こんにちは。
パーソナルナースのうさぎです。
ファッショナブルなプライドを高齢者から学ぶ
私の身近なシニアは、
80歳でもまだ自分は何でもできる。
「若者の経験はまだまだ浅い。彼らは何もわかっちゃいない」と言いつつ
一方で、
診察券を忘れてきたら「ボケが来た」と笑ってごまかす。
オンラインは「年寄りにもわかるように説明しない方が悪い」と主張する
自分は年寄りではないと主張する一方で、都合のいい時には年寄りであることを主張する。→そばで見ていたら 苦笑い・・・と、思っていたら
「鷲田清一のファッション論」のことを知りました。
鷲田は、人はなぜ服をあえて着崩したり、サイズの合わないものを着たりするのかということに注目し、そこにファッショナブルな感覚を見て次のように述べている。
「ぼくらはけっして『身分相応』の、飼い慣らしやすい存在になってはいけない」。そのために必要なのは、「その存在の表面に張りをもたせてお」くこと、そして、「だれが言いだしたのかわからないような観念にがちがちにならないで、肩から力をぬいて、じぶんというものをいつも組み換え可能に、フレキシブルにしておくこと」であると言う[鷲田1996:69]
なるほど~
肩から力を抜いて
自分をいつも組み換え可能にして
フレキシブルにしておくこと
これが「ファッショナブルなプライド」なんだ!
「ファッショナブルなプライド」をもつと、生きやすさ楽ちんになるかも
ラクちんになると、視野も広がる。
閉塞したコロナ社会に、このとらえ方素敵かも♪
シニアから学ぶこと、たくさんありそう!(^^)!
🙂今回のブログは日本老年社会学会松崎さんの研究発表を読んで思いついた感想を綴らせていただきました💚 おもしろい研究
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高齢漁師のプライドに関する一考察――語りにおける老いとの距離感覚から
松崎かさね鈴鹿医療科学大学P010