9.11 海外添乗員

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コラム
2001年9月11日。
アメリカの同時多発テロがあった日、私は、カナダのバンクーバーにいた。
海外添乗員になって3年の私は、大学の農学部の森林を専攻している学生20名を連れて、2週間ほどの研修ツアーの添乗員としてこの地にきていた。

学生の研修ツアーには、教授も同行するので、私自身も学びが多く、好奇心旺盛の私としては、ワクワクする仕事の1つである。

カナダは林業の盛んな国で、添乗員としても何度も来ているが、観光地ではない森をひたすらバスで走る体験は、私もほぼお客さん状態だった。

素人の私からすればただの木も森林を専攻している学生からすれば、日本では見られない木がたくさんあるらしく、「いい木」があるとSTOPという掛け声と共に、バスが森の道中で止まり、一同、バスを降りて、教授からの木のレクチャーが始まる。

最初は、説明に感動していた私も、これが何日も続くと、次第に感激度が薄れ、STOPとまた掛け声がかかると、半ば「ぎょえ!!」という心の声が思わず漏れそうになり、教授の話しを聞きながら、「今晩の夕食何かなー」などと考えてしまう。そんな中、学生はいたって真剣だった。

9月11日は、そんな研修がほぼ終わり、そろそろ研修の最後のお楽しみバンクーバー観光を2日後に控えていた時に起きた。

テレビのニュース映像は、まるで映画を見ているかのようで、頭が混乱した。
実は、8月28日にこれまた添乗員として、高校生の修学旅行でニューヨークに行っていた。
また6月には、今、目の前で燃えている、世界貿易センターの最上階でとある会社の報奨旅行の添乗員として、表彰される優秀社員のお祝いの夕食パーティーで訪れていた。

最上階110階までエレベーターであっという間で、マンハッタンの摩天楼を見ながら、ジャズでNew York New Yorkを聞いた時は、鳥肌が立った。

あの時、お世話になった、スタッフの皆さんが大丈夫だろうか?と胸騒ぎがした。

そんな中、テロのあった日は、アメリカ中の空港が全て閉鎖された為、アメリカに着陸する予定の飛行機が隣国に緊急着陸となり、カナダ中の空港は、大混乱になった。

当然、私たちが滞在しているバンクーバー空港も例にもれず、スケジュールがめちゃくちゃに。結局、3日後に帰る飛行機も飛ばず、1週間、滞在が延長になった。

幸い、私達は、森の中の大学が持っている寮の滞在だったので、ホームレスになることはなかったが、同期の添乗員が率いていたツアーは、通常の観光ツアーのため、ホテルの延泊ができず、空港で寝泊まりしたとのことだった。

20名の大学生達は、ほとんど初めての海外旅行。いつ日本に帰られるかわからないということで混乱していたが、私は、ミーティングの際に、「皆さんは、将来、世界史の教科書に載る出来事が起きた国の隣国に研修でいたことを
一生忘れないことになるでしょう。これから大きな戦争になるかもしれない、そんな重要なことが起きました。」と説明した。学生の顔が引き締まり、そこから冷静に皆がなった。

ようやく帰れることになったものの、すさまじい、セキュリティー検査が空港で待っており、帰国便は、空港に5時間前に行き、飛行機が離陸した時は、安堵からか、機内で飲んだワインががつんと私にパンチを浴びせ、死んだように寝て、あっという間に日本に到着していた。

あれから、20年。

NYには、2010年に友人訪問で訪れているが、貿易センターが消えたNYの姿をみて、よくわからない虚無感に襲われた。

結局、テロの恐怖、アフガニスタンは、20年前に戻ってしまったかのような状態。何も変わってないような気がするのは、私だけでないだろう。
でも確実に時は20年流れ、私も年を取った。

今年は、20年の節目の年だったので、ここ数日、多くのドキュメンタリーを見た。あの日、貿易センターやペンタゴンで生存した人達、ブッシュ大統領が当日、訪問していた小学生達の今の姿など、改めて、あの当時の映像を見て、
すごい出来事だったと感じた。

自分は、相変わらず生かされている。テロやその後の戦争で亡くなった人のことを思って手を合わせることしかできない。合掌


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