生まれてくる前の記憶を忘れているわけですので、自分の馴染んでいるルールと違うルールで動く地球に馴染めなさをどこか感じたりもしています。
 それでも、違和感を隠しながら、小さい頃の生日中殺は、言語化できないレベルで一生懸命、世界に馴染もうとしてがんばっていたりするのです。

 つまり、親がそんな生日中殺の子供へのリスペクトを忘れてしまえば、生日中殺は自信を失います。そして、親はせっかく生日中殺の子供たちがもってきた恩恵の本当の意味をうけとれないまま、子育てが苦いものになって、終わってしまうと言えるとおもいます。

 実学算命学解釈では、親子逆転、だから、生日中殺の子供は、親が理解できない子供なんだということを忘れないでほしいです。
 ですので、生日中殺の子供を悪くいう親がいたら、私はちょっとまって、それは完全に親の姿勢として違ってるよ、と言いますし、生日中殺の大人の方には、社会常識に従ってではなくて、ちゃんと自分を生きてください。周りは関係ないですよ。ってお伝えします。

生日中殺は、秘めた自分の能力を、社会の常識や親の規範意識に邪魔されずに自分の定めてきた才能を地球で生かすことが大事な人です。

うちの親子関係にしても、生日中殺の娘にわたしがなにかを教えたことは一度もなく、子供から言われるのは、「一番嬉しいのは、みんなが理解してくれなくても、自分をどんなときでもママが自分の力を信じてくれることだ」と言います。

 そんな子育てしかできない、受け取る一方の子育てが、生日中殺を授かった親としての恩恵だと思っています。
参考になれば幸いです。
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