知恵の扉を開くなら、まず課題を求めよ

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占い
昨日、修験道の本拠地から教授が来て実践修行の前の基礎が始まったのですが...

 読者の方はご存知ですが、私は兼ねてから、算命学の本当の歴史的背景を浮き彫りにするため、その周辺環境をアカデミックレベルでちゃんと語れるようになるため、ただいま、大学で大陸と日本の関わりを本気で調査しています。

 「かつて、武将が算命学を使っていた」というまことしやかな、日本算命学の世界の大御所先生たちの証言は、本当だったのでしょうか。
 そして、算命学が唐代にもう成立していたというならば、日本の遣唐使たちが知らないわけがないはずなので、その時代の日本と大陸の関係性から、そもそもユーラシア大陸がどのような社会環境だったのか、をもよく知る必要があります。そして算命学として成立する中で、元になった学問がどのように発生して密教に入り込んでいったのか、活用されていったのか。

 現状、点在するヒントはいくつも転がっているのですが、それを追うために、いま仮説上、最有力になっている遊牧社会と密教世界を知る必要があります。
 ただし、もしかすると、探っていった結果、最終的に「やっぱりそれは単なる民間伝承で、占い師が勝手に作り上げた盛った話である」という結論が出る可能性だってあります。
 そう。疑問の結果、答えがどうなるかは、わからない。

でも、真実を知りたい。
 多分、学業が卒業までつづけられるとすると、それが私の卒論の研究テーマになるんじゃないかと思われます。w

 でもそこまで到達したら、なにになるのかって、....多分、何にもならないです。(汗)
ただ、「あ〜すっきりした!」と思うだけかもしれないです。

でも、今の道のりは非常に楽しいんです。

 そもそも、明治以前の日本、ひいては世界の中で、僧侶・神道家・陰陽師、いろいろと由緒正しそうな但し書きをかかげる占いとは、実際、時代の中でどのような立ち位置にあったのか、どのような活用重要度があったのでしょうか。何年もかけて、できるだけ確かな情報源を集めながら、最後には専門の目に叶う結論を導き出せるかどうか。
挑戦です。

 そういうことも含めて勉強した中で、きっと、新たな占いと人類との距離感を探る、みたいな個人的な疑問の答えも次第に判明してくるんじゃないでしょうか。占いは、機械でなんでも分析できるようになった時代になってもなお、この先の時代で必要とされるかどうか。疑問はいっぱいありますが、これを模索してたら、自分自身の意識のフェーズが上がっていきそうです。

しっかし、なんせ道のりはまだまだ遠いんじゃないかなぁ。
チベットのアルファベットを書きながら、時々考えます。
わかったと思ったら、次の疑問がわいて、広がり、膨大に範囲が広いのです...
 でも、何年もかけて、実地へ出かけ、フィールドワークを含めながら、その分野のエキスパートに地道に話を聞いていくしかない。

 一人でやったら、一生かけても終わらないけど、大学というところはその道の一流の教師や研究者を大学が揃えてくれますので、研究のための環境的な最短距離を用意してくれる点で本当にありがたいです。


 そして、そんな中、今回の修験道の授業も、点と点がつながるような授業体験になりました。

 この一年、日本における修験と密教の関わりにおいて、自分なりに仮説を立てていた部分があったのですが、その裏付けになるような証言が、アカデミックレベルの知識を持っている僧から、実際に色々と飛び出てきたからです。

ああ、そうか、やっぱりそうだったのか。

 と、自分の中でどうしても確信が持てなかった空白の部分が埋まっていきました。

 だからといって、今回はすっきりしたわけではなく、むしろ、すべてが腑に落ちたと同時に、頭の中が真っ白になり、その後、放心状態にもなってしまったというのが現在の心境でもあります。

そうだったのか.....そういう国だったのか...

その仮説をつなげた結果、判明した歴史的な日本の国体というものの巨大さが姿を表してきたからです。

 この世界、都市伝説よりも深く、また、私たちが教科書で教えられた以上に、歴史的な事実や京都の歴史的な人脈の秘められた関係性が存在していて、ものすごく深いです。裏の裏があります。
そして、それは、知りたくて動いた人しか手に入らない。
 おなじ仏教系の大学であったとしても、関東に住んでいたら、これらは絶対に知ることができなかっただろうとおもいます。

 逆にいえば、この日本の国は何十構造にもなっていて、とてつもなく深い世界が広がっている。
辿っていけば、地球の始まりにまで辿り着いてしまうくらい、深い。

空海とは何者だったのか、晴明とは結局、何者だったのか。
千利休は本当にただの茶人だったのか。明智光秀は、ただの謀反人だったのか。豊臣秀吉は、成り上がりの傍若無人な権力者だったのか。
楊貴妃からみえる、日本と唐との関係性。
全部、ならず者・明治政府が書き換えた歴史かもしれない。

追ってくと、まったく違う歴史がみえてくる!

そして京都に住んでいるので、思い立てば、すぐに現場に足を運んで確かめられるのがまた良いんです。
それにしても不思議なのは、自分が調査の線にあがってきた「要所」となるものは、決して真新しいものではなく、過去、すでに関わりをもったことがあるものばかりである、ということなんですよね。

 修験道にしても、そこへ行ったことがあるし、山へ入ったことがある。若い頃に歩き回った過去の体験から、今のアカデミックレベルの学問につながる知識を引き出していくことができるというのは、不思議で。
 学ぶことは、まったくのゼロ・スタートではないんです。

 そして最近、チベットと世界の研究者との関わりを勉強してたときも、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーの名前が先生から出てきた時には、本当に衝撃をうけました。

 彼女は西洋のスピリチュアリズム(霊性の学問)の基礎を作った人です。彼女が西洋で始めた人智学を知った時、自分的に「これだ」と思い、すごく馴染みがよかったのは、この学問のルーツがもともとチベット圏にあったからなんだ、とその時、わかったんです。

 まったく根拠はもってないけど、シュタイナー系の医療者や教師たちにこの学問はヒマラヤあたりの知識を学んでいると思う、と昔から話していましたが、やはり彼女はチベットをめちゃめちゃ勉強していた!
 今になって、それをチベット医からきいたことで、自分の人生のすべてがチベット語圏に結局、つながっていたことに、呆然としてしまったんですよね。

 自分が好み、勝手気ままに探究してきた道で出会ったものは、ひとつとして無駄な勉強や体験がなかった!ということの不思議さに、個人的な驚きを隠せないです。そして、気づけば、東北大でも駒澤大学でも國學院でもなく、京都のこのマイナーな今の大学にいるということも。

それだけに、今、自分は立ち止まって考えているんです。
自分のハイヤーセルフは、色々と人生マップ上を動かしながら、結局なにを目指して、自我をどこへ連れて行こうというのか、ということです。

これまでの一つ一つがある意味で、回り道に見えて全部必要な回り道だったわけですが、私は、基本的にネタバレが好きなひとです。目的がわからないままどこかへ連れていかれるのは、好きではありません。納得した道を、納得した方法で進んでいきたい人なんですよね。

 結局、ハイヤーセルフの自分は、自分をどこに引っ張って行こうとしてるんだろう、どこを目指しているんだろう?


 だから、そんなことを思い回らしながら、なんか今、自分自身が「停止」してるんですよね。かつてない「停止」感。とりたてて、何か感情が揺さぶられるというようなこともないんですけど、なんかいつもの通りじゃないなぁっていう。

でもこれは、よーい、どん!の前の段階なのかもしれない。

しかし、ここまできたこと自体が、自分にとっては本当にめでたし、めでたしでもある。そして、真剣に向き合ってきたことが結局は自分に全部かえってきたなぁと思う。

なにかにハマり夢中になって追っていくなかで、出会う友達や知人は、いつも笑ったけど、今は思うんだよね。周りに合わせて自分をおさえ、あの時、真剣に夢中にならなかったら、きっと、今、すべての体験の点と点はぼやけたものになっていて、つながってたとしても全体像がぼやけていただろう、って。

その夢中の源にはつねに「知りたい」があった。
知りたいから、すべてが動いていったような気がする。
「知りたい」が自分を動かしていった。

なんでそうなるんだろう?
その先はどうなるんだろう?

この気持ちがなかったら、情報も答えもやってこなかった。
たとえ、そばにあっても気がつかない。
だから、知恵を動かす起点は、すべて疑問からだといえる。

世の中に疑念を持つことから、知恵と知識はやってくる。
 どうして?があるから、知恵と知識はやってくる。
自分を取り巻くものにたいして、葛藤もなく、なんにも疑わない人間が、いくら高度な学問をうけたって、なにかを生み出すような発見には、至らないと思うんだよね。

疑問なく、ただあてもなく、学びもなく、生存本能を満たすためだけに動き回る姿は、ウォーキングデッドの中に出てくる、ゾンビとなんらかわらない。
肉体が腐り落ちて動けなくなるまで、あてもなく、反応性だけを繰り返して生きるだけに過ぎない。

目覚める、ということは、そのゾンビの自分に客観的な目を向けられること。 いったん、立ち止まって「あれ?これってなんとなくやってることだけど、今、本当にやっていることは、意味あるのか?自分ってなんだ?」って疑問に思うことから始まる。

いい意味での疑問や悩み力がない人は、その先のフェーズに至らない。
だからね、悩みを恐れちゃいけない。
悩み自体に溺れることなく、悩みの先にある答えを探究していくことに新たな認識の世界が待っている。

絶対に「それ」は、あるんだ。
どれだけしつこく、探究し続けられるかだけの話。
玉堂星と龍高星が稼働すると、そういう意味で、徹底して探求がしつこいからそれがやれるだけ。w
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