キライなコトバ

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コラム
好きな言葉、座右の銘なんかで、その人柄が分かるーなんて言いますが、実はむしろ嫌いなコトバの方がその人の人となりや人生観が分かるのではないかなと感じることがありますね。

好きな言葉、「愛」とか「信頼」とか「努力」「根性」「諦めない」とかねぇ。
諦めたらそこで試合終了だよ・・・と、その言葉で救われたのは、三井さんだけではないのですよ。

こころにガツンと来る言葉って、その言葉自体じゃなくて、その状況によるのでね・・・。

実際において、嫌いな言葉の方が、その人の思いだったり、生き方や考え方が透けて見えるんじゃないかなと思ったわけですよ。

例えば、私は、こういう言葉が嫌いなんですよね。
「自分が死んだ後に、〇〇が残ればそれでいい」
死んだ後のことまで、お前さんが考える必要はないんじゃなかろうか、というツッコミ的な意味で、苦手ですね。

自分の「生」の意味や意義を他人や他のモノに押し付けるのは、傲慢じゃないだろうかと思うわけです。
「自分の生きた証を残したい」とかそんなのも、なんか苦手ですね。
芸術家とか作家とか、そういう業の深い人たちのコトバだなと。
今までどれだけの人間が、何も残さずに死んでいったと思うよ?
自分だけが特別だとでも思ってるのではないですか?
まさか、ミケランジェロやシェークスピア並みの才能と運があると思っているのですか?
ある人もいるけどさぁ!
ミケやスピアンが「自分が死んだ後にも作品は残る」と思って死んだとしたら私はちょっと幻滅しちゃう。

自分が死んでも「この子は残るから」と母親が死を受け入れるシーンとか、子供にとったらプレッシャー以外の何物でもないわけです。
己の「生」くらい自分一人で完結したまえ。

「その人を忘れないでいれば、その人は死なない」とか「覚えている限り、その人はあなたの中で生きているのよ」などという言葉も、いい加減無責任なもんですよ。

いやいや、死んでますから!ちゃんと死を受け入れなさいませ。
それにそもそもで、死んだ後に誰からも思い出されない人間なんて、山といるわけです。
自分がいつまでも思い出されるくらい強烈で鮮烈な生き方をしたのかどうか、それを問うべきですねぇ。

まるで、誰からも思い出されない人や、何かしらの作品を残さなかった人間の命が価値のないもののように、自分の知らない他人の命などどうでもいいかのようなコトバを「いいこと」のように語るその姿勢が傲慢だというのです。
誰からも思い出してもらえない人生は、「悲しい」とか「憐れ」だとか、他人を憐れんでる余裕のある生きてる人なんて、この世に一人もいませんからね?

歴史上で名を残す人間と、そうでない人間。比率で考えたら、名を残すのなんて何万分、何百万、何億分、何兆分の1とかそんな確率じゃないですかね?

というわけで、私にとっては「生死」に関わるコトバ自体があんまり好きじゃないみたいですね。
それから、他人に責任をなすりつけたり押し付けたりする行為が嫌いだということがわかるわけです。
決断できない、責任を押し付けられたくない、他人の陰に隠れて生きてるのが「普通の大多数の人間」で、その人間が「自分の生きた証」などと、どの口が言うのです?ということなんですねぇ。

「こんなの無駄死にじゃねぇか」と、他人がその人の「死にざま」を判定する権利なんてないわけです。
失礼ですよ、犬死とかさぁ。

孤独死がさも悪いこと、悲しいこと、人間として一番最悪な最期みたいに言いますけど、ほんと、失礼な話ですよ。

みんなちゃんと死ねてすごいじゃん!
私なんて、死ぬの怖いからさぁ。死ぬときのこと考えたら、ドキドキしちゃうけど、「みんなちゃんと死ねたんだから、私もちゃんと死ねるはず」と信じて生きてます。






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