他力本願とは

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 今年の夏、私は大学の学生さんたちと、北陸の名刹・名所を訪ねました。私にとっては二十数年ぶりの北陸で、学生さんたちと一緒ということもあってか、とても新鮮に感じられました。そんな中で、ひとつ残念な光景に出くわしました。
 お土産(みやげ)屋さんに立ち寄ったときのことです。どう見ても、その観光地には不自然なグッズを扱っているコーナーがありました。興味本位で近づいて見ていると、その中に「他力本願 本当にすみません」とプリントされたTシャツがありました。
 それを見た私は、深い悲しみと憤りを覚えました。「他力本願」の誤用・乱用を助長していると感じたのです。
 そのことを先日、カルチャーセンターでの講義の合間にお話ししましたら、受講生の方から「世の中の多くの人が間違った受け止め方をしている『他力本願』の意味を、もっと正していくべきではないでしょうか。浄土真宗のみ教えの要(かなめ)ですよね」とのお言葉をいただきました。
 私はそのとき、浄土真宗の僧籍にあるものの一人として「他力本願」の誤用・乱用を正そうとしないのは、黙認しているのと同じではないかと痛感させられました。周りで間違った使い方がされていても、「この人は『他力本願』の意味を知らないな」と流していたからです。
 世の中の多くの人は、「他力本願」を「自分は努力しないで、人に期待すること。他人任せ」と思っています。たいていの辞書には、これは誤用であると記されていますが、間違いであると認識されないで使われ続けると、それがあたかも正しいものであるかのように受けとめられてしまいます。
 親鸞聖人は『教行信証』に、「他力といふは如来の本願力なり」
と表され、続けて『往生論註(ろんちゅう)』の文(もん)を引用して、「本願力」とは阿弥陀如来が法蔵(ほうぞう)菩薩であられたときにすべてのものを救いたいとして起こされた願いにもとづくはたらきである、と示されています。
 「すべてのものを救おうとされる阿弥陀如来を信じ、如来のはたらきに素直な心でお任(まか)せすること」が、親鸞聖人がお示しくださった「他力本願」の正しい意味です。
阿弥陀任せ
 では、「阿弥陀任せ」は「他人(ひと)任せ」と、どう違うのでしょうか。
 親鸞聖人が関東の門弟たちに送られたお手紙の中に「第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです」
と述べられています。
 また、法然聖人のお言葉として、「他力には義(ぎ)なきを義とす」(他力においては、自力のはからいがまったく無いことが、教えの根本の義である)と随所に示されています。
 親鸞聖人は晩年に「自然法爾(じねんほうに)」の言葉をもって「他力」を述べておられますが、その中に「弥陀仏の御(おん)ちかひの、もとより行者(ぎょうじゃ)のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然(じねん)とは申すぞとききて候(そうろ)ふ」
とあります。
 「行者」とは念仏を称えるもののことです。「南無阿弥陀仏とたのませたまひて」とは、「阿弥陀如来を信じ、たよりとして」という意味です。もとより私のはからい(思ったり行動したり)によって救われるのではありません。「必ず救う」という本願を信じ、あるがままの状態で阿弥陀如来にお任せしていくこと、それが「阿弥陀任せ」です。
 小林一茶は文政二年(1819)の年末に、「後生(ごしょう)の一大事は、その身を如来の御前(おんまえ)に投げ出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御(お)はからひ次第(しだい)あそばされくださりませと、御頼(おたの)み申すばかり也......ともかくも あなた任せのとしの暮(くれ)」と詠(よ)んでいます。
 「あなた」とは阿弥陀如来のことです。阿弥陀如来を信じ、たよりとする一茶の素直な心が読み取れます。
 今年もあといく月で終わりを迎えますが、お念仏の日暮らしの中に、行く年来る年を迎えられたらと思っております。
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