スマホで監視し合う社会の到来―国民相互の監視社会の功罪を考える―

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 今年11月5日、新宿・歌舞伎町の路上でホストの男性が交際相手の女性にカッターナイフで刺された事件が発生した。女性は殺人未遂の容疑で現行犯逮捕されたのだが、この事件が注目されたのは救助に当たった医師や一般女性の助けを呼ぶ声を聞きながらも笑ったり、動画撮影に興じる人たちがいたことだった。

救護に当たった一人である医師免許を持つ実業家の男性はABEMA Primeに実名と顔出しで登場し、「民度の低さが一線を超えている」という強い言葉を発していた。

撮影者にも色んな思惑があるだろう。非日常的な場面に遭遇してとっさに救護したり救急車を呼ぶなど迅速に動く人間もいれば、そうでない人間もいる。そうでない人間の中にも、専門家でもない自分が駆けつけても邪魔になるだけだと遠慮する人もいれば、その状況を見守り熟考した後に合理的判断を下そうとする人もいるだろう。あるいは、まったく他人に無関心な人もいるだろう。ここではどれが正解かの倫理的問いを立てたいわけではなく、スマホのカメラを向ける人の心理はどれに与するのかを考えてみたいのだ。

残念ながら、今回議論を呼んだ撮影者は、その非日常の出来事とそれを証明する動画を「誰か」や「何か」に見せることに関心があって、先のどれにも与しなさそうに思える。しかし、もしかすると、何かあった時に役立つ(状況)証拠を残しておきたい(ドライブレコーダーはまさにそう)人たちかもしれない。しかし、笑いながら動画を撮っていたという証言から想像するに、おそらく「知り合いに自慢しよう」、「SNSに載せたらバズるかも」程度の感覚で撮影していたように思う。先の実業家の男性は次のように言う。


「現場で撮った動画をTwitterやストーリーに載せて稼ぐイイネ数や、知り合いに直接見せて「お前現場にいたの!?」と驚かれて満たされるその承認欲求は、 本当に大事なものなのでしょうか? 「AEDを持ってきてくれ」という言葉を無視してスマホで動画を撮り続けることが間違っているとは気付けないんでしょうか?」

スマホで動画を撮ること自体が悪い訳ではない。実業家の男性は、人命救助という大義名分下における人間のふるまいとして、良心に欠ける行動に問題提起をしたに過ぎない。

 現在、我が国では「総監視社会」という言葉が登場するほど、国民への監視が強化されているように思う。監視カメラの設置をはじめ、ICレコーダー、ドライブレコーダー、google earthやgoogle mapを思い起こせば、常に監視されている感覚に陥る。また、政治においても秘密保護法、共謀罪をはじめ、特に政権与党は「マイナンバー」導入に心血を注いでおり、マイナンバーに一貫して反対している日弁連に言わせれば、プライバシーの保護が民主主義の発展にいかに重要であるか、その民主主義の根幹にかかわる緊急の課題であるわけだ。加えて、今回のような国民レベルでの「いつでもどこでもスマホ撮影」が常態化している現状において、我々の日常はあらゆる角度から「総監視」されている状況であると言えよう。

世界に目を向けると、アメリカではボディカメラを制服につけた警察官が職務質問時にカメラ撮影をしていたりする。アメリカだけでなく韓国でも性犯罪歴のある者へのGPS装着を義務付けたり、中国でも街中や公共施設等には監視カメラが設置されており、その多くがAIを搭載した顔認証システムと連動している。それによって、人気歌手のコンサートに参加していた指名手配犯が逮捕される等、取り締まりに功を奏す一方で、やはりプライバシーの侵害という点で問題がない訳ではない。

 さて、視野を拡げ過ぎたので日本の話に戻そう。ここまで現代日本社会が総監視社会と呼ばれる所以を概観したが、この総監視社会は犯罪時の証拠になり得るためそのメリットは大きい。しかし一方で、日弁連が危惧するように、監視社会は民主主義の根幹を揺るがすプライバシーの侵害、つまり我々個人の自由を阻害する面があることは否めない。

 少し本文から離れるが、私はこの夏、友人たちの勧めでアニメ版「ゴールデンカムイ」をNetflixで視聴した。アニメを通して「アイヌ」文化を我々に伝えてくれる素晴らしい作品であると感じた。本作品の中で、私が最も興味をひかれたのが「網走刑務所」の存在であった。北海道網走にあるその刑務所は、稀代の「脱獄王」と呼ばれる人物が最後に収監される「日本で最も脱獄困難な刑務所」として知られる(広辞苑には「有名な刑務所」とだけ書かれていた!)。なぜ脱獄困難かといえば、中央の見張り場にいる少数の看守から、そこから放射状に5つの舎房が伸びた獄舎にいる大勢の受刑者たちが監視できる建築構造であるからである。網走刑務所はベルギーの刑務所をモデルに、1912(明治45)年に建てられている。
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この建造物は「全展望監視システム」とも呼ばれる監視装置で、「パノプティコン」の構想に基づいて考案された。「パノプティコン(=Panopticon)」は、panがギリシア語で「全ての」、optikosが「視覚の」から成る造語であり、すべて見渡せることを意味する。

これを考案したのは、英国の哲学者であり功利主義の代表論者であるジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham 1748-1832)という人物であった。功利主義とは、ベンサムが「最大多数の最大幸福(the greatest happiness of the greatest numbers)」と明示したことによって広く知れ渡った概念であり、社会の構成員の幸福の総量を計算し、それが最大になる仕組みがよいものであるという考え方である。

このような功利的な思想をもつベンサムの立場になれば、まず社会が安定して機能するには犯罪が減ることはよいことであるため、犯罪者を刑務所に隔離し社会の構成員の幸福を促すことが正当化される。次に、できるだけ少ない看守で一度に多くの受刑者を効率よく管理することが合理的な行動であると考えるだろう。それでも、すべての受刑者を一度にすべて監視することは物理的に不可能であるため、中央棟から円形に獄舎を配置することによって受刑者に「常に看守に監視されている」と感じさせることで、その心身の規律化を促そうとしたのである。

365日24時間監視されることを考えると気が狂いそうで、ベンサムは非情な人間なのかと思わなくもないが、ベンサムからすれば受刑者が規律的な行動を習慣化すれば出所後の人生で困ることもないだろう、だからwin-winだよね、という思いだったのかもしれない。いずれにせよ、監視されることが常態化することによって、受刑者に社会が望む規律が身体化されるわけである。

 閑話休題。この網走刑務所にみられるパノプティコン状態=「総監視」状態で何が懸念されるのか、面白い分析をした思想家がいる。ミシェル・フーコー(Michel Foucault 1926-1984)である。フーコーは、パノプティコンを登場させた社会分析と処刑の歴史分析を追い、「監視」を現代的な権力構造の表象であると指摘した。

それまでの歴史の中で、政治権力者たちは、例えばギロチンや火あぶりの刑といった、いわゆる「身体刑」を公開処刑で行うことにより、反権力者や犯罪者(社会の安寧を乱す者)が罰せられるその生々しい様子を市民に見せしめその力を誇示してきた(北朝鮮の公開処刑もこうした分かりやすい権力誇示の仕方を採用しているのだろう)。

しかし、現代においては、パノプティコンのような「監視装置」を置くことで、支配者が被支配者の心身の深いところに規律を要請し、より見えにくいけれどもより強固な権力装置を誕生させたとフーコーは分析したのだ。

確かに、「誰かに見られている状態」に置かれると、人は規律的な行動を示しやすい。キリスト教をはじめ超自然のそれもまた「誰も見ていなくても神様は見ているから」といった仮言的ではあるものの道徳律に基づいた行動規範を自身に要請するだろう。いずれにせよ、監視されるということは、実在/非ー実在を問わず、権力の内在化をもたらすといえるのである。

国民一人ひとりにナンバーをつけ、個人の財産から病歴や行動までを中央政府が管理するとなれば、何か起きたとき自分の権利が侵害されはしないか、中央政府が管理するということは民主主義ではなくまるで共産主義のようではないか、という批判も生じることだろう。

しかし先に見たように、防犯の観点をはじめ監視は、功罪の「罪」だけではなく「功」の側面もある。重要なのは、総監視社会と言えども、誰が何の目的で「監視」するのか、その対象と程度を一度丁寧に見ることのように思う。

 最新の研究では、これまでの監視それ自体への「賛/否」の議論ではなく、まさにこの点を深堀りしたものが示されている。後藤晶の研究は興味深く、監視主体と監視媒体の組み合わせによって、監視に対する人々の許容の程度が異なることが実証されている。

例えば、次のデータを見て欲しい。「監視主体があなたの監視媒体を監視する」と伝え、その許容度を示した結果のグラフである。調査は、2019年6月4日から6月5日にかけてYahoo!クラウドソーシングを用いて実施され、分析対象者は2,122名。スライダー形式で0~100点での許容度の評価がなされたものである。
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(出典:後藤晶「信頼と監視――情報社会における監視の許容度に関する検討」『公益社団法人日本心理学会』)

データを見ると、回答者たちは基本的に、対「個人」と対「マスメディア」において、被監視の許容度が低いことが分かる。一方で、信用情報システムや研究者への許容度は高く示されている。

この結果は、個人情報保護に対する信用度に比例しているものであると思われる。また、対「個人」であっても、SNSや購入履歴においては比較的監視許容度がその他に比べ高い水準にある。これが意味するところは、SNSという見られることを前提に自身の意思で投稿する媒体にはいくらかの監視を許し、購入履歴からレコメンドエンジンによってお勧め商品に容易に触れられるといった自分にとってのメリットが、「監視されている」というデメリットよりも優位になれば、許容度が増すというメカニズムであろう。

この調査によって、後藤がいうように、少なくとも「一律に監視を禁止する、ないしは監視を許容するといった状況を前提とした議論では不十分である」ことが示されている。

私が勤務する大学の学生たちを見ていると、その多くは自分の姿をインスタグラムやTikTokをはじめとしたSNSに簡単に投稿する。「先生もインスタライブやろうよ~」と気さくに誘われるが、その気さくさとは裏腹に、私にとってはとても重大な決断を迫られている気がしてフリーズしてしまう。SNS媒体を通してネットに個人情報を晒す勇気が今の私にはなく、学生とのジェネレーションギャップを日々感じる。また、最近は位置情報共有アプリというもので友人が今どこにいるかをスマホで確認したうえで「近くにいるから合流しようよ」と誘っていた。これも私にとっては衝撃的で、自分がどこで何をしているのかを家族や恋人ならいざ知らず、友人たちに常に公表するなんてありえないと思ってしまった。彼女たちにとって、必要な時にすぐに会えるその利便性が「見られている」「監視されている」という現実よりもメリットがあるということなのだろう。

 このように、我々が個人単位で監視に恩恵を感じれば、総監視社会はますます醸成されていくのだろう。そこに目をつけた悪い人や権力者の一部が、メリットを多く感じさせる監視媒体を巧みに創造して利用させれば、監視ないし管理はたやすいものとなるだろう。そして気付いたら社会は権力者の暴挙によって社会の安寧と人権が侵害され、ディストピアになってしまった、という未来も想像できなくもない。

総監視社会と謳われる今日の日本社会において、各人が「監視」の功罪を認識した上で、逆に自分たちが生きる社会の行く末を「監視」する力を身に付けたいものである。


※パノプティコンの画像は生成AIによるものである。


参考資料
(第1回のブログ同様、URLが貼付できないため参考資料名に限る)


ABEMA Prime 「【歌舞伎町】刺された人をスマホで?なぜ人助けができない?事件事故もし遭遇したら?救助した医師免許を持つ男性|アベプラ」


河村隆司「『超』監視社会がやってきた」愛知県弁護士会会報「SOPHIA」平成29年2月号より


後藤晶「信頼と監視――情報社会における監視の許容度に関する検討」『公益社団法人日本心理学会』


朝日新聞デジタル「中国の監視網、数秒で20億人識別 プライバシー侵害か」


東洋経済ONLINE「日本人がゾッとするアメリカ超監視社会の現実 データを集める警察を市民はチェックできるか」


集英社オンライン「〈歌舞伎町ホスト刺傷〉『AEDもってきて‼』刺された被害者のそばで懇願するも約40人の群衆は”フル無視”でスマホ撮影…救助した実業家が語る現場の“異様”」


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