京都の実態

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今日の京都は、山の方へ春霞がかかっていました。
 さまざまな季節が、表情豊かに日々現れる京都。関東に住んでいた時には、全くわからなかった古典文学の世界観は、京都に住んでいると実感を伴って、かつてそういうものがあったことが信じられる。

 で、京都は、車よりも小回りが利く自転車が便利なので、今朝は自転車屋さんへ行って自転車を買ってきました。会話の中で「やっぱり京都は自転車がないと生活不便で〜。バス代も結構かさむしねぇ」ってお話をしてたら、京都の店員さんたちが、「え?京都の人じゃないの?」って驚いてくれた。
 そうして、個人的に、京都弁のイントネーションもなんとな〜くマスターできてきたんだな、と密かに喜んでました。

 実は英語を話すよりも、京都弁をマスターしたい。
「オキバリヤス」とか「「おはようおかえり」など、京都人ならではの言葉を日常使えるようになりたい。そして、勝手に萌えたい。
 先日、京都人の友達に、いかに京都人ぶって京都弁を使うかを教わり、お店で「おっきに」が普通に言えるようになってきた。
英語が話せるようになった時よりも、嬉しいのはなぜだろう。
「おおきに」じゃなく、「おっきに」に近い発音がネイティブ的には、ツウなのだとか。
京都現地で、新しい京都弁がネイティブ京都人に通じるたびに萌える。
やたらドキドキするわ〜

 こないだ東京に帰った時もイントネーションがなかなか抜けなくて一週間くらいたたないと、標準語モードに戻れなくなっていたら、東京であった関西人に「私は東京生まれの東京人なんです」という意味のことを京都弁で言った時、「おいおい、嘘やろ。イントネーションからして、絶対嘘やろ。」と言われてしまった。w
 東京では、東京人ぶっている関西人に見えたのかもしれない。
複雑な立場だw

 最初は東京と京都で別れてすむ予定だったピカチュウも、京都が好きすぎて、ついに京都からあまり東京に行きたがらなくなり、挙句のはてに、京都の魅力を外国人に伝えるプロの通訳案内士にもなってしまった。先週も、イタリア人とインド人に京都の文化スポットを英語で案内してたという。
 西のノリも少し覚えてきたらしく、
先日、あぶり餅を食べに行こうと家族で散歩してた時、

「オカアサン、俺、髪の毛ちょっと、生えてきてん。今まで薄くなる一方だったのに!すごくない?」って、自慢げに言ってきたので、

自分が、
「ん〜やっぱり、もう春やろ〜。あったかくなってきて、髪の毛も芽吹いてきたんちゃうかな?やっぱり、髪の毛だって、いっぱい落葉する時期もあるやろ。人間、自然と共に生きてんのや。」と返したら、

「落葉.... オカアサン、今回のお茶代、自分で出してな。」って言われた。
(髪の毛のネタは地雷なので、本当に払わされたよ....)


  一年たって、何がかわったのかを確認する意味で、玉ちゃんに、京都の公立と東京の公立と、何が違う?って夕食の時に聞いたら、

「全然違うよ。京都には地域連携の教育がある。社会科見学と言ったら、東京では大掛かりで、遠い。一年に一回あるか、工場見学をバスに乗ってするような感覚。そして見学した相手との繋がりも、見学後はない。」

 「でも京都は、ちょっと歩くとすぐに地域の大人たちと交流ができる。商店街や職人街に、学校から散歩する距離で、何度もそこへ足を運ぶことができて、道すがら子供は、顔をお店の人たちに覚えていてもらえるから、子供が知りたいことを聞きに行ったり、普通にお話しすることもできる。見学をきっかけにこの街の成り立ちがわかってくる。そして、わたしたちの街なんだ、みんながつくてるんだって思える。」

 いろんな地域から流入する大都会は子供にとって、友達は学校が変わると会わないし、簡単に遠くに引っ越してしまうし、家と学校と、やめてしまったらおしまいの習い事の世界しかない寂しいところだが、京都は人の流れがそんなにないので、同じ人が何世代も住む可能性が高い。
 だから京都市に住んでいると、付き合いたい友達とは望むだけ長く続く。

 定住者が多く、その先の代々の子孫がその土地に一生住まう、という街は、自分達の街という意識が他県の都会に比べると強いのだと思う。
 長く住むとなると、日々の自分の振る舞いと他人の振る舞いとのバランスを考えて生活しなければならないし、信用も大事なので、一旦、仲の良い友達になったら、京都人は長く付き合いが続く。
 そして、京都は案外狭い中にぎゅっとたくさんのものがあるので、しばらく会わなかったとしても、四条や烏丸などのビジネス街や商業地に行けば、知らない間に、知り合いに意外と遠くで見られていたり、どこでばったり出くわすかわからないような近さがある。
 そして懸念事項を持って「あの人、どんな人?」と聞くと、知り合いの知り合いのそのまた知り合いから、その周辺情報の正確な情報がよく流れてくる。
 逆にいうと、自分達のことも流れているはずだ。ああ、石門星。w

 だから、京都の人たちは、都会のドラマのイメージとは違い、意地悪なんかでは全くなく、むしろ、気遣いの人。他人を自分達の仲間という目線を持って生きていて、社会とか人を思いやる力が他の都道府県よりもずっと高いと、いつも思う。(でも、京都の人に言わせると、宮崎県民は、さらにさらに人が素敵なんだそう。京都の人たちは、いつも謙遜するので、それで言ったのかもしれないけど。)
 そんなわけで、京都人がサスペンスドラマどおりの自分さえ良ければいいとか、意地悪な人間たちだったら、そもそもこんな密度の高いところで、顔突き合わせて平和に暮らしていけるわけがないのだ。京都は、社会と関わり合ってしっかり生きている人の率が多い。基本的にお互いの思いやりや気遣いが成立しているから、狭い敷地でも隣り合って生活できる。
 そしてそういうコミュニケーションの躾を、京都の教育はしっかり子供たちに指導している。感じ悪い態度をとると子供は本当に先生に怒られるらしい。
 反面、街にトラブル要素がやってくることに関しての警戒心は、割と強い傾向があると思う。だから新規開発者や外国人には住みにくい土地になる。
 京都の人は、何でもかんでも新しいものを受け入れるんじゃなく、良い面は取り入れるけど、まずはこれを取り入れたときに長期的にどうなるのか、ものをよく見定めようとする守りの傾向がある。
だから自分でものを考える人の率も圧倒的に高い。

 あ、そうそう、最近、CHAGE&ASKAで有名なASKAさんも、自分達とそう変わらない時期に京都に引っ越してきたらしい。京都が元々好きで、住みたかったんだそう。京都はアーティスト気質の人、学者肌の人には理解があるので、住みやすい土地だと思う。

京都に引っ越すと関東の世話になった人たちに挨拶した時、「あんな人間の質の良くない都市にいくもんじゃない。早く帰っておいでよ。」とどの人たちからも強く警告を受けたもんだが、こんなふうに、一般的に知られている東山方面に多い観光都市としての京都の世界と、京都市の庶民の実生活の世界はまるで違う世界が広がっていて、これらは京都と言っても、別物だと思った方がいいと思う。
 そして、駅周辺、商業地や東山方面の日本人が冷たいのは、実際は、ドラマ通りいけずな京都人というよりも、彼らが商売を通して、外国人や観光客の人の質の悪さを長年、経験してきたからだと思う。

 先日も東山でピカチュウは、中国人がぽいっと投げて食べ散らかす、アイスのコーンの残りを黙って拾っては、店のゴミ箱に入れていた。
 彼らは、みんなが着物で通る道や、寺や神社の参道を汚すことをなんとも思っていない。京都の人が英語ができなくて注意もできない状態を見かねて、「言葉がわからねぇならお前らの言葉で俺が言ってやる」とピカチュウは随分、マナーの悪い外国人たちに憤っていた。
 通訳案内士の仕事は、無知・無礼な外国人から京都社会を保全する仕事も含まれていて、舞妓さんの写真を撮りたい、とカメラを持って、いきなりお茶屋さんに上がっていく外国人カメラマンたちに恐怖するお茶屋街からも、正しく日本の礼儀を彼らに伝えてほしいと頼まれている。

 観光地って大変だな、と自分の体験の中でびっくりしたことは、中国人観光客が地下鉄に乗ってきた時、いきなりお尻を向けて自分の膝の上に座ろうとしたことだ。何事かと思った。
 デブ系のおばちゃんで、あかん、自分の膝が潰れる!とびっくりして、脇に避けると、してやったり!とばかりに、途端においでおいでして、中国語で大声で仲間を呼び、自分が避けて、席が広くなった場所へ、その仲間とでかいケツを二つ並べて、悠々座ったのだった。

何か言え。

 言葉がわからなくても、目の前の人間というものに敬意を払う心があったら、ジェスチャーで、友達を座らせたいから寄ってくれ、と言ってくればいい。

 地下鉄に乗っていた他の日本人もそれを見て、小さな声で「うわ〜」と思わず言葉を発していた。
 東京人の態度の悪さは陰湿で人扱いしない点で無礼だが、中国人とは、また無礼さの種類が違う。京都にいる中国人のひどさは、ステークホルダーにならない限り、目の前に自分以外は存在しないかのように、尊大で無礼な態度を取るところにあるのだ。日本人の家族のお祝い事の食事中に、グループのテーブルに中国人観光客がずかずかとやってきて、顔を突き出して皿を眺め回した後、これを作ってくれ、と指差し、厨房にオーダーするという体験をした人もいる。相手の心を思う心がない。

 こういう経験をしても、一般の多くの京都人はため息をつきながらも、忍耐する。揉め事を起こさないように気遣う。当たり前のことを注意して、グーグルのレビューに文句を書かれる身にもなってくれ。と思いながら、京都人たちは彼らのミスの修正を黙って補完する。
 そういうのを見ると、あ〜この人たち日本人だな、って、自分は思う。

そして海外の観光客は、日本語をわからないことをいいことに、時々無銭乗車することがある。言葉のやりとりに時間がかかるので、市バスが発車できない。すると「わかった、もうええわ。」と追い払うしかない。市バスの赤字はこういうところからも加算される。
 ある時などは、「日本の代表地としておもてなしをすることが我々の仕事だということはわかっています!しかし、外国のお客様がた、言わせてください!」と時刻表無視・窓から勝手に手を伸ばす危険な海外の客たちに、京都市バスの運転手が半泣きで、アナウンスで呼びかけていたのを聞いたこともある。
 また、京都駅で、スーツケースを引いてた外人がぽいっと駅にペットボトルを投げて捨てて、知らん顔したのも見たことがある。
 そして錦市場は、外国人の食べ歩きストリートに変貌してしまった。伝統の市場の姿はだいぶ失われた。
 これが観光都市・京都の今の実態だ。

 他県民は観光で来てもらえたら、潤ってありがたいだろう、と安易に考える。しかし、京都の一般市民の多くは、観光とは全く違う普通の生活関連業種についていることが多いので、どこの国の人だろうが、寺や神社へ行く観光客とか、外資系ホテルの宿泊客を優遇しても、何か税金的に大きなメリットがあるわけではなく、逆に観光客の増加によって市民生活の制限が多くなって困ったと考えている。
 黙っているが、京都は、マナーの悪い観光客にかなり耐えているのだ。

だから、ブータンとか三鷹のジブリ美術館じゃないけど、京都全体に入れる観光客の訪問数を一定にするため、事前チケット制とかにすればいいのになぁと密かに思ってる。毎月一定数に決まれば、ダイヤを乱されることもなく、ピークに合わせて拡張させたり、値段が乱高下することもないと思うのだ。

 そういう意味では、あくまで京都人の許容値によって、京都の観光サービスが成立しているのだということを、よそものの自分が、彼らに代わって、日本国民に、お伝えしておきたい。
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