周囲の運氣を底上げする人、"あげまん"って本当にいるの?

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・本題の前に


この項に書くのは当たり前のことです。

特定の誰か(A)から視点をうつしましょう。
その周囲の別の誰かを中心にして視点を置き換えたときには、今度はもともと見ていたAが"周辺"として機能するということ。

誰かにとって自分が"環境"であるということは確認しておきましょう。

今回の話は、この"誰かは他の誰かに影響を与えている"ということを前提とします。





・他者の運勢を強くする人とは


タイトルで触れた、人の運勢をよくするような人というのはいるのかという質問、その答え。
結論からいえば、間違いなくいらっしゃいます。

一般に言われている"あげまん"の特徴というものをまとめてみると、大別してたった2つです。そのたった2つが、多くの具体的な側面から語られているにすぎません。それは、以下です。

与えることが上手く、奪うことがない
(損得や打算を超えている)
自分の力の及ばないところのせいにしない
(自分に今なにができるかがいつも意識にある)

ここからひとまず
一般的に語られる特徴について、上の分類に従って、今まで出会ってきた人たちの顔や声も思い浮かべつつ話してみましょう。





○与えるということ


いつも笑顔で、ニコニコとしていて、口角が上がっている人が近くにいるとき、他者もまた"鏡"のように似た活動を促されるようなところがありますから、一緒にいて悪い気はしません。(ミラー・ニューロンによって説明されることがありますが、多くの説が飛び交っていて本当のところ分かっていることは多くありません。経験的に笑顔につられやすいことは認めうるでしょう。)

質問がうまいというのも、与えることが上手いことと関係しています。与えて奪わない意識のある人というのは気遣いも洗練されてきますから、その場の空気を和ませるような質問を投げかける力に優れていることがあります。

パートナーが仕事に集中しやすい環境づくりができるであるとか、合理的な判断を下せたり、金銭感覚がしっかりしているといった特徴が挙げられてきたのも、損得や打算からそうだというよりはむしろ、直感的にそれが豊かさを増すことに繋がることに無自覚であったとしても気づいているからでしょう。


○自分に何ができるか


相手におんぶにだっこということはまずないですね。協力することは上手だけれども、依存して依存しっぱなしということはないでしょう。自分にできることはやりつつ、頼れる部分については(相手を認めるということも含めて)頼るのが上手だといいます。

噂や流行に流されることも少なく、また自分の考え方の軸が明確にあるため、自分をすり減らすこともせずに済むのでしょう。愚痴や妬み話を好む人が少ないというのも、他人をどれだけ貶めたところで何も解決しないという合理的な判断に納得していて、うまくいかない現状への吐露に終始することに、意味を見出していないからかもしれないですね。

それ以上に、誰もが完璧でなく、間違いを犯し危険を冒すことを前もって認めているということもあるかもしれません。それゆえに現状に対する不平不満は、自分たちがこれからどのように変えるか、解決すべきひとつの問題として扱う傾向があります。アップデートを重ねていくことのほうに視点があると言い換えてもよいかもしれません。

過ちや短所は素直に認められる知性的な部分は、与えることこそが結果的に全体を豊かにするという直感的理解と、合理的な考え方と行動に裏打ちされているように思いました。





・僕からみたまわりの運を引き上げる人たち


上ではほとんど理想的な状態について語ってきたけれども、前向きであるというのも、笑顔であるというのも"与える"一形態にすぎない、ということにもうお気づきでしょう。

むしろ"正当に怒る"ことこそが与えることに繋がる場合もあります。

また、極端に後ろ向きにみえたとしても、すべての不安を払拭していくような石橋を叩いて渡る慎重さの裏返しであることもあります。

ですから、いわゆる"あげまん"であることと、前向きで口角が上がっていることとは必ずしも一致しません。(それこそ自分をすり減らし、切り崩してまで笑顔でいようとしたら本末転倒です。)


ここまで書いて、振り返りつつ思いますが、自分で自分を満たすことが上手(くみえる)な方が多いです。結果的に、見返りなどを気にすることもなく周囲に"与え"続けることができるようにみえるのでしょう。実際には与えている瞬間にすでに与えられていることに気づいている(見返りは即時与えられている)からこそ、他者に期待をしないという面もあるのかもしれないな、と思った次第です。それだけ楽しい時間を送っている方が多いから、結果的に笑顔でいることが多いようにみえるのでしょう。


それこそ他者の人生を良くしよう、とさえ思っていないのかもしれない。結果的によい方へと向かっていくのだけれど、ほかの人たちと一緒にいる(あるいはひとりの時間をただ感じている)その一瞬一瞬が、しあわせな時間を"与えて"くれていることに自覚的だからこそ、そういう姿勢が保てるのかもしれませんね。





・僕もまだ道半ば


まだ道半ばにさえ到達していないのかもしれません。日々自分の間違いに気づき、修正する日々を送っています。こんな我の強さが自分の中に残っていたかと苦笑することも少なくありません。

どうも何を言いたい文章だったのか分からないようなところがありますが(今回の記事に関してはこれといって僕に主張したいことがないからでしょう)、「お布施」という言葉について考えさせられたことや、自分の心のうごきをよく観察する機会を得たこと、そして多くの方たちと関わらせていただけている現状への感謝をしたためたのではないかという気がします。

まとまりもなく、長さも読みやすいかどうか(僕個人としては)怪しいところがありますが、感謝の気持ちを込めてこの文章を読んでくださったみなさまにおくります。





(おまけ)

・スピリチュアルの側面から語る……?


今回あえてエネルギー的な話などは少なめにしてきましたが、実際のところ自然に与えられる人というのは、受け取り上手でもあります。いわゆる高次の視点でいえば、他者に与え続ける人に注力しておけば、少ない労力でその周辺まで含めて一気に状態をよくすることができるわけですから、"お得"です。(高次存在は我々が常日頃考えているよりは、はるかに忙しく、それこそ何らかの高次存在が足をとめてまで何かを話してくれるというのは、"一大事"です。)

自分自身を大切にしている人には、大喜びで力を貸してくれるようなところがあります。

真の意味で"敵がいなくなる人"です。





ではでは^-^




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