鶴せんの思い出

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 昭和40年代後半、仙台三越の向かい辺りにごちゃごちゃした飲み屋街があり、その中に「鶴せん」という小さな焼き鳥屋がありました。今でも仙台には「いろは横丁」「文化横丁」「みらいん横丁」などの昭和レトロな飲み屋街はありますが、そこの飲み屋街は今はもうありません。あまりにもごちゃごちゃで汚かったので、戦後の文化として残そうとする施策はなかったのかもしれません。
 「鶴せん」は、当時60〜70代と思われるご夫婦がやってらっしゃったカウンターだけの狭い居酒屋で、私もたまに利用してました。でっかくて分厚い唇に真っ赤っかな紅を塗った陽気な女将と、ひと言も話さず黙々と焼き鳥を焼く旦那さん。そのカウンター内に子牛ほどのセントバーナードが寝そべっているという、何ともヘンテコなお店でした。
 休みなくしゃべり続け、あるいは自分で手拍子しながら演歌を歌ったりする女将と、顰めっ面したままの寡黙な親方。そのコントラストが妙に魅力的で、戦後生まれの青っ白い私でもそれが面白くて、ちょくちょく顔を出していたものでした。二十歳前後のことです。
 それに、当時ランチ店の皿洗いのバイトを夕方だけやっていた貧乏人の私でも、よく利用できるほどの安さだったということなのでしょう。お銚子1本がいくらだったかは全く記憶にありませんが、数本飲んでもお金の心配をする必要のないほど安かったのだと思います。あるいは女将がこんな若造の私の境遇を察して、何にも言わずにサービスしてくれていたのかもしれません。そんな時代でした。
 ある日、つらいことがありました。何かに誘われるようにフラフラと「鶴せん」に入った私は、悲しみを紛らわすようにひとり黙々とお銚子を空け続け、痛飲しました。「何でそんなに呑んだくれるのだ?」と女将に言われたような記憶はあります。
 飲めば飲める口だったので酔い潰れるということはなかったのですが、同じ部屋に住む友達に絡んだりして、えらい迷惑をかけたようでした。まるで安っぽいラマか映画のシーンみたいなもんです。
 のちに家に戻って暮らし始めたある日、近所の先輩と飲みながらふと「鶴せん」の話をすると、「そこ、行ったことある」と先輩は言いました。当時仙台のアパートに住んでいた弟さんと「鶴せん」で酒を酌み交わし、その後自転車に二人乗りして「わー」とか叫びながらアパートに帰ったということを話してました。とても懐かしく思い出された私は、「そのうち二人で行きましょう」と約束しましたが、それが叶うことはとうとうありませんでした。
 あの飲み屋街がいつ頃なくなったのかはわかりません。たまに一番町を歩いて三越の前を通るたびに、いつも「鶴せん」にまつわるあの頃のことを思い出します。あまりにちっぽけで侘しい思い出ではありますが、今は死語となってしまったかのような「青春」という言葉を、恥ずかしくなく言える時代でもありました。

      「同棲時代」の頃
                      阿久悠
 「70年代の青春は、ハートが露出していた。風が吹くとヒリヒリと痛み、日が照るとやがて火の玉に変わる感じがした。男と女も腫れ物のハートを気遣いながら、生きた、愛した。しかし、気遣っても気遣っても愛は傷つけ合い、ハートは泣きながら血を流した。青春とはそういうもので、だからこそ甘く美しく切なかったが、愛することはやめられなかった。上村一夫の「同棲時代」は、そんな青春を描いた劇画で、愛おしさに満ちていた。愛というかたち、青春という言葉があった。
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