奮闘する高校生

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 「こんなに真剣に考えたのはじめてです!」
 〝熱闘甲子園〟というと、夏の高校野球の熱戦をつたえるキャッチフレーズですが、実は宗門の龍谷総合学園加盟校の高校生たちが毎夏、龍谷大学を舞台に熱い議論をたたかわせていることをご存じでしょうか。
 「龍谷アドバンストプロジェクト」と題されたこの企画は、今年で10年目。各高校から選出された高校生たちが、仏教、法学、経営学の三つの分野ごとに分かれ、サポーターの大学生たちとともに3日間泊まり込みで与えられたテーマにそって議論し、意見をまとめます。最終日はプレゼンテーション大会があり、もっとも優れたグループは表彰されます。
 私は仏教分野の担当講師として参加。私が高校生に出したテーマは、ズバリ「社会を変える方法の探究」でした。身近にある社会問題をどうすれば解決できるのか。自分たちにできることは何か。普段の思い込みをこえて「多角的・複眼的」に探求してみようと高校生たちに投げかけたのです。
 「多角的・複眼的に物事をみる」。すなわちいろいろな方向から物事を捉え直してみるというのは、大学での学びの基本姿勢です。しかし、単なる学びの姿勢だけでなく、仏教の教えとも深く通底しています。
 いうまでもなく仏教では、自らの自己中心的で固定的なものごとの見方を離れ、ありのままに物事をみること〈如実知見(にょじつちけん)〉の大切さが繰り返し説かれてきました。お釈迦さまは次のような言葉をのこされています。
 「諸々(もろもろ)の事物に関する固執(こしゅう)(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故(ゆえ)に人はそれらの(偏執(へんしゅう)の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。
(スッタニパータ七八五偈、中村元訳『ブッダのことば』)
 私たちは知らず知らずのうちに、自分自身や物事に対してこだわり〈固執〉をもって生きています。それらはすべて、自分の都合のよいようにという自己中心的な見方からくるものです。お釈迦さまはまさに、こうしたこだわりこそが自らを苦しめるものであると見抜かれたのです。
一見ばらばらでも
 さて、高校生たちはこうした大きなテーマのもと、各自が関心のある社会課題を選びました。ある学校では、「死にたい」という人に向き合うにはどうすればよいか、という自死の問題を取り上げました。また、文化の異なる海外からの旅行者のマナーをどうしたら理解できるか、という問題や、殺人のような重大な犯罪を犯した者とどのように向き合うのか、という問題。あるいは、人工知能と人間は共存できるか、といったテーマもありました。
 一見、ばらばらに見えるこれらのテーマ。しかし、私はある一点で共通していることに驚きました。それは、自分とは一見異なり、ときにはわかりあえない存在である「他者」とどのように向きあい、理解しあうことができるのかという点です。無理解や拒絶ではなく、対話しながらこの社会を生きるという方向。はからずもこの点に十代の若者が共通した関心をもっていたのです。
 親鸞聖人は阿弥陀仏の光に照らされた私たちの存在は、
「無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身(み)にみちみちて」おり、「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終(りんじゅう)の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」
と示されています。
 息を引き取るその瞬間まで、自己中心的な見方から離れられない私であるということ。このことは同時に、私たちが他者とわかりあうのは本質的にきわめて難しいという厳しい現実を示しているように思います。
 実際に「犯罪」をテーマに取り上げた高校生たちは、議論をすすめるうちに、「自分が被害にあった場合でも相手を尊重できるか」といった難問にぶち当たり、言わばきれいごとの結論は出せないことに気がつきました。
 現実の社会的課題の多くは、きわめて複雑な要因が絡み合っており、簡単に結論を導くことはできません。しかし、一人ひとりは決して何もできないかというと、そうではないでしょう。
 容易にわかりあえると考えたり、「わかったつもり」になるのではなく、「わかりあえない」ことを前提に、それでもなお、この社会で共に生きていくにはどうすればよいのか見つめていく営み。これこそが学校という学びの場において、仏教の教えを実践することになるのではないかと思われるのです。
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