呪いと祝福 感想文

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ゴールデンカムイが無料で読める期間だったので、読みました。
途中までは読んでいたんですけど、まさかこんなことになっていたとは。
今回は最終回までの尾形百之助についてのお話です。
ネタバレしてますので、読了後に読んでいただけると幸いです。

この兄弟に情緒をグッチャグチャにされて、語ることができないから示すしかない、みたいな境地に至りかけたけど、私はヴァシリのように示すだけの力がないので、やはり語るべきだろう、語らなくてはと思い、いくらか落ち着いた今、改めて感情をまとめようと思います。

「いていいはずがない」

尾形が戦場で勇作さんに人を殺させようとしたときに、「罪悪感を感じない人間なんていていいはずがない」と言って抱きしめたシーンは自分の中の腐女子を大変動揺させたため、ひとつの可能性を覆い隠してしまいました。
最終回までこのポンは気付かなかったんですが、この言葉は勇作さんが尾形を責めたり慰めたりするために言ってるんじゃないんじゃないかということです。
勇作さんがあの場面で「罪悪感を感じない人間」として指したのは尾形ではなく、自分と父親だったのかなと思うんです。
尾形の父は尾形の母親を見捨てた。彼女が死んだことの責任は自分たち親子にある。だから勇作さんには、自分と父親が尾形の母を殺したという罪悪感があったのではないか。

だから勇作は自己否定する形で「罪悪感を感じない人間なんていていいはずがない」と言ったのではないでしょうか。

私は貴方に対して罪悪感を感じています。
私は祝福された人間の人生を奪った責任を感じています。
貴方の生は祝福された生だということを知っていて、それを奪ったのです。

尾形の思考は、全て「自己」の経験、面影のようなものを現実に起きていることに投影して結論付けるところがあるように感じました。
人間はみんなそんなもんだと尾形は思っていたのかもしれませんが、彼の世界(大きく出たな)の把握の仕方は、他者が存在しません。究極のひとりぼっちなのです。
他者が存在しない、と書いてみてちょっと言い過ぎだと思ったのでもう少し言葉を分解しなきゃいけません。

例えば私が居て、これを読んでいるあなたがいて、私はこの文章を読んだ人の感想をおおよそ想像している。つまんない、下手くそ、面白い、なんか小難しいこと言ってる、腐女子乙(今、乙って使うのでしょうか)、くどい……等、思考できる限界まで書き連ねると多分相当な文字数になるのでこの辺にします。
ですが思考の限界っていうのが確かにあって、自分が書いた文章が、想定外の受け取り方をされたとき、「その発想はなかった」と驚き、不安になったり感心したりする。その時、私は自分以外の他者を強く感じるのです。そして、その時こそ文章を書いていて一番嬉しい瞬間です。

尾形において存在しない他者というのは、彼の思考の限界の外側にいる存在のことを指します。

「自分は祝福された人間ではない」「花沢勇作は祝福された人間である」という概念が、命題(使い方あってっかな)にすらならなかったから彼は勇作さんの言葉のに含まれる可能性を察する事が出来なかったのではないでしょうか。

涙を流して抱擁し、憐れみの言葉をかける弟を冷めた目で見ていた尾形は、「いていいはずがない」という言葉が、自分に向けられていると分析した。
なぜなら、「人を殺しても微塵も罪悪感を感じない」なら、殺人を拒否した花沢勇作は罪悪感を覚える「いていい」人間であるから対象ではない。
だが、尾形百之助はそうではない。だから人間であることを否定されたと感じた。
言葉の可能性を尾形は知らない。いや、知ってる筈なんだけど、その広がりがちょっとひねくれている。だから、考えもしなかったんじゃないか。花沢勇作が自分に対して罪悪感を抱いているとか、それ以上、他の何も抱えられないほどの大きさであるとか、だから一番死にやすい旗手として償いを行っているのではないか、とか。
そういう自分が生きることを祝福する他者が存在するという方向に尾形の思考は向かなかった。それは彼の思考の限界の外側にあったから。思いもよらない事だったから。

しかし、尾形が分かろうが分かるまいが、祝福する他者は存在した。それは変わらない事実だ。事実は変わらない。
だから尾形百之助は祝福された人間だった。同時に、呪われた人間だった。

祝福と呪い

祝福と呪いは似ている。というか、本質は同じじゃないかなと思う。
話が転がりますが、例えば、結婚おめでとう、という祝福は、「結婚はめでたいものだ」「結婚した自分は幸福でなければならない」「そうでなければ自分は間違っている」という呪いになり得る。
結婚式を間近に控えた友人たちが必ず愚痴を言っていたのは、祝福の言葉に対して、現実にやらなければならないあれこれ(「決まらない」)で疲労を感じるのに、それをあたかも感じてはならないような気がしてしまうから、精神的に参ってしまうやつだ。

善意から口にする祝福の言葉が、人を追い詰める呪いになってしまうことはよくあることで、その時、自分の感情や感覚を見失わずにいることは実は大切なことだった。

祝福と呪いは受けるものという点で同じものだ。
そこには受け取る自分と与える誰かが存在しなければ成り立たない形がある。
大切なのは、与える側の感情はあくまで与える立場のもので、そのまま自分の感情も同一である必要はないと理解する事だ。
与える側が、自分の思った通りに言葉が届かないと理解するのと同様に、受け取る側も自分が受け取った言葉に対しての印象が、与える側が持っていたものと完全には一致しないと理解しなければならない。
理解した上で、相手と自分、双方の気持ちに折り合いをつけるという思考を私たちは普段行っているように感じます。

でもそれは言うほど簡単な問題じゃないから、人間関係ってこじれるわけなんですけどね!

話を戻します。
尾形は父親に呪われろと言われた子どもです。
しかしそれは、彼を延命させる祝福でもありました。そんなものなくても尾形は勝手に生きていくことでしょうが、彼がそれを記憶して忘れない限り、それは脳の中で何かしらの影響を及ぼし続けるのです。
尾形百之助という人生の一部として、一生を寄り添う、彼の永遠から切り離す事の出来ない部分になってしまったのです。

だから彼は祝福されていない自分にこだわり続け、「そうあるべき」人生を歩んで自分を示し続けたのではないでしょうか。
祝福されていない人間の人生はこうだ、祝福されていない人間はそれでも、偉い軍人さんになれてしまう、それくらいチョロいもんなんだよと何もかも嘲笑うことで、得られなかったものを乏しめる。別になくても良かったと、欠けた自分を肯定しようとした。
ただもう、この時点で尾形は自分自身の生を祝福しているのです。
本人は考えてもいなかったかと思うのですが、彼こそが祝福されていない人間の生を、誰より祝福していた。

だから、彼は自分が他者によって祝福されていたと気付いた瞬間、頭を打ちぬいた。
自分がずっと祝福していた人生が、実はどこにもなかったんだから。彼が望んだ「祝福されていない人間が祝福される」人生なんて世界中のどこにもなく、もう二度とそれを追求することができなくなってしまったのだから、生きていても意味がない。

あの場面で二つの呪いと祝福が反転します。
父親からの呪いが、まだ負けまいと祝福された自己を否定し(それを受け入れると死んでしまう=生存を望む)、勇作からの祝福が命を手放すことを肯定する(銃身を支えていた悪霊の描写)に繋がり、彼は勇作の祝福と呪いを選んだ。
その選択において、彼を殺したのは「愛」だったと私は考えます。

腐女子だからそうやってすぐ、と思われてしまいそうですが、私が考える愛と、これを読んだ方が感じる愛という言葉の印象はきっと同じ重さではないでしょうから、きっとそれでいいのです。
私の言語の限界でそれは愛としか言いようのないもので、人間が最期の瞬間に選択肢があったとして、選ぶ権利があるとして、選んだ対象を、またはその関係性を、愛していないと思えない。

呪いと祝福は与えられるもので、与える側の意図は与えた瞬間に失われ、それ自体が与えられた側の思考の範囲に着陸する。
自分の思考の中でそれは呪いに、祝福にカテゴライズされ、時にそのカテゴライズ自体は変わっても、本質というかそのものは変化せずにあり続ける。
それを祝福と取るか、呪いと取るか、どちらであっても、選んだことが大事なのです。

最期の瞬間、尾形百之助は生きる事より愛されて死ぬことを選択したのです。
生きる事より大切な物を手に入れて物語から退場したのだから、彼の生は幸福であったと私は思いました。

変態の天国

ゴールデンカムイは変態に優しい物語です。
どんな変態でも、大体何かしら目的を果たして死んでいきます。
生まれたことそのこと(変態であること)が罪であるというような人間の描かれ方がされていない、その点でとても幸せな物語だなあと感じました。

それを面白おかしく書いてくれるから読んでいてシリアスになりすぎず、丁度いいバランスで考える時間をくださいました。

すごく巨大な主語で語るなら、「どんな人間だって、生きる権利はある」と様々なキャラクターの生きざま、死にざまを楽しく学ばせてくださった上で、尾形の死はシリアスな文脈で同じことを語り直し、総括したような印象を受けました。

私の読解力は高校現国3(たまに2)程度なので全くアテになりませんが、囚人=罪人の生存への赦しが、尾形百之助という人間の生命を軸とした、作品の主題のひとつに入っているんじゃないかな、とか思うのです。

山猫の死
尾形百之助の物語は、ヴァシリに描かれる山猫の死という作品として日本のIT企業に買い取られるところで終わります。
ヴァシリが描いた年代から、尾形実は生きてたんじゃないか説やそれだけ描くのに試行錯誤したんだよ説など、いろいろな説をツイッターとかで見て、私はニコニコしました。
山猫の死は絵画であり、絵は見られる事で人の脳の中で生き返るからです。
あの絵が物語の中に登場したとき、読者はきっと、尾形を思い出したでしょう。死体の絵を見て、生きている尾形百之助の姿を同時に思い浮かべたはずです。
死体は生きていたから死体になるので、死んでいたということは、生きていたことの裏付けになる。化石を見て、これが何万年前に生きてたんだなーと思うように、物語の中でも、外でも、人はあの絵を見て山猫の生を思うのです。人が思うたび、彼は脳内で生きる。そして忘れない限り、永遠に生き続けることができるのです。

心の中で生きている、と言っちゃえば安っぽい言葉に聞こえちゃうかもしれませんが、それって結構すごいことだと思うんです。

だって私たちは彼を、心の中に生きることを祝福したんだから。彼が求めた祝福を授けることができるのだから。

それは呪いに変貌することもあるかもしれないけれど、語ることをやめてはいけない。語り続けなければならない。沈黙は化石を地底深くに沈めてしまう。
私の思考の限界は狭く、用いる言語は稚拙だけれど、語り続けるだけ、尾形百之助は脳の一部に住み着いて、私の人生に寄り添い一緒に歩んでくれるのだ。

これだけ語っておいてなんだけどこんなことを語るのは、さびしくってしょうがないからなんだろう。
そう思われる生は幸福な生だと思うけど、生きてる方はたまったもんじゃない。
でも、生きていていいのだから、死なない方がいい。
呪われて祝福されて、人間は死にそうになりながら危なっかしく生きていく。
なんか思ったより当たり前のことを無暗に難しく書いちゃった気がしてきたぞ。
こういう長い話を、尾形はきっとまともに聞いちゃくれないだろうな。


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