証券版「半沢直樹」1996年夏の回顧録①

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マネー・副業
この内容は別サイトに掲載したものを転載したものである。

TBSドラマで再び半沢直樹が始まる様だ。このドラマは銀行を舞台にしたストーリーだが、私がかつて勤めていた証券会社で私が体験した事実を書いてみたい。20年以上経過したので、当時の上司も居ない事だろうし・・・

私は1987年に新卒でとある証券会社に入社した。大手証券会社の内定を蹴るという約束で、当時ではギリギリ採用の9月にワンランク下の証券会社に入社試験もなく入った。

入社後2年間は、当時の主流であった「中期国債ファンド」を集める事。新規開拓として毎日、数百件の訪問をしていた。その実績は確実に表れ、後に表彰されることも有った。

時代はバブルの真只中、新人の私にも株式のお客様も増え、本当に真面目だった私は、入社2年目で、超ビッグな資産家を顧客になってもらった事もあった。家は大きかったが、古くかった。そんなお金持ちとは思わず、気の良いお爺さんだったが、ある日、私が支店に帰ると大騒ぎになっていた。

その顧客(お爺さん)は、四季報にのっている銘柄の個人大株主でもあった方だったのです。早速、支店長案件としてVIP対応となった訳だが、その時のお爺さんが、〇〇さん(私の名前)しか対応しなくて良い、と言って下さったのが今でも印象に残っています。

入社2年目で株の事など全く分かりもせず、推奨銘柄どうするか?など考えていましたが、全く案ずることなく、お爺さんから銘柄指定されデータを持って行くと1週間後には素晴らしい手描きのチャートが出来上がっていました。それを見せられ、注文は全て寄付きで頂いていました。後で分かったのですが、お爺さんは様々なチャートを描いていて、その一つが完璧に色分けされた一目均衡表だったのです。当時はよく当たっていましたね。

お爺さんには本当に可愛がれ、相場の事など何もわからない私をいつも説明してくれていました。まるで理解できていなかったのですが(-_-;)

そして、当時、私が結婚すると報告しにいくと、1か月後に絵画をプレゼントしてくれた。3つあるうちの好きな方を選びなさい、と言われ全く絵画など分からない私は、逆にどれがお勧めですか?と聞いたら、はっきりと、コレを示して下さってので、それを頂いた。

あの絵画をどうやって支店に持って帰らずに自宅へ持って帰ったのか?それは全く記憶にない

後で調べて分かった事だが、約50万の価格が付いていたのに腰を抜かした。
今でもその絵画は自宅にあるが、残念ながら保管の管理が悪く、カビが生えてしまっていた。

さて、そんな株式相場もバブルは1989年大納会で、日経平均 38957円という高値を付けて以降、バブル崩壊へと向かっていきます。

当時はバブル崩壊など考える事もなく、というか当時の私を含め証券マンは勉強しない、知識不足というのが当たり前でした。

普通に株式推奨し、お顧客は、結果的に損をします。それが日常。また、当時の投資信託は今のオープン型ではなく、スポット型と言って4年満期2年クローズ(2年間解約できない期間あった)が主流。クローズ明けの2年後は1割~2割の元本損失が当たり前のような状態。月間ノルマの株式手数料、投資信託販売金額など雁字搦めの日々でした。

そんな不条理な証券マン生活で、転機があったのは、1993年。何があったという事ではないが、私は真剣に相場の事を勉強しようと思った。入社から既に5年目だった。周りの上司や同僚が株式業界新聞しか読まない中で、私は必至にチャートの勉強をした。今思えば、証券マンならそれくらい出来て当たり前かもしれないが、全くそんな雰囲気は無かった。

毎日、数十銘柄の日足を描くには時間が掛かりすぎる。そこで、当時はとても珍しかった時間を全く無視したチャートであるP&Fを使ってみた。そして、多くの銘柄を引きながら、私が達した一つの大きな判断は、

「日本の株は騰がらない、それどころか、まだ下がり続ける」

「ドル円は円高が限りなく進む」

という事だった。

これで、「株が買えるわけない」「株は売るものだ」という相場観に火が付いたのだが、実際には、お客様に「持ち株全部売りましょう」と言っても必ず、返ってくるお決まりの言葉は「損切りはしない、出来ない」

また逆に「売られせて違う株を勧める気だろう」とも言われた

私は「売却代金は振り込みます」といっても、やはりお客様は売却する事はなかった。

そんなお客様に数か月後、訪問すると、やはり株価は下がっているので、
「あなたの言う通り、売っておけば良かった」とほぼ全員が口にするのだ
で、私は「まだ下がりますから今のうちに売却しましょう」と言っても、やはり殆どのお客様は二度と売却する事がなかった。

そんな中、私は2度目の転勤になり、新任挨拶に「持ち株全部売って下さい」という変わった挨拶で変な証券マンが来た、と噂になっていたそうだ。

しかし、私の相場分析は日々、深刻の度合いを深めていった。

そして、私が最終手段で取った行動は、信用取引のお客様開拓だった。評価損を相当抱えている現物株を担保に信用取引口座を開設してもらい「空売り」を専門とする事だった。

幸い、私の話に興味を持ってくれたお客様は10名ほど居た。
ここから、私の証券マンとしての光輝く実績と最後に地獄が待っていた
次に続く
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