【ショートショート】パンをひとつだけ

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寒い。
寒すぎる。
羽織のフードも頻繁にめくれあがるし、しっかりとかぶっているニット帽すら飛んでいきそうな強風で実際の気温よりも体感はかなり寒い。
自然と下を向いて歩いてしまうからか、いろいろなことを考えてしまう。
今日はいい日だった。
そう思える日がここ最近、続いている。
素直に喜ぶことができればいいのに、性分なのか「これがいつまで続くのだろうか」「いいことが続いた分、先で悪いことが待っているのではないか」と考えてしまう。
我ながらもったいないとは思う。
勝手にひとり悶々としながら強風に押されて2歩3歩と不規則なステップを踏むと、いつもの道で新しいパン屋を見つけた。
オシャレな外観で普段はあまり入らないタイプの路面店。
何種類かのパンがあったが、その中にチョコレートで顔が描かれているものがいくつかあった。
なんとなくそれが目について、気づいたら吸い寄せられるようにレジ前に立っていた。
店主も感じがよく、すぐに試食をすすめてきた。
いつもは断るのに、これまたなんとなくすすめられるがままに試食をしてしまった。
試食と言いつつも、1カットがとても大きい。
頬張ると口の中に珈琲とバターの香りが広がった。
「……おいしい」
無意識のうちに言葉がこぼれてしまって自分でも驚いた。
独り言のようになってしまって感じが悪かったのではないかと恐る恐る店主のほうを見ると、満面の笑みとともに「ありがとうございます!」という言葉が返ってきた。
「これと同じものをひとつ、ください」
「はい!ありがとうございます」
買うつもりはなかったのに、買わずにはいられなかった。
店主がパンをトングで取り出そうとしたその瞬間、ピタリと動きを止めた。
真面目な顔でこちらを見ている。
ああ、ひとつだけというのはやはり嫌がられるか……そう思ったとき、店主が予想外の言葉を発した。
「あの……この子でいいですか?」
私が買おうとしていたのは、チョコレートで顔が描かれているあのパンだった。
同じものがいくつか並んでいて、それぞれで微妙に表情も違う。
店主がトングで挟んでいたのは、最初に目についたものだった。
「はい。その子と目が合ったので」
「ふふふ、そうでしたか。よかったです」
可愛らしい紙袋に入れられたそのパンは、にっこりと笑っていた。

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